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私は、これまでの人生で、数多くの経営者あるいは組織における指導的立場の人達に出会ってきました。その人達の大半は、私より年長であり、出会った時点で既に社会的影響力も決して小さくありませんでしたが、数年前、その人達自身の立場の推移やその人達の企業あるいは組織の盛衰を振り返っていて、ある重要な事実に気付きました。 それは、その人達が経営理念や指導方針を語る際に用いたキーワードと、その後の状況変化に顕著な相関が見られるということです。 すなわち、「充実」という言葉を好んで用いる人達と、「徹底」という言葉を好んで用いる人達にはっきり分かれ、その人達に関わる運命もまた見事なまでにはっきりした例が多いということです。 例えば、社業の充実・業務環境の充実・財務体質の充実・教育内容の充実・年金制度の充実・サービスシステムの充実・福利厚生施設の充実・等々、「充実」というキーワードで経営に当たった人達は、一時的に企業や組織を安定させたように見えても、結局は抜き差しならない泥沼に陥っているのに対し、創業精神の徹底・本業の徹底・顧客サービスの徹底・教育方針の徹底・責任体制の徹底・技術開発の徹底・等々、「徹底」というキーワードで経営に当たった人達は、一時的に企業内の軋轢や業界の反発を招いて組織を後退させたように見えても、確実に企業力を伸ばし従業員に誇りと充実感を与えているように思われます。 また、個人的なレベルで振り返った場合でも、「充実」という言葉を好む人には、いつも回りの評価を気に掛け、学歴・収入・実績・地位・役職・有名人との関係といったことを誇示するタイプが多く、「徹底」という言葉を好む人には、何歳になっても若々しく、初志・目標・誇り・独創・報恩・同志との交友といったことを大切にするタイプが多いように思われます。 このような私の経験と観察の結果を計画哲学的に総括すると、「充実」という言葉を好む人は存在論的であり、「徹底」という言葉を好む人は認識論的であるということになります。 |
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汗も涙も人間が流す液体であり、どちらもそれを流すことが人間らしさの要件になっている観がありますが、これらの液体の範疇は大きく異なります。 汗は人間が健康で肉体的な労苦を伴う運動をした時に「からだ」から流れ出るという意味において「存在論的な液体」であるのに対し、涙は人間の情緒や精神がある昂まりに達したとき「こころ」から流れ出るという意味において「認識論的な液体」です。 従って、本来、人間が汗によって元気になることはあっても涙で元気になることはありませんし、また、人間が涙によって心豊かになることはあっても汗で心豊かになることはありません。 また、「汗と涙の結晶」という表現は「存在論的にも認識論的にも最善を尽くした結果」すなわち「人事を尽くした結果」であることが知られます。 |
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以前「お金」について述べましたが、一向に景気が回復せず若者の失業率も高くなっている状況下で、「お金」を巡る社会環境はますます悪化しているように思われます。下手をすると、日本全国、老若男女を問わず「お金が全て」という価値観に席巻されてしまいそうな気配すらあります。 そこで、「お金」について、このような状況だからこそ確認しておきたいことをもう一度述べたいと思います。 「お金」は「対象の価値を尺度的に均一化する」という意味において疑いなく存在論的な存在です。従って、「お金」の存在を前提とした貨幣経済が存在論的であることも、貨幣経済を立論の前提とした経済学が存在論的であることも明らかです。また、社会が存在論的になればなる程、「お金」が重要視され、拝金主義のような忌むべき思想が蔓延ることになります。 しかしながら、現在の日本の社会が存在論的であり不健全であるからといって、「お金」の存在自体を否定することは、勿論非現実的であり、到底意味のある主張ではありません。 そこで、重要になるのが金銭感覚の範疇です。計画哲学によれば、「正当に得た金銭も不当に得た金銭も金銭に変わりはない」という金銭感覚は存在論的であり、「正当に得た金銭と不当に得た金銭とは区別しなければならない」という金銭感覚は認識論的です。 