就職活動時に自己分析したものを元に作ったのでやたら自己主張が
強い文章になってます。気分が悪いので読まんほうがええですよ。
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Character? 自分がやる!と思ったこと。これええやん!と思ったことはドジを踏みながらもとことんやる。しかも快楽主義者なのでどんなことでも楽しんで取り組む。そこんとこ、おおざっぱでいい加減。自分にないものを取り込んでいくことにもどん欲で、他人と同じものを提案するのはいや。調子に乗ればふつう考えないような、わけのわからんことをいいまくってる。 |
Now? メーカで中量産品部品の輸出を担当。 わけわからんながらも試行錯誤(錯誤しまくり?)で業務に当たっています。 見積もり→受注→工程フォロー→出荷→請求→入金 という一連の流れの他に、システム全体の見直しが仕事内容ですねぇ。たぶん。 |
Hobby?
以前は地球の敵と考えていた車を乗り回してドライブへ出かけることも多々。 でも、ちゃりもいいよー |
天安門事件の起こった1976年、中国の春節、日本の節分に生まれる。
●2/3(水)
まめまき、節分の日
ジョン万次郎、10年ぶりに帰国 (1851)
福沢諭吉、死去。68歳(1901)
札幌で第11回冬期オリンピック開催(1972)
※今日が誕生日の人
二葉亭四迷(1864)
ノーマン・ロックウェル(1894)
烏丸せつ子(1955)
川合俊一(1963)
猪猿 龍にすれば、ブタ、サル、リュウと、3つの動物がそろう。
どんなに恥をかこうと、苦しもうとも自分の幅を広げ、深めることに快感を感じるマゾ。そして人の話を聞くのが好き。それゆえ研修旅行や学外授業などあらゆる形で人と接することがあると知れば参加。そのように経験から学ぼうとする中で文化、職業、年齢を超えた人たちと接し、物事をいろんな角度から見て自分なりの価値観を形作ってきました。 数学の公式をそのまま鵜呑みしないということに現れるように、自分で理解して納得したものしか自分のものにできない。そのため楽して周りに流されたり、惑わされたりすることは心底ではあまりない。
地下鉄東西線市役所前駅付近で、よい意味では有名ではない京都ホテルの前にある。
教会はとてもきれいで、よく説教を聞かされた。ステンドグラスがきれいだと思っていたのを覚えている。そこでは触れてはならないもの。崇高なものを自分の中に形成したと思う。
工作をよくして紙で立体的な町を作ったりした。そして、”作ること”の楽しみを知る。
弟を連れて天王寺近くのばあちゃんちまでしょっちゅう行くことによって、自立心、責任感、が養われた。また、そこから世話ずきになり、旅ずきになった。新しいことに取り組むのが平気だと考えるようになったのもそのせいかもしれない。
あとになって知ったことだけど、角倉了以が作った高瀬川のほとりにある小学校。丸善の近く。
僕が在学していた頃、17人。だんだん減っていって6年になったとき、1年生は2人。そして入学生はいなくなった。ドーナッツ現象のため、母校はなくなった。廊下の木の板がなくなっていたり、シャワー室が、ナチスのシャワー室を思わせるほど怖くてエキサイティングな小学校だった。
一番怖かったのは、理科準備室にあったホルマリン漬け。200以上なぜか保存されており、動物の有りとあらゆる臓器がおかれており、掃除当番になれば、その瓶を拭かなければならなかった。サル丸ごとは入っているものもあった。今でもなぜそんなものが多数保存されているのか不思議だ。
Aの形をしたトライバランスという竹馬のようなものが一時期はやった。そのとき、放課後けっこうはまってやりまくって、学校でも一番になったと思う。あと、一輪車もクラブ活動でよくやり、鴨川の河川敷を10kmぐらい旅したりもした。そのことで、自転車に関するものの関心が高まり、人とは違うことに取り組むことに興味を持ち出したのだと思う。バレーボールもしたけどヘディングとかばっかりしてたかな。
学研をずっとやっていた。学習と科学があったけど科学の方ばかり読んでいた。宇宙とか、電気とかすごい興味があった。付録はちゃんと作って楽しんでた。そのことで、理科。特に電気、化学、物理分野の知識はかなり深いものとなっていっていた。本屋に行って母に”でんき”の本買って!といったら”エジソン?徳川家康?”とか聞かれて”電気”と応えたこともあった。でもそれからだろうか、本当に伝記物の本も読むようになり、学習のもうもきちんと読むようになっていた。
