2002年6月 遠藤誉『自分探しの50年、21世紀の自分の役割発見』
遠藤誉先生の著作は『中国教育革命が描く世界戦略』厚有出版(2000)、『中国がシリコンバレーとつながるとき』日経BP社(2000)を出版直後に読んでいた。日本と中国の関係を考える時にはキーパーソンになる人だと思っていた。その遠藤先生にこの6月にYさんと一緒にお話しを聞く機会を得た。僕には想像もできないほどすさまじい生き方をしてきた人だった。
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『自分探しの50年、21世紀の自分の役割発見』
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何回も往来している日中間の航空便だが、今回の帰路の飛行機では心の深い安らぎと未来への希望を感じた。それは中国国務院西部地区開発領導小組事務室から「中国西部地区人力資源開発顧問」の聘書(2002年6月1日付け)を授与された帰りだからだった。「これで自分はやっと日本人だという満足を感じることができた」とここまで来るのに長かった50年の歳月を思い出す。
今回の招聘のきっかけは、2001年冬に出版した「中国がシリコンバレーにつながるとき」(日経BP社、)が、中国国内で話題になり、中国国務院が、西部開発にあたり「この先生ならアイディアを出すのではないか」と思われたからだと言う。
昨年から、日本テクノトランスセンターを立ち上げ、リストラされた人を中国へ紹介する事業をはじめた。これは日本の人材を中国へ紹介しマッチングする事業である。「おそらく新しい経済圏、アジアの文化圏をつくり21世紀のグローバリゼーションをはかるための重要な人的なネットワーキングになるのではないか」と期待を込めて、調査を周到に行い、書籍出版と人材派遣の法人立ち上げを行った。日本の長引く不況のあおりを受けて、リストラした人に手を差し伸べる事業だ。会社からいらなくなった存在になり、自分の自信を失い、尊厳を失ったことに対して、何か手をさしのべたい。痛切に思っていた。
遠藤は1941年生まれ。敗戦を中国で迎え12歳まで中国にいた。父は中国で、麻薬中毒患者を治す薬を開発していた。宗教心のあった人なので「人を救いたい」という思いを強く持ち、中国人・朝鮮人を大事にしていた。だから工場勤務させながら夜間学校にも通わせた。
右腕はいまもまがらない。1946年、右腕に鉄砲の流れ弾があたり、それがもとで結核性の骨髄炎になった。その傷は一生消えないものとなった。そのころ、仲良しになった笛の上手な若い兵士が言った。「革命のために血を流したのだからこの革命旗の赤い色には君の血も入っている。」そして遠藤のことを「革命的少英雄」と言った。素直に喜んだ。しかし、まだ、その意味が本当にはわからない年齢だった。
48年頃、国民党が長春を制覇した。しかしその周りを解放軍(八路軍)が囲み、兵糧攻めにした。それで兄弟が餓死した。チャーコウという包囲網の出入り口が一箇所あった。そこから逃げていいと言われて逃げたがその外側にもう一つ包囲網があった。まわりは死体の山やま。9月に脱出を試み4日目にそこを出た。父が麻薬の特許証をもっていたため、それを八路軍に見せてチャーズを出ることができた(詳しくは「チャーズ」(文春文庫)
そのあと延吉を経由して天津につく。その地は、日本人に対する目が冷たくて、周りから小日本、日本鬼子、日本狗とののしられた。心が傷ついた。言葉を失っていたが空を見るのが好きな少女になっていた。ある日の夜空に思わず出てきた「わーきれい」で言葉をとりもどしたが実はこの数年記憶喪失だったのだ。チャーズにいた時の恐怖感が言葉を失わせていたようだった。そこでは死体のそばでも小便をしなければならなかった。その暖かい小便のせいで死体の顔が上がってこちらを見てくる、いつも小便をする時恐怖があった。学校生活に希望を持てなく天津の海河で自殺しようと思っていた。そこは野菜を積んでいる船上生活者のいる河だった。ある時船が転覆した。おぼれた人が水のなかから手を出して助けを求めていた。この時、「長春の死体の手首を思い出し、いきなり記憶を回復した」と言う。記憶が戻ったあとは一生懸命勉強した。「ピヨネールにも入った。成績優秀になったので、賞をもらえるということだったが、『日本人だから』ということでもらえない自分を発見した」と当時を思い出す。しかしその時に教師である馬老師は小さな声で「きみは小英雄だ」と言ってくれた。
12歳で日本に戻る。戻った先は舞鶴。岸壁が多くこれならゲリラ戦ができると思った。しかし町に入るとパチンコ屋から流れる軍艦マーチに驚愕した「なぜ日本はこんなことをやる民族なんだ」と。被害の事実が語られ、加害の事実が語られていない国・日本。「これがわが祖国なのか」・・「民族の血」が・・・萎え、ここでまた生きる支えが壊れた。