存在論的な金銭感覚の人間は、原理的に倫理感覚に乏しいため、不当に多額の金銭を得ているような人間は、程度の差こそあれ必ず社会に害悪を及ぼすことになります。例えば、天下りを繰り返して非常識な給与や退職金を取り続ける高級官僚、公的資金という名の税金を自らの給与や退職金に当てている銀行役員、・・・・・といった連中は、如何にもっともらしい理屈で弁解しようとも、麻薬を密売して巨額の利益を得ている暴力団と大差がありません。 このように考えてくると、日本の社会を拝金主義から救うための2つの現実的な方策が見えてきます。一つは「金銭取得の妥当性を厳しく問い、不当に多額の金銭を得ている人間を明らかにする」ことであり、今一つは「心ならずも多額の金銭を得てしまった人間に対して、社会に役立つ金銭供与の道を示す」ことです。これらの方策が実現されるためには、一人一人の国民が認識論的な金銭感覚を再評価することに加え、少なくとも、マスコミ関係者が信念のある告発キャンペーンを継続すること、法律関係者が不見識な人間に対する合法的な制裁手段を提示すること、税務関係者が公益的事業に対する大口寄付のし易い制度を推進することなどが望まれますが、何れもその気になりさえすればさほど難しいことではないと思われます。 一方、日本の社会においては、つい百年ほど前まで「お金は不浄なものである」という社会通念があったことが思い起こされます。これは、「日本人の国民性が認識論的であるため、生理的に存在論的なものに対する嫌悪感がある」ことの典型的な事例であるように思われます。これからの日本においては、「日本人の国民性を踏まえ、日本人が心から気持ちよく生きていける方策」が求められるように思われますが、例えば、近年、各地のまちづくりで提案されている「地域通貨」のような実践活動は、日々の生活から「お金」の介在をできる限り少なくしていくという意味において、日本人の国民性に合った試みであると考えられます。 |
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学問には2つの独立した起源があり、それらに基づく2系統の学問には確たる相違があると考えられます。 すわわち、一つは大自然を対象とした「自然学」であり、今一つは人間を対象とした「人間学」です。 計画哲学的に見ると、前者は「自然界の存在や現象に関わる知識を結果論的に扱う」という意味において存在論的であり、後者は「人間界の精神や行為に関わる知識を目的論的に扱う」という意味において認識論的であるということになります。 長い歴史の中で、前者は天文学・鉱物学・動物学・植物学・等を基盤とした物理学・化学・生物学・等の「自然科学」を形成し、後者は歴史学と文学を基盤として政治学・社会学・倫理学・法学・等の「人文系諸学」を形成してきた訳ですが、近年どうもこれらの学問の範疇の相違が軽視されているように思われます。19世紀の後半からこれらを共に「科学」と称して同じように位置付けようとする立場が急増しましたが、これは、当時の自然科学に対する絶大な信頼感や目覚ましい成果にあやかって自らの拙劣な学問を正当化しようとしたマルクス系社会科学者の影響であるように思われます。 しかしながら、「人文系諸学」においては「自然科学」のように「科学的」ではあり得ない3つの要点があります。第一は「対象に対する同一性(あるいは、均一性)の仮定が妥当性を持たない」こと、第二は「現象の再現性が保証し得ない」こと、第三は「観測値(あるいは、測定値)の安定性(あるいは、一意性)を主張し得ない」ことです。従って、「人文系諸学」における決定論的未来予測やモデル解析は立論段階に致命的な誤謬を含んでいることが明白です。 このように考えてくると、「自然科学」は「科学」と呼ばれるに足る十分な根拠を持つのに対し、「人文系諸学」が「科学」と呼ばれる場合は「自然科学においてのみ通用する科学的前提」が安易に仮定されていないかどうかを厳しく検討する必要があることが分かります。特に、経済学は19世紀から20世紀にかけて目覚ましい進歩を遂げたと言われていますが、少なくとも私には「科学性」を主張すればする程人類を不幸に導いていく学問のように思えてなりません。 日本に限らず21世紀の世界においては存在論的な科学技術の更なる発展が望まれますが、同時に科学技術の暴走に歯止めをかけるべき認識論的な学問も不可欠であることは言うまでもありません。そして、その場合、本来認識論的である「人文系諸学」に対して「科学性」という存在論的な要件を求めれば、計画哲学的に自明な帰結として、科学技術の暴走に拍車をかけると考えられます。 |
