紅葉
森広 憬
西に傾いた大きなオレンジ色の太陽が、黄色やだいだいに色づいた信州の山並みを一層赤々と際だたせている。
夏のさわやかな風は、身を切るような冷たい風に変わっていた。
白い小型のクーペは舗装された山間の道を急ぐように登っていた。
男の目には、乾いたアスファルトの路面と白いセンターラインしか見えてなかった。
頭の中で何回もプログラムを正確に繰り返した。世界的なコンピューターメーカーの主任研究者としては、プログラムを作るのは簡単なことだ。
しかし、今回つくったプログラムはコンピューターでは作動しない。このプログラムをつくった男の中に正確にインプットされて初めて作動する。もちろんプログラムはインプット済みだ。
プログラムをスタートさせてから二時間半が過ぎている。もう三十分ほどで白樺湖に着く。ここでメインのプログラムが動き出すことになっている。
男は不倫の関係を持ってから二年が過ぎていた。バランスの崩れた人間関係は長くは続かない。別れ話を持ち出した男に女は納得しなかった。絶対に分かれないという女に、男は考えに考え抜いて一つのプログラムをつくりあげた。不倫の清算というプログラムだ。
プログラムを実行するのは難しいものではないが、正確な行動と冷酷な神経を持たなければならなかった。男は保身本能が強く、自分を守るためのこの条件を十分に持ち合わせている。
湖畔で女と待ち合わせをして、そこでプログラムを実行する。もちろん女はこのことを知らない。一人で先に湖畔のホテルに来ているはずだ。別れ話でこじれた仲をもう一度やり直そうと、言葉巧みに呼び出してある。秋の信州は、紅葉が女性をロマンチックにさせる効果があるので、話はすぐについた。
男の車は湖の近くまでくるとヘッドライトをつけていた。秋の日は釣瓶落とし、暗くなるのが早い。湖畔に点在する店はすでに明かりがついていて、山の稜線だけが今日最後の朱色に染まっていた。
待ち合わせの場所は人目に付かないところを選んである。三ヶ月がかりのプログラムはこの場所を見つけたときに構想が出来てきた。
今年の夏のことだった。
男は慎重にこれから行動する項目を頭の中でチェックした。初めに時間だ。アリバイのための重要な項目だ。午後四時に新宿を出て三時間後の七時には白樺湖に着いていること。三十分後の七時三十分には新宿に向かって出発し、十時三十分には新宿のホテルにあるいきつけのバーでジントニックを飲んでいなければならない。男は新宿のホテルに三時三十分にチェックインして、十時三十分まで寝てることになっている。もちろん交通状況も十分調べ尽くしてある。この時間なら三時間あれば必ず新宿まで帰れる。これが狂うと全てのプログラムのタイムスケジュールが誤動作になってしまう。時間だけはプログラムでもどうにもならない。
湖畔の道路から少し木立の中に入ったところで車を止めた。女と約束した場所だ。黒く不気味なまでに静かな湖面に、霧がたち始めているのが外灯の明かりで分かる。その外灯のそばに女は立っていた。女は車にゆっくりと近づいて来た。男は車のドアを開けて女を車の中にいれた。男は別れ話を再び持ち出した。
「やはりだめだ。もうこれ以上君と関係を続けることは出来ない。こんなことが会社に知れたら俺は会社にいられなくなる。お互い十分楽しんだんだから、これで終わりにしていいじゃないか」
「でも、あなたは別れ話は無かったことにしようって言ったじゃない・・」
「・・君との仲を清算したいんだ」
「私、いや・・勝手すぎるわ!」
「君が別れてくれなければ、俺にも考えがある・・」
「そう、私だってどうしても別れるというなら黙ってないわ。こんなとこまで誘い出しておいて・・」
女が怒って車から降りようとドアのレバーに手を伸ばしたとき、男の身体が女の身体にのしかかってきた。男の両手は女の首を力任せに締めつけていた。女がぐったりすると女の首から手を離した。
男はここで、アリバイづくりのプログラムを気を静めるように繰り返した。
女の腕時計を一時間半進めておく。こうして女を湖に沈めれば、水銀電池の腕時計は水が入って止まってしまい、犯行時間がずれることになる。つまり、八時四十五分頃に殺害されたことになる。男は十時四十五分には新宿のホテルのバーで飲んでいることになるのでアリバイが成立する。二時間では白樺湖から新宿まではどんな方法を使っても帰ってこれないからである。ヘリコプターなら可能だが、アリバイつくりには使えない。
暴行の上の殺害に見せるためには、服装を乱すのも重要な項目だ。
男は確実にプログラムを実行した。霧が深くなってきたことも手伝って、男は誰にも見られることもなく目的を達成することが出来た。
女の死体が発見されるのは早くても朝方で、遅ければ昼過ぎかそれ以後になるだろう。死亡推定時刻は腕時計の時間によって決められるはずだ。
男はプログラムの仕上げにかかった。難しいことではない。三時間以内に新宿まで帰って、今起きたふりをしてバーでジントニックをの飲んでいればいい。ただそれだけだ。
霧が出てきたのは、犯行を隠すには効果的だが車を走らせるには邪魔な存在だ。男は慎重に焦ることなく車を走らせた。事故を起こしたらプログラムはその時点で停止してしまう。湖から離れるにしたがって霧も無くなっていった。
男は中央高速に入って半ばまで来たとき、もう一度プログラムを確認した。
完璧だ。満足感が身体を満たした。
車の渋滞もほとんど無く十五分ほど早めに着いた。スピード違反で捕まらないために、時速百キロで走行時間を計算しておいた。自動スピード違反取締り装置の設置場所も当然調べてある。
首都高速の初台を過ぎてからチェックインしているホテルの駐車場に停めた。部屋に入るまで誰にも会うことはなかった。
眠そうな顔でスカイラウンジにあるバーのカウンターに座るとジントニックを頼んだ。喉が乾いていたのとプログラムが正確に作動した満足感で一気に飲み干してしまった。
一時間ほど飲んでから部屋に戻った。ベットに入ると眠気が襲ってきて一気に寝込んでしまった。
翌日の昼過ぎ、男は眠そうな顔をしながら警官と一緒に白いクーペの横に立っていた。警官の指には黄色い白樺の枯れ葉が摘まれていた。駐車場に停めた白いクーペのワイパーとトランクルームの隙間には黄色く色づいた白樺の枯れ葉が挟まっていた。
「プログラムエラーだ・・。車じゃなく電車を使うべきだった」
男はうめくような声で独り言を言った。