ミラーナイフ
第20回
日本映画ノート
映画の「背骨」「肉」「皮」
和田曜章
先日、「GO」などの作品で、日本映画の若き旗手と目されている、行定勲
監督とお話する機会があった。
一人一人のファンに真摯に接し対話する行定監督の姿勢には、心打たれるも
のがあった。
特に、「シナリオを読んでもらいたい」というファンに、「シナリオはあな
た自身のものだから、私は読まないことにしています。いつか私が何かの映画
を作った時に、ふとした偶然で似たような作品が生まれた際、盗作したなどと
いうお互いにとって哀しい誤解を生むことがあるから。がんばってこのシナリ
オを映画にしてください。映画になった作品なら、きちんと観させていただき
ます」といった旨のお話をされていて、感銘を受けたものである。
私は行定監督と、<映画の背骨>についてのお話をさせていただきました。
行定作品は、その映画の中で何を描こうとしているのかが、明確に表すこと
ができる。
例えば「GO」なら、<在日コリアンの青春とアイデンティティ>。「ひま
わり」なら、<失われた少女への思慕>。
言わばその映画の中での背骨がはっきりしているのだ。
私の好きな作品、あるいは私がその作品に好印象を持つポイントは、と振り
返ってみると、この背骨があるかどうか、が大きなポイントになっているよう
な気がする。
背骨は、映画のテーマと言ってもいい。その作品の主要幹線道路という言い
方でもいいし、作品全篇を貫くエネルギーと言い換えてもいい。
そういうものがある映画は、背筋がしゃんと伸びて構築美があるようにも思
えるし、作品を理解する足がかりとしても重要なのである。
むろん、映画は背骨だけではいけない。
それならば、単なる説明映画、プロパガンダ映画に過ぎないからだ。これほ
ど退屈な映画はない。
骨組みには、血肉が必要である。
肉は、映画の面白味だ。喜劇ならば笑い。悲劇ならばお涙頂戴。時代劇なら
例えばアクション。
こういった面白味、映画ならではの醍醐味がなくてはつまらない。
「がんばっていきまっしょい」という作品の背骨は、<帰らざるあの頃>と
でもなるのだろうが、ここに二十何年前のユーモラスな女の子たちの生活や、
白熱するボートの試合があればこそ、このテーマは輝くわけである。
もうひとつ、大切な要素に皮、がある。
これは映画の表層、包装紙のような、あるいはいわゆるルックスと呼べるよ
うなものである。
例えば斬新なカメラワークとか、独特の構図である。小津安二郎のローアン
グルや北野武のキタノブルーもその一例であろう。自然を美しく撮影する技術
や、あるいはワンシーンワンカットという手法までをひとまとめにし、映画の
皮とここでは呼ぶことにする。
最近の若い監督が作る映画は、どうもこの皮の部分にのみ重きが置かれてい
るような気がしてならない。
やたらと動くカメラとか、妙なカット割りとか、CGだけが前面に出ている
画作りとかが挙げられる。
人間でも、口ばかりで中身が伴わない人はあまり評価されないが、映画もま
た、見てくればかりで内実のないものは空疎に思えてならない。
行定作品をこれらの図式にあてはめて考えてみれば、まず骨はきちんとある。
文学の香りがする貴重な背骨だ。
今このような文学性の高い背骨のある映画を作る監督が少なくなってしまっ
たので、行定監督には「文学の香りがする背骨のある映画を、これからもよろ
しくお願いします」と申し上げて来た。
肉の部分は、まだまだスリムである。しかしこれも監督自身が、「私は娯楽
作品を作っていくタイプではないので・・・」とおっしゃっていた。
純文学の骨格に見合う肉付きをしているということで、違和感はなく、端正
なたたずまいを感じる。
皮はと言うと、これは初期の「ひまわり」という作品で顕著に感じたのだが、
今でこそ観慣れたせいでさほど違和感を覚えないものの、実はあまり好きでは
なかった。
なぜだかFIXでなく、手持ちわずかにブレて全篇とらえられていたりする
のである。
この傾向は近作の「ロックンロールミシン」でもまだまだ見受けられる。
そういうところに、わずかながらの違和感を覚えたりもしたものの、見事な
背骨の前には、たいして問題にするほではないか、とも思い直している。