入学した新宿高校はすごい受験教育をしていて軍国主義教育の原型をみた。これで反逆したが、その後「負け犬の遠吠え」といわれないように博士をとることを決意する。今まで医者の道を考えたこともあった。しかし、「生物の実験でマウスの腹を裂いているとき、長春の腐乱の死体(腹部がパンと破裂する)を思い出しメスをとれなくなった」とつきまとう自分の過去に悩まされ続けた。その後、理論物理学を研究するが、それは、少女の頃から夜空を見るのが好きで、「人間の世界」から「夜空の世界」へ関心をもったからだ。空が存在する、宇宙があるとは何だろうという疑問にぶつかる。哲学書を読んだ.そして存在とは何か、宇宙とは何かなど考えた。上の概念があることを気づかされた。そして理論物理学へ進んだ。
1983年中曽根前首相の留学生10万人受入計画がでた。それまで、留学生のお世話を本気には考えていなかった。「その頃中国のことをわかっている人は私をはずしていないだろう考え、留学生関係の仕事に入った。その動機は1983年、電車の中で中国語を話しているのを聞いた。その話を聞くのに横浜までついていった。その後、『私のいる場所はどこなんだ』と考えた」と言う。83年当時は一橋大学、88年千葉大学に移り留学生専門教育教官になり留学生センターをつくった。92年頃には筑波大学に移った。その後留学生教育学会を立ち上げ、後継者育成の事業に取り組み始めた。遠藤は今「留学生担当はお世話係、いうなれば雑巾がけのような仕事をしている」とくったくなく笑う。
その間、83年に「不条理のかなた」、84年に「チャーズ」を書く。体験を記録し後生に残したいという執念は、「チャーズはつらかったなあ」という父の言葉からだった。
今、中国人留学生のお世話、リストラにあった日本人の中国への仕事紹介を通じて、小学生時代の仲の良かった兵士と馬老師の言った「小英雄」が今、「大英雄」に変化していく自分を感じた。それは、リストラした人に手を差し伸べて実感した「自分は日本人だ」という満足感。人を支える尊厳、国務院から授与された聘書を手にして、遠藤は痛切に思う。「自分は日本と中国の双方の人材になりたい。トランスファーではなく、トランスアクトに。」
主要著作
『不条理のかなた』読売新聞社(1983)
『チャーズ』読売新聞は(1984)
『続 チャーズ』読売新聞社(1985)
『風よ 祖国へ向かえ』読売新聞社(1987)
『モアリーホア』読売新聞社(1998)
『中国大学総覧』第一法規(1991)
『中国大学全覧』厚有出版(1996)
『韓国大学全覧』厚有出版(1996)
『台湾地区大学全覧』厚有出版(1996)
『中国教育革命が描く世界戦略』厚有出版(2000)
『中国がシリコンバレーとつながるとき』日経BP社(2000)
2002年6月 都市と農山漁村の人々のネットワーク
緑が深い。山が切り立っている。車が少ない。川の音が、鳥のさえずりが聞こえる。久しぶりに訪れた利賀村は前回訪問の時とちっとも変わっていない。 今回は、第4回JUON(樹恩)NETWORK(以下、樹恩ネットワーク)の年次総会のためにこの利賀村を訪れた。昨年は埼玉県の神泉村、一昨年は兵庫県の千種町だった。樹恩ネットワークは「都市と農山漁村の人々を結ぶことにより、環境の保全改良、地方文化の発掘と普及、過疎過密の問題の解決に取り組む」ことを目的としている。従って、総会などのイベントはいわゆる過疎地になることが多い。そうして、今まで過疎地の人たちが総会開催の受け入れをしてくれた。
今回もそうだった。樹恩ネットワークの総会は、短時間で行う総会次第の他に、交流のためのイベントを併設している。このために、現地の企画が総会成功のための力仕事になる。 今回は6月15日(土)に総会次第、記念講演、芸能鑑賞、環境プログラム、交流会と盛りだくさんの行事が行われた。16日(日)は朝から昼まで4つのコースでプログラムが組まれた。そばうち、木工づくり、山菜摘み、村内施設見学である。参加者はそれぞれ希望のところに参加し、午後1時全員が、宿泊先の一つであるスターフォレスト利賀に集まり、そこで解散した。
今回の総会で紹介された昨年度の事業活動の特徴は3つだった。一つは日本を6つの地域に分けて、地域世話人が中心になり地域で企画を立てて会員参加の活動をすすめてきたこと、二つには徳島にある大学の森の基金500万円が集まり購入責任を果たしたこと。三つには環境に関わる人材育成プログラムとして、資格試験である「エコサーバー」のカリキュラムとテキストがほぼ完成したことである。特徴的な取り組みが前進した1年だった。とくに、地域と全国の両面で活動を組み立てる柱として「地域ブロック」と「エコサーバー」が立ち上がった意義は大きい。
