たとえばこんな風に書いてみました。

匿名性の大海

 インターネットの時代になって匿名性の高い情報が氾濫するようになった。受け手である我々は人生が有限であることも忘れて、果てしない好奇心の赴くままにその氾濫する情報の大海へ漕ぎ出していくことになる。

かつて情報には発信主たる人間の人格が背後に大きく存在していた。受け手は発信者のプロフィールを多くの場合事前に良く知っていることが多く、その送り手に対する信頼感があるいは好奇心が情報の絶対的な付加価値としてあった。だからこそ選択する際にも発信者の「顔の見える」情報として安心して情報を手にすることが出来たし、時にだまされることがあっても、苦情を持ち込むなり、だまされることを楽しんだりするなりしていたような気がする。限りある人生に対していかに立ち向かうべきかの指針を誰が与えてくれるのか、死に立ち向かう心の余裕を誰が与えてくれるのか、皆それぞれの「神の顔」を知っていたように思う。

「顔の見えない」情報に囲まれた現代。私たちは何を基準に情報を選択しているだろうか。結論からいうとそれは「刺激」である。「刺激的な情報」が「人生を生きるに有益な情報」よりも高い価値を持ち始めているのである。

神戸連続幼児殺害事件で、容疑者の段階で少年の顔を掲載した写真誌が、「マスコミのあり方の是非」として取りざたされた。「報道の自由」と「未成年のプライバシーの保護」という背反する問題のバランスをどこで釣り合わすべきかが話題になったのだ。

しかし私たちはその問題の背後にある価値観の転換に気づいていない。すでに無意識のうちに「少年の顔が見たい」がプラスの欲求として働いていることになんの違和感も感じていないのだ。そうした感覚は報道の自由を主張するものだけでなく、プライバシー保護の立場の人たちの発言の中にまで現れている。「見たいのはよくわかる。しかし少年の立場を考慮して我慢すべきだ」という論調になってそれは現れてくることになる。

少年の顔など見たくもない。あるいは関心を示さない。という発言は時流に敏感といわれたい識者の発言からは決して聞かれなかった。それを見ることがあなたの人生にどんなプラスになるのでしょうと発言する人が一人でもいただろうか。

しかしここで、私は刺激に走る我々現代人を悲観してみているのではないということを明らかにしておきたい。匿名性の海の中で溺れるままになっているのかというと、どっこいそうは問屋が卸さない。土俵際での粘り腰を持っているように思えてならないのだ。

逆説的な言い方になるが少年の顔が見たいという思いの中にその鍵があるように思われるのだ。少年の顔を見ることが私たちにとってどれほど重要であるか。それは一つには純粋に好奇心を満たしたいという欲求に基づくものであろう。しかしその欲求を更に突き詰めていくと、未知に対する恐怖・不安というものが動機として浮かび上がってくるように思われる。私たちは「顔」を求めていたのではないか。理解不可能なほどの残忍な行動を取った匿名の存在に対して、顔を与えたかったのではないかとおもうのだ。顔が見たかったのは。ああこんな顔だったんだ。と何となく納得したかったのだ。そして安心したかったのだ。

ところで「顔が見えると安心で、顔が見えないと不安だ。」というこの感覚は情報の原点にそもそもあったベクトルなのだ。それがここにもきちんと働いている。そこに私は現代人のまだまだ情報に押しつぶされていない姿を見いだしている。匿名性の大海の中ひどい嵐にもまれて時に針路を失っても、やがて穏やかな海に出たときそれらはすべてが糧となり生きる術として働くようになると思えるのである。
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