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ここ数年少年による凶悪な犯罪が増加し、少年法の再検討や犯罪背景の分析がマスコミで取り上げられることが多くなりましたが、残念ながら私の見聞きした範囲ではどの見解も事の本質を捉えていないため、有効な解決につながるとは思えません。 「何故このような事件が起きるのか理解できない」というような感想を述べる人が少なくないようですが、計画哲学的に見れば原因も、そして対策も明白であり、全く疑問の余地がありません。 すなわち、凶悪な少年犯罪が多発する根本原因は「戦後の日本の世の中がどんどん存在論的になってきている」ことです。 例えば、金が全てという価値観、何でも力で解決という前提、効率や機能を優先する環境、役に立たないものは捨てるという姿勢・・・・といったものが当たり前とされるような存在論的社会では、子供は必然的に暴力的・動物的・機械的・無感動的・・・・といった存在論的人間になっていきます。 このことに気付かない限り、少年犯罪はますます凶悪化し、しかも、犯罪の対象が年少者や高齢者といった「より弱い人」に向けられていくことでしょう。 従って、最も根本的な対策は「日本の社会を認識論的にする」ことですが、当面の有効で確かな対策は「子供を認識論的な方向に向かわせる」ことです。 例えば、大人が子供達に美しいものを見せてやる、心温まる話を聞かせてやる、美味しいものを食べさせてやる、楽しい思い出を作ってやる・・・・といった認識論的な努力をすれば、子供達は必ず「人間らしい大人」に成長していきます。 このような努力は、社会全体の変革を要することかもしれませんし、個々の大人に委ねられることかもしれませんが、特に、幼児期の家庭教育や年少期の学校教育は極めて大きな役割を担っていますから、それらを積極的に支える国家的施策が不可欠です。 このように考えたとき思い起こされるのは、あの大哲学者アリストテレスが「素晴らしい国家(社会)を築く基礎は教育にある」と言っていることです。 現在の日本は、犯罪的経営を続けてきた銀行幹部救済のために2兆円とも3兆円とも言われる膨大な国費を投入しようとしていますが、日本の未来を担う子供や若者の教育のために一体いくら使おうとしているのでしょうか。 |
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範疇移行原理の示すところにより、人間的な成長は「存在論的から認識論的へ」という方向性に掛かっていることになります。すなわち、人間が成長しようとする際の努力目標は、何歳になっても「より認識論的であろうとする」ことですが、その場合、「具体的にどういうことをしたりどういうことに心掛けたりすれば認識論的になり得るのか」という問題が極めて重要であり、勿論、その答えが日々の営みを規定することになります。 これは、所謂「人間修業」と表裏一体を成すことでもあり、また、初等教育における情操教育の主要な眼目でもあって、文字通り百人百様の様々な答えがあると思いますが、私は次の2点が特に大切ではないかと考えています。 第一は「美しいものに接する」ことです。例えば、美しい大自然(山・川・海・空、花鳥風月など)に触れる、美しい絵を見る、美しい音楽を聴く、美しい歌を歌う、美しい言葉を使う、等々、少しでも美しいものに接する機会を増やすことが大切です。また、同時に「醜いものや汚いものを避ける」ことも大切です。 近年の日本の社会には、青年期になってもあまりに子供じみたことをする存在論的な人間が少なくないように見受けられますが、これは、営利のみを追求するテレビや雑誌にエロ・グロ・暴力・殺人といった存在論的情報が氾濫していることと決して無関係ではないと考えられます。 第二は「素晴らしい人間を目標にする」ことです。世の中には同じ人間であることを心から嬉しく誇らしく思えるような人間が一杯います。たとえ身の回りにいなくても、少しその気になって探してみれば、過去にいたり遠方にいたりします。そういう素晴らしい人間の考え方や生き方を手本にしたり心の支えにしたりすることが大切です。 戦後の日本では、訳知り顔の進歩的知識人が「人間は平等である」などという存在論的な主張を重ね、「素晴らしい人間と犬畜生にも劣る人間すら区別しない」という社会風潮を作り上げてきたため、尊敬され目標とされるべき人間が社会の隅に追いやられてきた感がありますが、これは、社会が本来進むべき方向に逆行するものです。 以上に示した2点は、古今東西を問わず、人間が好ましい社会を作り上げるためになすべき基本的な努力であると思われます。 |