読むのはよいにしても作文は苦手。1枚書くのに何時間もかかっていた。けど、5年のときに、ねたを箇条書きにしてから文章を書いてみろといわれ、そのとうりにして見ると、驚くほどの量の文章が書けるようになっていた。
4年生から2年ほどかな。放送部に属していた。そこでは先輩の面白いアイデアをどんどん取り入れ、学校内のテレビでクイズ番組や校内探検番組を放映したり昼の放送を担当したりした。そして不特定多数を相手に話すことの楽しさを知った。
ドリフターズや、ひょうきんぞくという番組が大変面白かった。ザ。ガマンとか、芸人が自らを傷つけ、笑いをとることを学び、自分もそうありたい。そうなりたいと思った。それは、学芸会において役を演じる機会が多かったことから来ているのだと思う。
小学生時代、毎日新しいことを吸収していた。そう自分で思っていたけども、ある時、そろそろ学ぶものがなくなってしまったのではないか。大体知ってしまったんだろう。細かいことは抜きにして。でも、まだまだ新しいものを探していかなきゃ楽しくない。そう思ったことがある。さらには大人は実はたいした物ではないのかもしれない。みんな神様神様、仏さま、キリスト、いろいろ信じているけど結局自分の頼りになるものがほしいだけだから、いいように解釈すればいいやん。そこまで考えていた。
御池どうり、河原町どうりと烏丸どうりの真ん中。祇園祭の鉾が学校の前をとおっていた。此処は右翼と左翼がけんかをするところだった。
小学校5年生のとき、父が突然ファミリーコンピューターを買ってきた日からゲームにはまっていた。そんで、このころは全然もてませんでした。
その後、かなりの数のゲームをやり、楽しんだけどもそのうち自分でゲームを作るということに憧れを抱くようになっていた。躍らされているのではなく、自分から踊る。そして、PC-9801RXというパソコンを手に入れることになった。驚くほどプログラミングした。お金はないのですべてマニュアルなしで。日記、こずかい帳、RPGの戦闘シーンを作ったりした。全部フォーマットしてしまって消えてしまったけど。クイズも作ったかな。中学3年のころになるとモデムを買った。自分から電話を掛けるのはもったいないということで、パソコン通信の基地局を運営した。名前は”りゅうーBBS”。基本ソフトは自分で改良しまくっていた。会員は100人を超え、大学生、塾講師、社会人、フリータなどいろいろいて、ご飯をおごってもらったり、喫茶店へ連れていってもらったりした。徹夜したりもしたし、外国人もいて、花火をやったりイベントをよくした。
中学時代から小学校時代に絶対に生きたくなかった塾にいくことになった。1年のときは3人。塾の名前は@@@同志社専塾。同志社出身の講師が教えるということになっていたが、京都教育大学や、仏教大学の人たちだった。また、同志社高校へは3年のとき20人いたが誰もいけなかった。
小学校のころからやっていたスイミング。中学になると水球をしてた。でも、そろそろ小さい子供ばかりでいきづらくなっていた。
小学校、中学校と、理科、それも生物や化学以外のものに大変興味を抱いていた。成績も悪くなかった。しかし、京都外国語大学の付属であり理科の実験室も御粗末なものだったので文型に進んだのが災いしてか、さぼっただけか。勉強はほとんどしなかった。バイトばっかり。スーパーのレジに向かってひたすら値段を計算し、おば様方に値引きできていない、レシートが長すぎるなど、激励を受けつづけました。バイトは今考えてもよい人材がそろっており、喫茶店でしょっちゅう徹夜したり、飲み会を開いたりした。
そのバイトの友達とスキーにいったときのこと。ほとんど僕を北海道のひらふ、国体コースに連れていったときは涙が零れた。恐すぎ。でも、4回ぐらいいったような気がする。いきしの船はゆれまくり、あれまくりで、えぐいほどのまれていた。けど、楽しかったな。近くの三条商店街のアーケードを開閉させて遊んだり、夜中に何時間も話したりした。。
