・炎の宴2
よく知っている道だ。
だが、今は言いようの無い不安を強いる、悪魔の道だ。
三日間ここを通らなかった。
桜は、重い鞄を持ち直す。
(どうしよう・・・やっぱ、やめようかな)
自動販売機に眼を向ける。
蛾が飽きもせず張り付き、茶やおうど色のマダラが紅茶の缶の赤色を隠している。
(あの時と同じ・・・)
桜は確かめに来たのだ、あの三日前のことを。
少年が去った後、桜も慌てて家に帰った。結局、終電で帰らなければならず、両親にこっぴどく叱られた。
そんなこんなで、次の日の朝は遅刻しそうになった。新聞に、あのことに関係する記事が書いてあるかもと、期待したが、新聞に注意を払う時間など無かった。
だから塾の夕食の休み時間に、ロビーの新聞を読んでみた。
しかし、残念ながらそれらしいものは無かった。そうと解ると、やはりあれは自分の疲れが生み出した幻覚なのではないかと思うようになった。
幻覚ならば、話は簡単だ。自分がただ、黙っていればいいだけなのだから。
「そうよ。普通、人殺しの現場なんか、めったに遭うわけないじゃない!人の腕から火が出るって変じゃない!」
無理やり、自分に言い聞かせるように言った。
もう、あんなこと忘れてしまおうと、駅への道順も換えてしまった。桜自身、無意識では、事の重大さに恐怖を感じていたのかもしれない。
そんな努力をしていたが、塾で美雪達の話を聞きいてからというもの、強烈な不安が桜を襲った。
気のせいだと片付けるのには、あまりにも底知れぬ恐ろしさがあった。
(このままではいけない、確かめなきゃならない)
あの少年と、死んだ男がいた場所。あの場所に行けば、いいだけだ。
そこに、深くひび割れたアスファルトと、黒い破片が無いのを、確かめればいいだけのことなのだ。
そうすれば、こんな思いなどすぐに吹き飛んで、今夜はぐっすりと眠れる。
「・・・よし!」
青いスニーカーの一歩を力強く踏み出した。
だが、あの現場に近づくほど、不安と恐怖は大きくなり、吐き気と耳鳴りが起こった。
(一体何があるの)
体の変調に悩まされながら、それでも桜は進む。
眼に脂汗が入る。それも拭えない。
(もう少し・・・)
この角を曲がれば、あの場所が見える。
自分を励まし、テナントの壁に手をかけ、とうとう思いきって覗き込んだ。
「あ・・・」
そこは真っ暗だった。
月の光も差さない。
じっと、暗闇に目を凝らす。
ひび割れたアスファルトなどありはしなかった。
「な・・・んだ。なんでもないじゃん・・・」
桜の体調もいつのまにか良くなっていた。
「ほ、本当に夢だったんだ―!!」
拍子抜けした声で、わめき、疲れたように笑った。
安堵の眼で、もう一度そこをよく見る。
――違和感。
「あれ?たしか、あそこに窓がなかったっけ?」
ビルの灰色の壁に、あの時は確かにあったのだ。
一度も開けたことの無いような、汚れたちっぽけな窓が。
何かおかしいと感じた時、いきなり奇妙な風の塊に、全身を強くはたかれた。
以前にも感じたことのある悪寒。
(そんなあ)
前方には何も無い。
(い、いや)
確実に何かいる。
黒い小さなカサブタが、大量にかき集められたような、おぞましい空気がそこに。
凝縮していく。桜にはそれがわかった。
闇が捻じ曲がる。
そして生まれ出たもの。
犬――。
否、犬だったもの。
それには目玉が無かった。
片耳が千切れとんでいた。
背中から白いあばら骨が見えていた。
ピンクの内臓や、口元に白い筋のようなものが見える。その位置はすぐ替った。
(うそ――ゾンビ?)