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聖書の教えの中に「人はパンのみにて生きるにあらず」という一節がありますが、これは、「人間の存在論的な面を強調し過ぎるあまり認識論的な目標が見失われる」ことを戒めたものとも解釈することができます。 福田赳夫元首相がハイジャック事件の解決で「命は地球より重い」などと主張して国際社会の失笑と反発を惹起し、「日本人は何でも金で解決しようとし、命を懸けて守るべきものは何も持たない存在論的な民族である」という忌まわしいレッテルを貼られたことがつい昨日のように思い出されますが、あの時以来、日本の社会には「人間の生命が最も大切である」という一見もっともそうな価値観が定着してしまった観があります。 また、近年、社会の急速な高齢化に伴って、医療保健の問題や老人介護の問題が深刻さを増してきたこともあり、「健康である」ことの重要性が頻繁に説かれるようになってきました。 勿論、「生命」も「健康」も人間にとって極めて大切なものですが、ここで決して忘れてはならないことは「生命も健康も存在論的なものである」ということです。すなわち、「生命や健康は、人間が人間らしいことをするための前提」であり、決して最終目標ではないということです。これが、聖書の教えにも通ずる「認識論的な人生観」であると考えられます。 私の身の回りを眺めてみても、素晴らしい人生目標(多くの場合「志」と呼ばれる)を持って生活している人の大半は、生命も大切にしていますし健康管理もしっかりしていますが、やたらと生命や健康の大切さを口にする人に限って不摂生で、しかも出処進退がいい加減であったり金に汚かったりするように思われます。 |
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世界で最もよく売れている本(正確には、世界で最も延べの発行部数が多い書物)が『聖書』であることはよく知られていますが、2番目によく売れている本が『イソップ寓話集』であることは意外なほど知られていません。これは、長い歴史や翻訳されている国の数もさることながら、宗教や思想の違いを超えて長く広く支持され続けてきたという点においては、寧ろ『聖書』を上回る意義を持ち、「人間哲学の教科書」と言っても過言ではありません。 この『イソップ寓話集』の中に有名な「北風と太陽」の話があります。北風と太陽が旅人の上着を脱がせる競争をした際、北風は強く吹き付けて力ずくで上着を脱がそうとしますが、旅人はかえって上着をしっかり着直します。これに対して、太陽はただ暖かい日射しを送り続け、旅人は自ら気持ちよく上着を脱ぐというストーリーです。 この寓話は、北風に象徴される人間の姿勢が「存在論的」であり、太陽に象徴される人間の姿勢が「認識論的」であること、そして、人間の心を動かしたり社会をよくしたりするのは認識論的な姿勢であることを、説明や補足の必要が無い程明らかに示してくれています。 これは、暴力で言うことを聞かせようとする教師や武力で相手を屈服させようとする国家が、何れも「存在論的」であり、人間としても国家としても未熟であることを意味しています。 |
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範疇移行原理によれば、誕生から死に至る過程における人間の精神活動は、「存在論的から認識論的へ」と進むのが自然な流れであり、であるからこそ、例えば、「子供は存在論的であり大人は認識論的である」ということや「人間の価値実現の対象は存在論的価値から認識論的価値へ向かう」ということが定理的な命題として了解されます。 このような観点で人間の基本的な認識を取り上げた場合、「見る」ことと「思う」ことの範疇論的考察は重要な意味を持っています。 「見る」ことは認識対象を直接「現に実在するもの」として認識するという意味において「存在論的」であり、「思う」ことは認識が「精神のありよう」に依拠するという意味において「認識論的」です。