自分なりには受験勉強をしたつもりだったのですが受験校はすべて敗退。しかも河合塾にともに通っていた友達は立命館、関西外国語大学に入学。高校時代の担任にはどうせ浪人しても偏差値は上がらない。そのようなことから自己嫌悪に陥りました。それからは職業もありません。仲間は学割で映画を見れるのに自分は正規料金。そんな些細なことで自分の情けなさを痛感しました。そこで、大学という目標に向かってがむしゃらになれるチャンス。暗いけど勉強できるスンダイで必死にがんばろうと決意しました。娯楽は必要最低限に押さえ、友人と話をすることや本を読むことでストレス発散しました。また、劣等生という悔しさをバネにただひたすら勉強しました。
大学に合格できなければ自分は一生悔やむことになる。悔やむようなことはできない。もう一度失敗することは許されないし大学に入ってからの4年間も後悔することになるだろう。自分を磨けば磨くほどよい大学生活が送れる。そう信じて勉強しつづけました。すべてを失い極限状態になり、思いもよらぬほどの力がでたからだと思います。目標校以上の大学に合格しました。大学合格時の感動は言うまでもありません。
予備校時代、派手に遊ぶことはなかったけど、友達同士、よく話をした。酒を買って鴨川の河川敷で飲んだり。ファイナルラップに燃えたり。自分を磨く。苦しいけど、何かに向かってがむしゃらになる。これが楽しかった。浪人して本当によかったと思う。
ずぼらな僕が計画表をたて、朝5時におき、1日中勉強したりした。無意味な受験勉強に意味を見出すこともできた。世界史はとても無意味に感じていたけど、英語も国語も世界史を勉強するためにあるのかな。世界史をやらなかったら、世界は無味乾燥なものになるだろう。そう思った。倫理とか哲学というものも、受験勉強には関係なかったけど好きになってよんだりした。本も読んだ。大学生になれば本をたくさん読む時間があるんだ。。いいな。。そう考えていた。
大学の合格発表があってから、阪神大震災のボランティアに3度、でかけた。2回は西宮で高校の友達と、もう1回は予備校の友達と芦屋で泊り込み。それは想像を絶する世界だった。スピーカーが落ちてきただけの被害ですんだ自分ができること。なにかできまいかと、液状化現象で出てきた砂を書き出し、散乱した食器などを整理したりした。この自信で被害に会った人たちの分まで僕は生きてやる。と思った。
そんなとき、僕は不思議と力が出る。ボーリングで238がでた。あとにもまえにもこんなスコアはなかった。
ボランティアは東京の大学受験前日までやっていた。
浪人時代に先生から言われた言葉。「LABORになるな、WORKERになれ」という言葉を胸に、主体性を養うことを念頭において大学生活を送るように心がけた。ゆえに、まわりに流されているだけの自分の意思を持たない大学生活は送りたくなかった。また、知識は受験勉強で仕入れたが、経験は浅い。そこで主体性を養いつつ、幅広く経験を重ねるようにした。それは、インストラクターバイト、子供のデイケアであり、スキーツアーサークルに属することであった。また、語学を道具として、異文化に触れることに力を入れた。アイセックというサークルのスタディーツアー、近畿青年洋上大学、大学のサマープログラム、そして自由旅行がそれに当てはまる。向上心を常に抱くということでは、趣味ではじめたスキーに関しては技術向上には、余念がなく、地獄の特訓というものに参加した。また、パソコンであれもできる。これもできる。と探求心を持って触れた。
私は知らなかったけど、同志社大学には新島襄の精神が息づいていた。
入学当初、私は強く自立を求めていた。親にああしろ、こうしろといわれる生活。食事ができるのを待つ生活。そこからの脱皮。自分の中に、確かにある甘えを脱するため、自分のことは自分でする。思いっきり自分のしたいこと。やりたいことをする。馬鹿をする。それでいて他人にできるだけ迷惑をかけない。
大学での自由はそれまで経験したことのないもの。やりたいと思えば、サークルがある。友達がいる。お金はアルバイトをすれば手に入る。時間はたっぷりある。4年間限りのとてつもない自由の時間。
でも、それまで自由の使い方を知ることがなかった。目標が外部から設定されていた。学校でいい成績をとる。いい高校へ行く。大学へ入る。でも、これからは自分で目標を設定しなくっちゃいけない。目標を設定しなくちゃ道ができない。前へ進むことができない。でも、大きな目標、それから進むべき道についてはあえて設定しなかった。そうするには経験、知識がなさ過ぎる。
