この文章は神奈川県高等学校国語部会発行の「神奈川県近代文学資料(第7集〜11集)」にコラムとして掲載されるものである。
なお、この文を書く上で杉山康彦先生(和光大学元学長)の「川崎の文学を歩く」(1994年9月多摩川新聞社刊)及び野田宇太郎氏の名著「文学散歩」(第7巻)を参考にさせていただいた。川崎の文学を概観するためにはまず必読の書である。
河上徹太郎(第4集)はその著「自然の中の私」で(昭和47年昭和出版刊)の中で次のように述べている。「何故柿生なんかに住んでいるのか、とよく聞かれるが、始めは深い子細はない。戦災で東京を焼け出され、友人の白州次郎の好意に甘えて鶴川村に居候しているうちに、近所を探してここに住み着いたまでだ。然し、住めば都なんて痩せ我慢をするまでもなく、仲々いい所であることを感じるようになった。」
彼は昭和22年11月から、没する昭和55年まで川崎市片平962番地(現在の川崎市麻生区白鳥)に住んだ。「農作物に恵まれていないが、それを補う副産物としておいしいのは柿と筍である。それだけに、柿の老木は枝振りの稜々たるのや、竹藪のすがすがしいエメラルド・グリーンはこの地方特有の風物である。」「東京へ引っ越す気がしない最大の理由は、昨年から猟銃を始めたからである。獲物の主なものは小綬鶏と鳩である。(中略)縁側で銃に弾をこめて一歩踏み出すともう猟場である。」
この山荘のような家には、川崎市多摩区に居住していた庄野潤三(第1集)をはじめとして三好達治(第5集)、久保田万太郎(第6集)、石川淳(第11集)、井伏鱒二(1898〜1993)等多くの作家たちが来訪している。
柿生の地は昭和2年に小田急線が通るまでは、まさに陸の孤島であった。文学の香りとしては、蕉風の太白堂桃隣の流れを汲む太白堂桃家の影響の下で、農民俳諧文学が盛んに行われていた。川向こうの世田谷に在住していた北原白秋(第1集)も、世田谷街道を使って柿生にしばしば訪れた。特に王禅寺は彼の愛する寺であった。白秋がはじめて王禅寺に詣でたのは昭和10年10月のことである。同年6月に多磨短歌会を結成し機関誌「多磨」を創刊していた。白秋の心身共に充実した時期である。この王禅寺詣でが白秋の詩心をいかに豊かにしたかは、歌集『ついばみ』に収められた長歌によって窺われる。
柿生ふる柿生の里、名のみかは禅寺丸柿、山柿の赤きを見れば、まつぶさに秋かけたる、柿もみじ散り交ふ見れば、いちはやし霜か冴えたる。照る玉や梢に多に、下照るや径映えたつ。げに柿生、柿植ゑ、老柿は屋群さしう。年いよよ柿は神さび、うやうやし人はものいふ。この柿の朱の豆柿、垣内にも庭にも外にも、道べにも丘にも野にも、照る玉とる山柿、柿生はよしも。
この長歌の一部が、歌碑となって境内に残されている。碑陰に廻ると「北原白秋が昭和17年秋 死に近い床に在て最終ノートに赤鉛筆で記した長歌『柿生』のへき頭の一節をここに刻む 柿生を想う五十二首の短歌とともに『ついばみ』に収められた作品のこの草稿は絶筆に近い 昭和四十二年十一月二日 白菊会建立」と楷書の刻文が読まれる。白菊会は北原菊子未亡人を中心とした多磨短歌会の女流メンバーの会である。白秋は他にも登戸の文化人であった伊藤葦天(丸山教教主)とも交友があり、その依頼により新歌謡の一つとして「囃せ 囃せや多摩川音頭 ちりへとう ちりへとう ちりへとう へう へう」で歌い出される「多摩川音頭(鮎鷹をどり)」の作詞も手がけた。その際府中から丸子まで歩いて取材したという。近隣の緑区鉄町に住んだ佐藤春夫(第5集)の小説「田園の憂鬱」に唯一現れる固有名詞の地名がこの王禅寺である。近隣といえば1996年に死去した遠藤周作(1923年生まれ)が狐狸庵と称して住んだ家が、柿生から二駅南に下った玉川学園にあり、彼の作品にも柿生の周辺の地名がしばしばあらわれることになる。評論家の山室静(1906年〜)も柿生在住である。 (1997.12.26記)