従って、ものが見えるということはそのものが有るということであり、そのものの位置・大きさ・形状・性質などの情報を客観的に確認しようとすることが意味のあることになるのに対し、ものを思うということは本来そのひとだけがその有無・生成・消滅・内容などを了解し得ることであり、それらに関わる情報を客観的に確認しようとすることには明らかな限界があることになります。 このような事情は、例えば、「見る」こと、すなわち、「観察や観測」が自然科学の基本であること、また、「思う」こと、すなわち「想像や思索」が芸術の源泉であることを示しています。 ここで、思い起こされるのは『万葉集』においては「見る」(見ゆ)という言葉が多用され、『古今集』においては「思う」(思ふ)という言葉が多用されているという事実です。これは、「見ることから思うことへ」という流れ、すなわち、「存在論的から認識論的へ」という方向が社会の文化的成熟を示すことの一例と言えましょう。 |
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よく知られているように、イタリアを中心とした中世ヨーロッパ社会における「文芸復興」運動の名称は、ギリシャ・ローマ文化の「再生」を意味するフランス語により“renaissance”と呼ばれています。 この運動が宗教的抑圧感や社会的閉塞感からの人間性の解放を目的としていたこともあり、その名称は後世においても似たような時代状況でしばしば登場してきました。戦後の日本においても、特に1980年代の後半あたりから数多くの運動や事業等の名称として用いられてきましたが、これは、人間性を肯定的に了解する価値観が切実に希求され始めていたことの証左と見ることができます。 ところで、この名称をどのような日本語(外来語)で表現するかについて、興味深い事実があります。 重箱の隅を顕微鏡で覗くような細かい話ではありますが、私の観察によれば、「ルネサンス」と表現する人は、例えば、学術的な厳格性や正しい音韻を重視するといった「存在論的」な立場であることが多く、「ルネッサンス」と表現する人は生き生きした気分や晴れ晴れした心持ちを重視するといった「認識論的」な立場であることが多いように思われます。 更に言えば、「ルネサンス」という日本語は冷静かつ消極的な響きを持ち、「ルネッサンス」という日本語は情熱的かつ積極的な響きを持っているように感じられます。 社会的運動について常々問題になることは、大所高所からの啓蒙的あるいは評論家的活動と相当な覚悟や情熱を携えた具体的かつ実践的活動との関係ですが、何れの活動がどのような範疇の日本語をキーワードに用いているかは、行動社会学の研究テーマとしても興味のあるところです。 |
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ここ数年「人の動かし方」といったテーマの本がやたら数多く出回っているように思われますが、まず注意しなければならないことは「人が人を動かす」という発想自体が既に傲慢で無神経であるということです。従って、そのような本の大半は、自分が特別な経験や知識を持った特別な人間であるかのような「はた迷惑な勘違い」のもとになることはあっても、実際には何の役にも立ちません。 このような問題について計画哲学的に大切なことは、自分も含め人間はどのような事情で動くかということを明確に見定めることです。 私は、「嬉しい」ときや「楽しい」ときも何かをしようとしますし、「恐ろしい」ときや「悔しい」ときも何かをしようとしますが、それらの内容や結果は大きく異なります。 前者は、心の底から良かったと思えるという意味において「認識論的」であり、後者は、仕方なくやったとしか思えないという意味において「存在論的」です。 この間の事情は、「人を動かす」という発想自体の問題はともかくとして、少なくとも、人を誉めたり喜ばせたりして動かそうとする人は「認識論的」であり、人を脅したり怒らせたりして動かそうとする人は「存在論的」であることを意味しています。 このように考えてくると、例えば、マルクス主義の革命理論や合理化をちらつかせた経営理論が「一時的には世の中をよくするするように見えるものの、実は、人間の心や社会をぼろぼろにする存在論的思想」であることがはっきり分かります。 |