普通ならもうとっくに死んでいるはずの状態である。
そいつがちゃんと四本足で立ち、あろうことか呼吸をしていたのだ。
全く持って、ゾンビとしか言いようが無かった。
ゾンビ犬はゆっくりと前足を上げた。
桜は思わず、あとじさる。
一歩、それが踏み出す。
『ピィシャシャ―ン!!』
途端に、恐ろしく高く、飛び上がった。間抜けな音を響かせて。
その高さはビルの二階ほど。
すると、犬自身でもこの高さに驚いたのか、空中で不恰好に足をばたつかせ、一番高いところで、一瞬だけ「止まったかな?」とでも言うように小首をかしげる。
が、すぐに下に落ちていき、地面に激突した。
「あ・・・・・・・・・」
しばらく沈黙がその場を支配した。
だが、さすがゾンビだけあって、犬は震える前足で体を持ち上げる。
そして桜に笑いかけるように顎をがっくりとはずし、舌を50cmほどたらした。
(ま、まさか――)
先ほどの失敗で要領が分ったのだろう。
そいつは、嬉しそうに追いかけてきた。
血しぶきを上げ。
飛び跳ねながら。
「キャアアアアアア!!」
桜は逃げた。
慌てて回れ右をしたので狭い路地の壁に手をついた。コンクリのおうとつに、手の平を痛めたが、構ってなどいられない。
(イヤダッ、イヤダッ、嫌すぎる!あんなのに追いかけられるなんて!!)
ピシャーン、ピシャーンと飛び跳ねる音以外に、妙な間合いで、ぺタターンという音がする。
わずかでも距離をかせごうと一生懸命だったが、とても気になり、つばを飲み込んで、思いきって顔だけ振りむく。
「な!!」
左後足が、他より1mほど長い。なのに着地すると、他の三本の足と同じ長さになる。
どういう事かとよく見れば、なんと、尻尾の根元から左後足の皮がズリ剥け、爪か肉球の辺りで、かろうじてつながっているのであった。
足の皮の分だけ長くなった尻尾は、ゾンビ犬が跳ぶたびにブランとぶら下がり、持ち主の着地のたび、その勢いにのって地にしたたかに打付けられる。
それゆえ、足よりもワンテンポ遅い音がしていたのだ。
こんな非現実的な姿があっていいものだろうか。
前のジャンプでは気がつかなかった。もしかすると、あのときの失敗であんな風になったのかもしれない。
しかし、問題は原因ではない。
「いっ」
音の原因がわかればわかったで、余計に気持ち悪い。
「いやああああああああああ!!」
桜はまた、絶叫した。
足がもつれる。
なんというこうとだ。とうとう、転んでしまった。
ゾンビ犬の喘ぎ声が近づく。
やっとの思いで起き上がる。あいつを見る。
思ったより距離が近い。やられてしまう。
本当に嬉しそうに、または桜を馬鹿にしたように飛んでくる。
「こっ・・・」
鞄を持つ手に力が入った。
もう一ジャンプで桜に達する。
『ワウウウーン!!』
「こんのぉーお!!!」
がつんと、振り上げた鞄に衝撃が伝わる。
『ギャイイイン!』
妙に犬くさい叫び声を上げながら、ゾンビは鞄とともにぶっ飛んだ。
横殴りの攻撃に、肉片を飛ばし、ゴミ箱の山に激突した。
「やった!」
ここぞとばかりに、桜は駆けた。
後ろも見ない。
膝には擦り傷が出来ていた。
そんな、必死に逃げ惑う桜の頭上。
月の黄色い光りを背に受けながら。
ビルの屋上の手すりの上。
一人の男がいた。
犬のジャンプなど、お遊びにしか見えない高さで、少しもふらついたりしない。
えらそうに腕を組んでいる。
そいつは、そうやってずっと、桜を見ていたのだ。
「ククッ、おもしれーなあ・・・」
言った男の首筋から、プピュッと血が噴き出した。
「おっと」
破けた血管を手で押さえ、「いけねぇ、いけねぇ」と照れたように笑う。
そして、その男の胸元には・・・。
あの、金のドックタグが揺れていた。