【計画哲学の研究】



 計画哲学の研究において特に重要な課題は、学問的には「範疇論」であり思想的には「価値論」ですが、これらは何れも20世紀の知的世界(学界や思想界)では正当な扱いを受けてこなかったと断言しても過言ではありません。
例えば、「範疇論」については、G.ライル[Gilbert Ryle, 1900-76]が『心の概念』(The Concept of Mind, 1949)の中で示した「範疇錯誤」(category mistake)という概念は哲学的に極めて重要な意味を持っていたにも拘わらず、彼の言語哲学的な主張の一部としてしか評価されませんでしたし、「価値論」については、A.マズロー[Abraham Maslow, 1908-70]の提示した「欲求の五段階説」が実践原理まで高められることなく、応用心理学的な分野での評価にとどまっていました。
 これらの例を、カント[Immanuel Kant, 1724-1804]やヘーゲル[Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831]といった大哲学者以降の哲学学者(アカデミズム哲学者)の多くが、真に重要な本格的課題を見出せないまま、文献学的傾向を深めていったことの証しと見るかどうかは人によって見解の別れるところですが、現在において確かなことは、所謂「心身問題」も未だに解決されていないし、「マルクス主義」を上回る実践原理も未だに提示されていないということです。
 このような事情は、計画哲学の研究が「範疇論」と「価値論」の再評価の契機となること、そして、21世紀になって「範疇論」と「価値論」が広く再評価されるにつれて「計画哲学」自体の意義が高まることを意味しています。


●範疇論
 我々が物体を観察しようとする場合、ある特別な道具や装置を用いることによって、それまで予想もしなかった世界が劇的に明瞭に見えることがあります。「望遠鏡」・「顕微鏡」・「赤外線カメラ」・「CTスキャナー」などがその典型的な例ですが、それらは何れも我々の観察の対象を正しく拡張してくれています。
 これと同じように、我々が物事を深く考えようとする場合、ある特別な概念のフィルターを通すことによって、それまではっきりしなかった事柄が劇的に明らかになることがあります。それが「範疇」(カテゴリー、category)と呼ばれる概念であり、アリストテレスの範疇の例を挙げるまでもなく、優れた範疇を前提とした哲学が高度の演繹性を持つことは明らかです。
 しかしながら、設定した範疇の演繹性(あるいは、説明力)を増そうとすれば範疇の数を増やさざるを得ないという半ば自明なジレンマがあるためか、現代の大半の哲学者は当初から「少数の明解な範疇を設定することによって、できる限り多くの事柄を説明しようとする態度」を放棄しているように見受けられます。
 また、一部の哲学者は、二元論的な範疇設定を凡庸で陳腐なものとして斥けながら、自らの思想を構成する主要な概念の範疇的な吟味をしていないように思われます。
 このような事情に鑑み、私は思索の契機を基盤とした二つの根源的な「範疇」を提示しています。

 西洋の古代哲学においては、「大自然」を主たる対象とした外的な刺激を契機とし、「もの」を「見る」ことによって成立する思索が「自然哲学」の系譜を形成し、「人間性」を主たる対象とした内的な要因を契機とし、「こころ」で「思う」ことによって成立する思索が「人間哲学」の系譜を形成したと考えられますが、それらはそれぞれ近代から現代にかけて「存在論」(ontology)と「認識論」(epistemology)という二つの思想系譜に引き継がれてきました。
 従って、「自然哲学に基盤を持ち存在論で扱われるべき概念領域」「人間哲学に基盤を持ち認識論で扱われるべき概念領域」という二つの範疇を設定することには十分な妥当性があると考えられます。
 私は、前者の範疇を「存在論的」(ontological)、後者の範疇を「認識論的」(epistemological)と呼んでいます。