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「お金」(money)は、「生きていく上で必要なものである」という意味においても「質ではなく額が問題にされる」という意味においても、本来「存在論的」なものです。従って、どれだけ手に入れたとしても決して十分ということにはなりません。 すなわち、原理的な言い方をすれば、「存在論的なものは常に必要であり、決して十分になることはない」(欲望がエスカレートする根拠)ということになりますが、「お金」はその典型的なものの一つです。 「お金」に対してどのような感じを持つかは人によって異なりますが、その「金銭観」とでも言うべきものを計画哲学的に考察すると、見事なほど現実に符合することが分かります。 範疇の判別基準に従えば、どのような手段によって手に入れた「お金」であっても「お金」に変わりはないと考える人は「存在論的」であり、汗水を垂らして正しく得た「お金」には特別な輝きがあると考える人は「認識論的」であるということになります。 例えば、「口先と作り笑いで善良な中小企業経営者を騙し、分不相応な高給を貪ってきた銀行員」や「倫理教育の欠けた高等学校を卒業し、次から次へと退職金目当ての天下りを続ける高級官僚」がどちらのタイプなのかは、文字通り疑問の余地がありません。 ここではっきり確認しておかなければならないことは、20世紀後半の日本は「存在論的金銭観」の連中によって崩壊寸前に追い込まれたということです。 そして、もっと忌まわしいことは、そのような連中が未だに日本の社会を動かす立場に居座っていることです。 |
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テレビで「水戸黄門」や「大岡越前」などの人気時代劇を見ていると、登場する「悪人」には、はっきりした2つのタイプのあることに気付きます。 一つは「旦那、このあっしが嘘を付くような男に見えますかい。この綺麗な目を見てやっておくんなせえ」とかなんとか言って涙ぐんで見せ、陰でペロリと舌を出すというタイプの悪人です。 もう一つは「な、なんだと、しょ、証拠があったら見せてみろい」などと大声で喚き、証拠を突きつけられると刃物を振り回して暴れるというタイプの悪人です。 これらのタイプを計画哲学的に眺めると、前者は「信頼を裏切る」という意味において「認識論的」であり、後者は「証拠を要求する」という意味において「存在論的」であるということになります。 この2つのタイプのうち始末が悪いのが後者であることは言うまでもありません。 後者のタイプの悪人、すなわち、「存在論的」な悪人とは、例えば、権力と癒着して私腹を肥やし、酒癖や女癖が悪く、人の心は金で動かせるなどと誤解しているような悪人です。 ここで銘記しておくべきことは、「証拠を見せろ」というのは「存在論的」な悪人の常套句だということです。 現代の世の中や身の回りを、このような目で見てみると、いろいろなことが分かります。 |
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アリストテレスの言葉を持ち出すまでもなく「教育」は国家を支える上で最も重要な社会的行為ですが、教育の出発点は個々の家庭における「子育て」にあります。 「子育て」の内容には、例えば、妊娠・出産・育児・養育・躾・家庭教育・社会的訓練など様々な局面がありますが、何れの局面においても、「子供をゆくゆくはどのような人間にしたいのか」という大前提によって具体的な取り組みが大きく変わります。 この問題を計画哲学的に考察する場合、「子育て」には「存在論的な人間にすることを目的とした子育て」と「認識論的な人間にすることを目的とした子育て」があるという視点が重要です。 「存在論的」な人間とは、例えば、「もの」を大切にし、自分が目立ち自分が得をすることに力を注いで、他人に勝つことに喜びを見出すといったタイプの人間であり、「認識論的」な人間とは、例えば、「こころ」を大切にし、他人に対する思いやりや気遣いを忘れず、争いごとを好まないといったタイプの人間です。 従って、「存在論的な人間にすることを目的とした子育て」においては「自立」や「闘争」が重視され、「認識論的な人間にすることを目的とした子育て」においては「情操」や「協調」が重視されることになりますが、私の見るところ、欧米は前者の子育てが多く、日本は後者の子育てが多いように思われます。 近年、日本的な子育ては子供を徒に甘やかすだけで、国際競争に勝てないといった意見も少なくありませんが、私は日本的な「認識論的子育て」の方が優れている点が数多くあると思います。 |
