一応essayということなのですが、言葉の意味をほんのり理解しつつあたしが感動した言葉を並べえていきたいと思います。








「こら!ダメなんていっちゃだめだよ、積み重ねることで、すぐには見えないけど進歩してるはずだよ(^-^)あきらめたらそこで終わりさ。 少なくとも俺は君といた時に癒されたよ(^O^) 勉強なんておまけさ、肝心なのはやりたいという熱意だよ☆」
***2005年4月23日
実習前の勉強がはかどらなくて切羽詰って余裕がなくなってあたしに看護なんてされたくないって嘆いたときにもらったMoからもらったメール。思わず涙出そうになった、自信をくれた言葉。








「その調子でこれからも前向きにねっ☆」
***2005年3月
トモダチが心配でいろんな人に迷惑をかけちゃった時に言われた言葉。そうだよね、どうもマイナスなコトが浮かんで心配しちゃう悪い癖直さなくちゃ(>_<)








座右の銘*苦しい時は上り坂
     中学の時の校長先生が教えてくれた言葉。








「無理してまですることなくない?思ったまんまでいくない?」
***2005年4月22日
いつのまにか作ってた自分を破壊してくれたMからの言葉。ありのまんまのあたしを理解してくれて、まっすぐな言葉をくれた。








「つーかかなみバカぢゃんっておもった」
***2005年4月20日
あたし自身おかしいなって思いながらしてた行動を鋭く正しく指摘してくれたK。現実をまっすぐ見れた。








「がんばってるのはみんな一緒ぢゃんね」
***2005年2月  
同じく実習中に学校のトモダチAが言ってくれた言葉。すごく共感したなぁ。回りに目がいってなかったコトに気づいた一言でした。








「人って忙しい時こそ輝いてるんだよ」
***2005年2月  
実習でヘトヘトになってるあたしを励ましてくれたAくんの言葉。













えっと!こっちではあたしが実際にレポート提出するものをそのまんま!公開します!よかったら評価して、BBSに書き込んでね★

なるべく辛口でお願いします!!えへ☆★

看護学概論 看護覚え書きを読んで                     かなみ



 私は、このレポートを書くにあたって看護師とはどうあるべきか、ということについて書いていきたいと思います。1学期、私が看護学校に通っていて、勉強もできるほうではないし、優しい心を常に持っているわけでもないし、私で本当に看護師が勤まるのかと不安で、看護師に求められるもの、看護師とはどうあるべきか、ということを知りたくてこのレポートを通して考えていきたいと思います。

看護覚え書で、「看護婦とは何か」に注目しました。なぜならば、文献学習の安藤さんが書いたレポートの中の「頑張らない」という本について、安藤さんの意見と共にとても感動したからです。そこには、患者様の家族の話ですが、頑張っている人に対して「頑張って」と声をかけたら、その人はどう思うでしょう。「もっと頑張らなければいけないんだ」と考えてしまうでしょう。だから最近は「がんばって」という言葉を使い方にとても気を使っているそうです。

 では患者様の家族でなく、患者様を励ますときに、どのように対応すればいいのでしょう。下手なお節介や、気休めじみたことは言えないし、まして無責任な言葉がけは患者様にとって迷惑としか言いようがないように思います。これに関して私が看護覚え書きを読んでしなければならないと感じたことは、患者様に気を使わせずに接する、という事です。頑張っている人に対しては見守っていたいと思います。プレッシャーを感じさせず、当り障りのない、といったら冷たい看護師でしょうか。しかし、それ以上頑張ってくださいという必要もなく、頑張らないでいいですよ、と言っても実際全てをお世話できるわけでもないし、患者様も必要以上看護師と関わることはかえって不安になるのではないかと思います。

患者様が求めている看護師とは、ナイチンゲールは「看護の基本とは、患者が何を感じているのかを、患者に大変な思いをして言わせることなく、患者の表情に現れるあらゆる変化から読み取ることができることなのである。」と、看護覚え書で記しています。看護師とは観察力がすべてだ、と言っていい程必要なものなのでしょう。看護覚え書を読んで思ったがかなり厳しいことが書いてあり、看護師を目指すものとして不足している部分がずいぶん見つかりました。それは正確な観察力・洞察力や、気配り、そして看護師はただ単に医師や看護師長に従順なだけでもいけないのだと感じました。

看護覚え書の事例で医師に患者様の安静を邪魔しないよう言われたので、夜中に看てまわる仕事をしなかったと書いてありました。私はそれを読んで何の疑問も浮かびませんでした。そしてあとの文章を読んで自分自身情けなく感じました。夜の看回りをしない、ということは夜中じゅう患者様を1人きりにすることであって、それはとても危険だと言うことと共に、患者様を不安にさせてしまう、ということです。夜中がとても長く恐ろしく感じる患者様もいらっしゃいます。夜の看回りはするべきだったのです。

看護師は独立したものでなくてはならないです。自分の理念をしっかりと持ち、使命感のある人。これが看護師の理想像でしょう。

私は将来、難民の人達等の役に立ちたいと考えています。立派な看護師になりたいと考えています。ナイチンゲールのようになりたいと希望をもっています。しかし、そのような漠然とした「夢」ではいけないのだと、看護覚え書を通して感じました。それは、フローレンス・ナイチンゲールのしっかりとした考えを知ったからです。