 このように範疇を設定した場合、随伴的に3つの問題(範疇論的問題)が発生します。
 第一は「範疇の判別の問題」です。
 私は、「一つのもの」に対しては「証すことによって受容されるものは存在論的」・「信じることによって受容されるものは認識論的」、「二つ以上のもの」に対しては「同じとするものは存在論的」「異なるとするものは認識論的」という基準で範疇を判別し、それぞれの範疇の特質を考察しています。
 第二は「二者の関係の問題」です。
 これは、二元論的な範疇をした場合に必ず生じる問題ですが、特に「存在論的」・「認識論的」という範疇を設定した場合は、それらの関係をどのように了解するかという根本的態度が大きな問題です。
 私は、一般に「二つのもの」の関係について考える場合、それらのものを「対立的」(antagonistic)であると見るか「調和的」(harmonious)であると見るかということを重視しています。
 そして、日本人の伝統的なものの考え方の特徴は「二者の関係を調和的に見る」ところにあると考えています。
 第三は「範疇の原理の問題」です。
 私は、「考察の妥当性は範疇が同じであることによって保証される」ことを「範疇保存原理」「人間に関わるものごとは存在論的なものごとから認識論的なものごとへ進む」ことを「範疇移行原理」と呼んでいます。


●価値論
「価値」(value)の問題が学問的に扱われるようになりましたが、現在に至るまで価値概念の規定は必ずしも明確に定まっている訳ではありません。
 特に、価値概念の起源が「認識主体の嗜好や願望」にあると見るか「認識対象が性能として持っている属性」にあると見るかは、「価値論」(axiology,theory of value)の立場や性格を大きく異なったものにしています。
 例えば、哲学や倫理学では前者を前提にすることが多く、心理学や経済学では殆ど例外なく後者を前提にしています。また、前者が主観的かつ個別的という意味において認識論的であり、後者が客観的かつ一般的という意味において存在論的であることは、価値概念の起源にも範疇的区分があることを示しています。
 ところで、日本語における最も究極的な価値概念は、「よい」という形容詞によって示されますから、日本語で「価値」について語る場合、「価値がある」ということは「よい」ということであり、逆に、「よい」ということは「価値がある」ということになりますが、ここで注意しなければならないことがあります。
 それは、「よい」という表現は判断主体の認識に重点が置かれたものであるのに対し、「価値がある」という表現は判断対象の属性に重点が置かれたものであるため、どちらの表現を採るかによって、「価値」の範疇が無根拠に印象付けられてしまう可能性があるということです。

 価値概念には二つの重要な意義があります。一つは「向かう」という意義であり、今一つは「依る」という意義ですが、私は、前者を「志向的意義」、後者を「依拠的意義」と呼んでいます。
 「志向的意義」は、「価値」が我々の意図や関心の発生を促すものであり、更には、追求や獲得といった行為の動機を形成するものであることを意味しています。従って、このような意味における「価値」は、例えば、意図・目標・目的・発意・動機・意欲・期待・希望といったものと結び付いて扱われたり論じられたりすることになります。
 これに対して、「依拠的意義」は、「価値」が我々に規範や基準の設定を促すものであり、更には、判定や決定といった行為の根拠を形成するものであることを意味しています。従って、このような意味における「価値」は、例えば、規範・基準・判定・決定・選択・適用・評価といったものと結び付いて扱われたり論じられたりすることになります。
 ここで重要なことは、「志向的意義」が、判断内容の個有性という点においても随伴する行為の主体性という点においても主観的であらざるを得ないのに対して、「依拠的意義」は、判断対象の一般性という点においても判断の結果が了解されるべき必要性という点においても客観的であることが要求されがちであるということです。
 例えば、我々がある対象について「美しい」という価値概念を持ち出した場合、「志向的意義」ということであれば、それは持ち出した人間が対象との関わりも含めて自己の意思を表明したということですから、「美しい」根拠をも含め価値概念を持ち出すべき必然性を問われることはありませんが、「依拠的意義」ということであれば、それは対象に対してある種のレッテルを貼ることになりますし、また、対象と関わる人間の判断との兼合いもありますから、実際にどこまで明示するかは別としても、「美しい」根拠や価値概念を持ち出すべき必然性を用意しなければなりません。
 このような事情は、価値概念の意義の妥当性が問われる場合、「志向的意義」については主観性の範囲内で妥当性が問われ、「依拠的意義」についは客観性の範囲内で妥当性が問われることになることを意味しています。

