soukan no kotoba

創刊のことば

「<たぬき>たちのインターネット」
開設にあたって


旧「喫茶たぬき」マスター
岩見和彦


ゼミ有志による『週刊たぬき』が休刊になって2年がたつ。この『たぬ き』にはいろいろな作品や記事が寄せられた。ずいぶんとにぎやかな独り 言が飛び交い、ときには舌戦が展開され、また荒唐無稽なリレー小説も登 場した。今の僕にとっては、どれもみななつかしい。そうしたゼミ生たち のパワーに接することができたことを、このうえなく嬉しく思う。僕にと って『たぬき』は、大きな自慢のタネでもあったのだ。 今回、メディア革命の流れにのって、そのOB版がインターネット上で 再開されるという。2年の休刊の後だけに、その再刊は僕にとっても大き な喜びである。しかし、そこには重大なウソが隠れている。僕はまだ旧メ ディアの人間のままだからである。本当の喜びとするためには、その国の 住人にならなければならないのだろう。いささか歳をとって面倒くさがり 屋になっているので、渡航手続きに手間取るかもしれないが、今しばらく 猶予を与えてほしいと思う。 歳をとった、と言った。むろんこの言葉には若干の弱気も含まれている のは事実だが、別の色合いもある。最近、僕は「成熟」「熟成」「年輪」 といった言葉にすごくリアリティを感じている。青年社会学を看板にして きた者としては、転向と受け取られるような気分を軽々に口にだしてはい けないのかもしれないが、正直なところなのだからいたしかたない。若者 文化がもてはやされ、オジンやオバハン、老人は価値低き者、もはや輝け ない者と見なされる時代が続いた。今もそうだろう。けれど、自分がそこ そこの歳になってみて、やっと気がついた。それはどう見ても不当であり、 人間の「生」に対する冒涜だという気がしてきたのだ。「青二才」という 言葉を復権させ、若者の奢りを静かに諭し、人間的生の深淵さを説くよう な「老練な人間」として、若者と対峙しよう。その時の根拠となるのが、 さきの言葉どもなのである。その思いの核心は、バーチャル・リアリティ といった人工「感味」料で促成栽培される<デジタルな感性>ではなく、 あくまでも「意味」にこだわり「私という文化」を熟成させる<アナログ の思想>の構築なのである。 −−と、まあ、こんなことを力んで呟くことができるのも、『たぬき』 再開という朗報が僕を元気づけてくれている証拠である。たまり場、アジ ール(避難所・駆け込み寺)、癒しの場などと言われる「居場所」が注目 されている。それだけ「居場所がない」という感覚が蔓延しているのかも しれない。しかし、それを現実世界とは別個に確保しようというだけでは、 あまりにも志が低いし、展望がなさ過ぎる。社会にうって出て、世界を組 みかえ、そして何よりも自分を革新するような力を与えてくれる場こそが、 本当の居場所というにふさわしいはずだ。だから、この「季刊たぬき」も それがたぬきたちの単なる「癒しの場」であるにとどまらず、われわれ一 人ひとりにとっての「肥やしの場」とならんことを願いたいのである。フ レー、フレー、たぬき!                     


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