私が目指しているナイチンゲールは患者様の立場にたって患者様を深く考え、そして愛を注いでいるように思われます。私も初めて人を好きになった中学校2年生のときの気持ちを忘れずに、あのときのこころのような純粋に好きな気持ちと、優しい気持ちで患者様を包んでいきたいと考えていました。看護学校に入ってその考えはやっぱり甘かったかな、と感じていましたが、1学期の最後の個人面談で、私は私で良いのだと思いました。面談をなさってくれた先生が看護師に向いていると言ってくれたからです。そのときちょうど自分は看護に目指すべき人間ではないのではないかと悩み、親にも向いていないと言われていたので、本当にとても嬉しかったです。勉強のほうは結構きつく注意を受けましたが。確かに、勉強はあまり得意ではありません。上には上がいます。それも沢山、沢山います。看護覚え書を読み、自分が未熟過ぎるのにナイチンゲールを目指している、なんて恥さらしだな、とも思いました。けれども友達は、上に沢山人がいるって分かったら、もっと上を目指せるってことだよ、といってくれました。

看護覚え書を読むと共に自分の未熟さを痛感し、反省を繰り返し、今まさに歩もうとしている未来は限りなく大きいものだと知りました。人の命を預かる責任は口では言い表せないほどとてつもなく大きいもので、回復をお手伝いするときのベッドや寝具類、陽光、部屋の壁と清潔、からだの清潔、励ましと忠告、病人の観察、等いろいろな事に気を使い、観察しなければならないです。 しかしそれは、患者様の立場にたって、患者様を思えばできることなのではないか、と思いました。要するに看護師とは、患者様が快適に治療するためにはどのようにしたら良いのか、治療後を快適に過ごすためにはどのようなことをすればいいのかを考え、実行することであると私は考えました。

ただ勉強さえできていれば看護師が勤まると言うわけではないこと、優しい心を持っているだけでは看護師は勤まらないということが分かり、まだまだいけると自信がつき、そして、もっと頑張ろう!と心が活気付きました。



HPに提出日、7月25日10時50分。かなみでした。





と!長々と書き連ねましたがっ!(^-^;

いかがでしたでしょーか(*>_<*)ぜひ感想を書いてもらえると嬉しいですっ!(あwこのレポートぱくんないでねw著作権は捨ててませんよぉっ♪♪ってぱくる人いんのかな(-_-;)でもだめよーっw)


生命科学

生命科学、岸先生の授業を受けて学んだことは、人の死についての考え方、命の重さ、重大さ、様々なことを色々な視点から物事を考える、ということを学びました。他にもたくさん勉強になったことがありましたが、とても一言ではまとまりません。
 私はまだ、身近な人の死と直面したことがありません。だから死についてはまだどんなものなのかはわかりません。
私がはじめて死を知ったのは幼稚園のときです。父方の祖父が天へ召されました。しかしそのときはまだ、やっと物心がついたくらいの年頃で、深く死については考えられませんでした。死んだ人は天国へ行く、それくらいのことでした。
2回目に死を知ったのは、今年の3月です。親戚のおじいさんが亡くなりました。私はそのおじいさんのことも、そのおじいさんとの思い出も、なにもありませんでした。父方の祖母の兄弟で、祖母の付き添いで鬼怒川までお葬式に参加するために行きました。葬儀場についても知らない顔ばかりが並んでおりました。葬式だというのに、集まる人は最初の挨拶だけ暗く、あとの空気はとても明るかったです。そのとき葬式って「あぁ、人が死ぬってこんなものなのかなぁ」と思いました。たとえ私ひとりがいなくなっても明日は必ずやってきて、いつも変わらない空があって、私と関わりあった人たちも私1人いなくなったところで特に生活の支障はきっときたさなくて…そう考えるととても淋しい、人の死でした。しかし違いました。その親戚のおじいさんはみんなから愛されていました。葬式が始まると誰もが口をつぐみ、泣き始めました。私は非常識ながらも、初めて見る人の死の姿に驚いていました。それは私にとってとても衝撃的なことでした。ぴくりとも動かない、そしてもう動くことない、息をしていなく、脱力しきった腕や足…例えが悪いでしょうが、ゴムで作られた人間そっくりの人形のようでした。でも、たしかにそのおじいさんは愛されていたのです。三途の川を渡れるよう、あの世で旅をするのに必要なものを一つひとつおじいさんに付けていく度に家族や親族の人はおじいさんに泣きすがりました。おじいさんに抱きついていました。私はおじいさんのことを本当になにも知りませんでした。でも、その場にいて、そのおじいさんはどれほど偉大な人だったのか、どれほど周りの人に愛されていたのか分かりました。 私たちが生まれてくる確率はとても低い確率だと先生は言いました。それは奇跡に近い確率であること――生まれてくるときには奇跡があり、そこにはドラマがあると思います。けれど、それは人生の終止符を打つときも同じだと思うのです。そこには奇跡があり、ドラマがあると思います。そのドラマがそのおじいさんのような幸せそうなものもあれば――そのおじいさんが幸せだったかは分かりません、そのおじいさんしか分からないことですから――とても辛く切ない死も当然あり得るでしょう。しかしそれをありのままに受け止め、強く死を乗り越えていくこと…できたら良いなぁと思います。まだ、身近な人の死に直面したことのない私ですので、ありのままに受け止めることや、死を乗り越えることがどうしても大切なこととは言えません。人の死の受け止め方はまた、人それぞれだとも思います。岸先生の授業で習った人の死、とは尊重するものだと私は学びました。その亡くなった人の死を尊重するだけでなく、周りの家族や友人、恋人の気持ちも尊重すべきだということも学びました。今年の3月に行った葬式でも、明るく振舞っていたように見えた家族や親族の方々は内心とても傷を深く負っていたのだと後から分かりました。そうでないと、あの、葬式の場であのような美しくも感ぜられる涙はなかったと、考えられます。 これは明日提出の、生命科学のレポです♪2003.10.22かなみでした☆