 私は、「人間の価値的本性」(価値的な事柄に対する人間の本質的性向)として重要なものが四つあると考えています。
 第一は「求善性」と呼んでいるもので、「人間はよいものを求めようとし、よいことをしようとする」という性向です。
 これは、見方によっては、性善説の主張、倫理学的な仮説、経験的な行動原理、などと見ることもできますが、もっと現実的に、自らも含めて身の回りを眺めてみると納得できることが多々あります。実際、我々は、多くの場合、よいと判断したことをやろうとした方が愉快ですし、また、自己の行為がよいものであることを望んでいます。
 第二は「向上性」と呼んでいるもので、「人間はよりよいものを求めようとする」という性向です。
 これは、「人間は、より高度の価値を追求する」という意味においても重要ですが、「人間は、よいものを得ると、それを求めるべき対象にはしなくなる」という意味においても重要です。実際、我々は、現状に甘んじることなく向上心を持ち続ける反面、しばしば、既に得たものに対する感謝の念が薄れがちです。
 第三は「肯自性」と呼んでいるもので、「人間は自らの存在と意志をよしとしようとする」という性向です。
 これは、「人間は自らの存在をよしとする」(「誰しも自分はよい人間であると思っている」、「人間にとって生きることはよいことであり、死ぬことは悪いことである」という内容を含む)・「人間は自分にとって都合のよいことをよしとする」(「人間は人間以外の生物に対して優先的な存在権を持つ」、「大自然は人間の役に立つように利用されるべきである」という内容を含む)・ 「人間は自分の意志で何かをすることをよしとする」 (「人間は自分の意志以外の力で動かされることを嫌う」という内容を含む)という三つの意味において重要です。
 第四は「馴慣性」と呼んでいるもので、「人間はよいものごとに慣れる」という性向です。
 これについて重要なことは、「人間はものごとに慣れると、求めるべきものとしてはよしとしないが、依るべきものとしてはよしとする」ということです。例えば、我々は同じようなものを何度も見ていると、退屈な気分になったり飽きてきたりしますから、何かを求めようとしている時は慣れることが否定的に判断されることになりますが、我々は同じ人と長年付き合ったり、同じ家に長年住んだり、同じ道具を長年使ったりしていると、それに愛着や安らぎを覚えるということが少なくありませんから、何かに依ろうとしている時は慣れることが肯定的に判断されることになります。
 このように、人間にとって「慣れることが、よいことなのか、悪いことなのか」ということについては、対象や状況によって判断が正反対になることすらあり得ます。

 「価値」にも範疇的区分があり、範疇に関する二つの原理が成立します。
 「もの」を「見る」ことによって成立し、認識対象の属性として扱い得る価値は「存在論的価値」であり、日本語では多くの場合、例えば「強い」・「明るい」といった「ク活用の形容詞」で表現されます。
 また、「こころ」で「思う」ことによって成立し、認識主体の心象としてしか扱い得ない価値は「認識論的価値」であり、例えば「美しい」・「正しい」といった「シク活用の形容詞」で表現されます。
 これらの「存在論的価値」と「認識論的価値」については、「範疇保存原理」と「範疇移行原理」が成立します。
 「価値」における「範疇保存原理」が意味することの内、最も重要なことは、「存在論的価値は存在論的状況で求められ認識論的価値は認識論的状況で求められる」ということです。
 また、「範疇移行原理」が意味することは、「人間が求める価値は存在論的価値から認識論的価値へ移行する」ということですが、これは「衣食足りて礼節を知る」という格言を計画哲学的に換言したものに他なりません。


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