ボックスにいった。テニス。球技については才能がない。玉を追いかけるスポーツはそれまでことごとく才能を発揮できずにいた。要するにだめ。旅行サークル。旅行だけを目的とすることになぜか疑問を持った。普段の活動はどうするんだろう。て。そこで、登山。小学生のころから父と山に登っていた。そこでたいへん興味を持つことになった。でも同じような理由で選ばなかった。ESS。高校時代は京都外国語大学の付属高校。英語に対する興味を多分に持っていた。そこでESSに入る。でも、夏休み前、アイセックというサークルで、英語は道具として使うものじゃないのか。そう思い、アイセックへ。アイセックというサークルにおいて日本の空洞化、そして発展途上国においての投資は必ずしも好ましいことなのかについての勉強会を行ったり、スタディーツアーで台湾へ出かけました。この間、YMCAで水泳のインストラクターのバイトをする。そんなふうにしてサークルはたくさん回った。当然、たくさんの人ともであった。ウインドサーフィン部でお世話になったときはウインドサーフィンは珍しく自分に向いてるスポーツだなと思った。冬はスキーツアーサークルで信州へ。春休みは倒産することになる旅行会社を介してインドネシアへ。
近畿青年洋上大学というのに参加した。そこでは500人ほどで中国、韓国で交流会をしたり、船で阿波踊りをしたり、環境問題について考えたりした。そこで中国語の必要性を感じ、中国語の勉強を本格的にするようになる。夏休みはその後、船で北海道へ。1週間かけてぐるぐる回る。また、立命館大学で環境学入門演習という授業をとり、環境問題について考えた。学校のゼミは川端ゼミ。会計学は商学の基本となる学問ということ,経営工学という分野について取り組むとのことでこのゼミを選択しました。会計ばかりじゃないとこがいい。学園祭シーズンはレンタカーを一週間する。そして布団を載せて13都道府県を回った。冬はサークルだけでなく、北海道へ地獄の特訓に出かけた。それは1週間スキー攻め。とても勉強になったし、楽しかった。そして、この冬からスキーのインストラクターバイトをするようになる。
3回生のときは大学のサマープログラムで中国で語学研修をし、その後ヨーロッパへ行った。帰ってからは新京極にあるセントラルフィットネスクラブに行き、中国語の検定(TECC)を受験。学園祭シーズンは韓国、タイへ自由旅行。それと平行して田辺学舎で余語湖の湖底の土の磁気を測定。年代ごとに何が起こったかを調べる。また、嵐山のサルのなかでサルの習慣を逸したサルに着目。調査を行う。詳しくは資料室にて。
その後、まもなく就職活動が始まった。組織に動かされるのではなく組織のリソースを利用し、活用することで仕事ができる会社。いっしょに働いていて尊敬できるような人がたくさんいて生き生きとしている職場で働きたい。
(今の職場はまったくその通り。うれしいどすわぁ)
就職活動のさなか、学校で行われていたタンゴを見に行きました。スペインの方が来られていて本物を見ることができました。「本物」は違う。やることなすこと、雑念がなく、全身全霊をささげている演技は見ごたえばっちりでした。僕も本物になってやる。
家族構成
父・母・弟・妹 3人
鴨川の河川敷でぼっとしたり、家の屋根の上で転がるの好きでした。自然の中で本を片手にぼうっとするのは気持ちいいもんです。
村上 春樹の作品を読んでから読書は苦痛でないことを知りました。読む毎に情景が違います。あと、プラス思考になるための実用書。東京大学物語など。
海外
中国、韓国、台湾、香港、澳門、インドネシア、英、仏、スペイン、スイス、ドイツ、マレーシアに行きました。
東北以外はたいてい。日本海の海が好きです。北海道は最高!!
ジェットコースターに匹敵するスピード。うまくすべればすべるほど疲れない。気持ちよくすべる。上達すればするほど楽しくなる、技術向上にきりがない。このスポーツにはまってしまいました。
キャンプ
海岸でたばこの吸い殻集めて火をつけたりしてます。自分で燃料を持っていかなくても燃料落ちてるやん。でもねぇ、ごみはもって帰りましょう。
COP3があって意識は高まったかな。ヨーロッパ。特にドイツなどでは関心はすごいですね。私はできるだけ分別すること。これが私にできる環境保護かなと思います。あと、自動車のエンジンをまめに切る。自転車に乗る。無駄なものは買わない。とかでしょうか。上記したように大学でちょいと勉強してたんですよね。
車は好きではなかったけど使い始めてから好きになりました。田舎道を晴天下行くのがむちゃ好きなんですぅ。