にぶちんの名前の由来(自己紹介まがい)
生まれと育ちは東京都新宿区早稲田鶴巻町で、昭和24年の誕生から昭和48年の就職まで東京にいましたが、親父の代に長野県から東京に出てきた二代目ですから江戸で三代という定義に従えば江戸っ子ではありません。
技術系ではあるし三男坊の気楽な立場ですから地方勤務の製造会社に就職。
山口で結婚・定着しましたので現在では山口が本籍地(根拠地)です。
にぶちんとは新宿区立鶴巻小学校時代のあだなです。
あの当時はとってもいやなあだ名だったのですが、中年の今となっては懐かしいだけです。
まあ、頭でっかちの実に運動神経の鈍い子供でしたので、仲間内でこんなあだながついてしまいました。
当時の流行の草野球なんかは万年補欠で、実に良く怪我をしましたからね〜
そういえば多分、鈍さの自覚の始まりは小学校2年の夏休みに自転車でタクシーにはねられ右足すねの骨折、これ以降は走るのが特に苦手になったのかな〜
このページを書いていて思い出しました。
虚弱児童で小学校5〜6年は年間一月以上休んでたんじゃないだろうか。
鈍さ加減のほど:
- 運動会の徒競走は1年から6年まで最下位の常連、運動会は大嫌いだったなあ。
小学校の低学年のうちは徒競走が終わった途端にそのまま家に帰ってしまい騒ぎになったこともあったようです。
そういえば通信簿の体育は小学校卒業まで一貫して”2”でしたね。
(なんで”1”じゃないかったんだろうか?)
小学校を卒業して中学で卓球を始めましたが、ラリーが一往復しか続かない状態が二年ほどは続いたでしょうかね〜
すっかり先生や先輩には見放されていたはずです。
なんとか続けられたのは2年上の兄が卓球部にいたせいでしょうね(感謝感謝!)、まあその後なんとか人並みの運動神経になれたのは高校3年の引退まで卓球部でがんばったせいだと信じてます。
本当に継続は力です >
にぶい息子の親御さん。
中学と高校は自宅から歩いて10分もかからない某W中学・高校でしたので、定期券を使ったキセルをやりたかったですね。(大学ではさっそくやりました
(^^;; でも捕まらなかったぞ)
特に真っ青になるほどは勉強をしなかった(高校3年はSF小説を秋まで読みふけりました)ので、都内某二流大学を経て、めでたく都落ちし山口県の二流の素材メーカーと就職とあいなりました。
40歳を超して自分にそこそこ自信が持てるようになり、というよりは開き直りの術を覚えたという方が正確ですが、また人並みに体力的衰えを自覚させられてから、ようやくこだわりなしに”にぶちん”と言えるようになりました。
長い間トラウマになっていたんですね〜
にぶちんの健康:
このほかに通院が有るんだから、我ながらすごいもんだね。
(主な通院)
48歳:山形への転勤直後の年末に右の腎臓結石が痛み出し、救急車で市立病院へ。
年末年始の間になんとか石は無事に流れたようで今後5年くらいは安心。
救急車って動き出すまでに10分はかかるんだね〜
49歳:右のハナタケ除去手術@山形遠藤耳鼻科、通院で20分で終了(こんなのは手術じゃないかも)
49歳:6月に帰宅途中に車でお釜を掘られ、一応鞭打ちの通院が一日、幸い軽症でした。
一応、24歳からテニスを続けてきましたが、相撲取りと間違えられるほどではないものの太目です。
にぶちんの趣味:
- にぶちんを名乗ってはいるものの一応テニスが趣味です。
パソコンは相当初期に買ったものの(TRS-80って知ってます?
私の最初のパソコン)、自作K6/2-300と自作K6-233を使っている貧乏パソコン生活です。
1998年に山形で自作をアップグレードし、現在はK6/2-300となりました。(まだ貧乏じゃい)
インターネットやパソコン通信をやってますが、技術よりはコミュニケーションそのものが面白いな〜と思っております。
会社と関係ない知り合いができるのが楽しみじゃ〜
パソコンを買ってから割に早く通信を始めましたが、初めはローマ字しかでないので繋ぐことが目的でしたね。
5年半前に山口に転勤になってから防府のSさんのお誘いで防府ネットのオフに参加し、オフミ食わず嫌いが直り、その後平均年齢の高い手近なトクネット(現在はサービス終了済みでWEB掲示板に移行=リンクのページ参照)に繰り言を書き込んでは憂さ晴らし、すっかり雑文書きの味を覚えました。
山形では地元草の根に参加しようとは思うのですが...
1999年の5月連休前からはケーブルテレビのインターネットサービスに切り替えました。
常時接続なのはうれしいいのですがちょっと遅いのが難点。
一応、ソフトウェアルーターで家庭内乱から繋いでいます。
にぶちんの転勤遍歴
- 早稲田鶴巻町:24歳までは東京山の手といわれる新宿区の下町風エリア、近くの神田を目当てに零細の印刷・製本業者が密集してましたし、いまでもそうみたいです。
遊び場所は江戸川公園という神田川沿いの目白台の崖下にあるうなぎの寝床状の公園で、崖上の文教区立関口台小学校とは何かと良く競り合いました。
山口県新南陽市:31歳までは工場のある新南陽市の会社の寮、社宅、新築の自宅(建てて一年で転勤になったけど)。
あのころは何も無い田舎なのでしょっちゅう広島に出てましたよね、今は相当改善されて来ましたが若者には退屈なところでしょうね。
女房と子供3人は新南陽市の生まれです。
アトランタ近郊のマリエッタ市:転勤で3年過ごしたアメリカのアパートだが、とにかく広かったです。
家の中でテニスの素振りをやってましたからね〜
ここで一時中断していたテニスを再開しまして今にいたってます。
行徳の社宅:アメリカから帰って東京勤務となり、ギュウ詰めの地下鉄東西線で通勤45分(これは良い方だった)の狭い社宅。
親子5人が66平方メートルに棲息していたので、その後の転勤で広い自宅に移っても家族が自然に一部屋に寄ってくるようになった。
新南陽市再住:東京生活8年半で再び工場勤務となり、12年ぶりの自宅復帰を果たしました。
テニスコートがただでいつでも使える、通勤は徒歩25分、ネクタイ不要と恵まれた生活でした。
(T_T)
定年になったら多分ここに住むんでしょうね〜本籍地だし。
山形市:自宅生活5年半で宮仕えサラリーマンの宿命、転勤が襲来し一人寂しく”きぃーた・ぐに・えー”。
単身赴任で耐乏生活中だが、来春には娘の進学に伴い奥様が合流の予定です。
でも、受験だからどーなるやら、がんばれ娘!
1999年3月末には娘が千葉の短大へ進学し、奥方が合流しました。
仕送りが3名分で金欠病がつのり枯死寸前です。
にぶちんの現在:
- 会社生活20余年を経過して97年の年末より歳相応に関連会社に出向
になり、山形市で単身赴任生活中です中です。
サラリーマン人生もそろそろ先が見えてきているかなということで、こうしてホームページなんぞを作ったりしています。
(^^;;;
もうちょっとガツガツやらないと給料は上がりませんよね〜
でも根気が無くなってきているのは事実ですし、手が動かないで口が先に動いている状況ですので、エラソーなことは言えませんよ。
”じゃーお前やれるか”というのがうるさい先輩・上司への今までの私の態度でしたからね〜
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