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我々は、しばしば「あの人はいい人だ」とか「あの人は悪い人だ」とかいったことを口にしますが、このような場合には重要な注意が必要です。 それは、「いい人」(あるいは「悪い人」)であることがその人の「属性」であるとする見方と、その人のその時の「状況」であるとする見方があり、前者は「いつも同じ」という意味において「存在論的」であり、後者は「いつも異なる」という意味において「認識論的」であるということです。 「存在論的」な見方をする人は、或る特定の人間は常に「いい人」」(あるいは「悪い人」)であると考えますから、その人は常に「いいこと」(あるいは「悪いこと」)をするものだと思い込みがちです。 これに対して、「認識論的」な見方をする人は、人間は誰しもその時の状況によって「いい人」になったり「悪い人」になったりすると考えますから、人間は状況によって「いいこと」をしたり「悪いこと」をしたりすると思って人と接することになります。 例えば、対人関係において何か不愉快な思いをした場合、相手が(客観的に見て)「悪い人」であるが故にそういうことが起きたと考える人は「存在論的」であり、相手が(自分にとって)「悪いこと」をしたのは(自分の対応も含め)それなりの状況的理由があると考える人は「認識論的」であるということになります。 私は、「存在論的」な考え方から「認識論的」な考え方に移っていくところに人間の成長があると思っています。 |
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戦後の日本の社会を振り返ってみると、様々な組織において構成員相互の関係に関する本末がだんだん怪しくなってきているように思われます。 例えば、「病院」における医師や看護婦と事務職員の関係、「学校」における教員と職員の関係、「企業」における現業社員と総務系社員の関係などにおいて、それぞれの人間群を「同じ」と見るか「異なる」と見るか、つまりそれぞれの組織における人間関係を「存在論的」と見るか「認識論的」と見るかが、さしたる根拠もなくいい加減になってきているということです。 これらの関係について明確なことは、外部から見れば「同一組織内の人間」という意味において「存在論的」であり、内部においては「配属部門別の人間」という意味において「認識論的」であるということです。 従って、計画哲学的に見ると、組織の外の場における振る舞いや組織の外の人に対する言動が認識論的であることも、組織の内部の運営方針や諸規定が存在論的であることも、ともに誤りであることになります。 特に、最近は、組織の外にまで内部的なヒエラルキーを持ち出して顰蹙を買うような人間は少なくなったように思われますが、逆に、組織の内部において耳触りがよいだけの愚かな平等主義を唱える人間が増えてきているように思われます。 しかしながら、例えば、医者や看護婦になるための努力と事務職員になるための努力は明らかに異なりますし、「病院」という組織そのものの存立に関わる必要性も異なる訳ですから、職務内容や給与規定を均一化しようとするような病院経営は、一時的にうまくいっているように見えても、早晩、原理的に破綻するものと思われます。 今後の日本の社会においては、このような計画哲学的な検討が不可欠であると考えられます。 |
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「男」と「女」を「同じ」と見る立場は「存在論的」であり、「異なる」と見る立場は「認識論的」です。 従って、例えば、男女差別をなくし何事にも平等に参画すべきであるという主張は「存在論的」であり、男には男の役割があり女には女の役割があるという主張は「認識論的」であるということになります。 これらの主張の妥当性を軽々に断ずることはできませんが、原理的にはっきりしていることは、存在論的な主張をする人も認識論的な主張をする人も、次第に範疇的な特質をあらわにしていくということです。 「範疇保存原理」によれば、「存在論的」な主張をする人は客観論・一般論の立場を採ることが多く、権力・金銭・肉欲に対する志向が強いことになり、、「認識論的」な主張をする人は主観論・特殊論の立場を採ることが多く、信義・理想・恋愛に対する志向が強いことになりますが、身の回りを眺めてみた場合、果たしてどうでしょうか。 私は、「男」と「女」が互いに助け合って幸せに生きていくためには、男も女も「認識論的」であろうとしなければならないと思います。 |