たった一人の肉体へ 



古い柱時計が
突然
時を刻むことを
忘れてしまったとしても

それはそんなに
不幸なことなのだろうか
お役ごめんの
もはや景色にすぎないことが
こわされる物質であることが

夢見る詩人が
突然
夢を捨て
詩を忘れてしまったとしても

それはそんなに
不幸なことなのだろうか
はっと気が付いたのではなかろうか
己がどこまでも
たった一人の肉体であることに
なんの飾りも役立たぬような

恋多き女が
突然
恋を忘れたとしても

それは世間が言うほど
不幸なことだろうか
はっと気がついて
帰るべき故郷へと
帰っていったのだろう
快楽も役に立たない
老いていく肉体
たった一人の肉体へ

大昔、父は
突然しゃべることを
忘れてしまった

幼い僕はこれほどの不幸が
この世にあるとは思えなかった
しかし父の年を大きく越えて
やっと思えるようになったんだ
それほど不幸なことじゃないと

家族を愛することも忘れ
命より大事であった仕事も忘れ
父は
帰っていったのだろう
たったひとりの故郷へ
息することさへ
やがて忘れて

悲しいが
けして不幸じゃない
たった一人の肉体へ




                      (2002.12.27)


センチメンタルキャメラ