95年の阪神・淡路大震災のボランティア活動後、ほとんどのボランティア団体が「震災後、活動実態が見えなくなった」と言われてきた今日、この樹恩ネットワークは地道に活動を強化してきた。被災にあった学生の宿舎用の木材を提供してくださった徳島県とは太い絆で結ばれ、「森林の楽校」の開講、間伐材を利用した樹恩割り箸の生産と普及というネットワークに発展している。また、若者が気軽に森林体験する「森林の楽校」は、徳島の「四国のへそ 森林の楽校」を皮切りに、群馬の「水源の森 森林の楽校」、埼玉の「神の泉 森林の楽校」、新潟の「トキ色の島 森林の楽校」、兵庫の「清流の森 森林の楽校」の5地域に広がった。
元々の活動であった過疎の廃校を活用したセミナーハウスの運営も現地の主体的な努力と「都市」とのネットワークで活力がうまれている。昨年の総会宿舎である「コープビレッジ神泉」(埼玉県神泉村)、今年の総会宿舎である「Starforest利賀」(富山県利賀村)、佐渡・猿八山舎が深く関与する「鳥越文庫」(新潟県佐渡島畑野町)、「四万十楽舎」(高知県西土佐村)など。過疎過密、少子化、行政単位の合併などから起きてくる「廃校問題」は、その地域にとっては重要な問題である。「どうつぶすか」ではなく「どう活かすか」という方向性で成功事例が求められる昨今、樹恩ネットワークの事例は大きな元気を与えている。本格的な軌道にのるにはもっと工夫が必要だが、会員の英知とネットワークで「廃校」を支える“勢い”は現地を勇気づけているに違いない。
さて、今回、僕は体験コースでそばうちコースに参加した。いろいろなところで聞く体験コースであるがまだ一度も参加したことがなかった。30人ほどの参加者が3人づつ班をつくって体験開始。村のそばうち名人がインストラクターだ。一通りの説明の後、実際に行った作業は、そば粉と強力粉と水でそばをこねる、そのそばを厚さ2ミリ程度にまで伸ばす。その伸ばしたそばを畳んで3ミリくらいの幅で包丁で切る。そこまでの作業である。6人前つくり約1時間の作業だった。あとはそのそばを村の人がゆでて、私たちはざるそばにして食べた。こしがありおいしかった。何よりも自分たちが加工したそばであることが嬉しかった。利賀村の方々のおかげで大変良い体験をさせていただいた。
今回の総会&記念行事で特筆すべきことがもう一つある、それは、学生が参加した「環境学習プログラムデザイン講座〜環境学習って何だろう?」である。この企画があったから学生が20名ほど参加したといっても過言ではない。この環境教育プログラムは昨年の神泉の総会から始まった。初年度である昨年は「自然を感じるプログラム」を企画した。「センス・オブ・ワンダー;レーチェル・カーソンの贈り物」の映画を見た後、実際にその本を持って森には入って自然を感じながら本を読む。そしてその時に感じたことをお互いに話し合う。すごくシンプルな環境教育だが普段忘れてしまっている自分の感性を思い起こさせるこのプログラムは、昨年の場合、翻訳者である上遠恵子さんの参加でより充実したプログラムになっていた。今年は、木文化研究所のインストラクターのもと、利賀村に残っている「エコロジカルな暮らし」を応援して、実践してもらえるようなプログラムが行われた。そのおかげで、我々は山菜天ぷらをたべることができ、参加した学生がインストラクタイーになり大人の参加者が木を使ったモノづくり、創作などを楽しむことができた。
参考HP
2001年12月 A Decade
「中国大好き」の会員になったのは99年だった。中国語の習いたてだったが、地域で気軽に参加できフレンドリーな中国語教室はないかと探していたらこの「中国大好き」にであった。 Yさんに電話すると「はい、いいですよ」とあのやさしい声で場所、時間など教えてくれた。土曜は仕事なので夜のクラスに参加したが、その頃の僕はまだ49時間しか勉強していなく読めないピンインがたくさんあった。授業進行の迷惑になりそうなので土曜日午後のクラスに移った。それが今のクラスである。
途中からクラスに参加したためテキストはすでに「実用漢語課本2」に入ろうとしていた。この2年間半で先生は3人変わった。最初はD先生、次がH先生、今がR先生だ。3人とも熱心に中国語を教えてくれる。クラスの仲間はまじめに出席する人が多いので先生もやりがいがあると思う。僕は残念ながら出席率の悪い生徒だ。土曜日は4週5休だが仕事にでることが多い。それに出張も結構ある。この2年半で40回=80時間出席した。ほぼ3分の1程度の出席率だ。テキストは先月終えた。しかしほとんど覚えていない。習ったことをそのまま覚えることができればもっと中国語を話せるようになるのに、と思いながら。
今、僕が凝っていることの一つに中国語カラオケがある。 中国語の字を見て意味の雰囲気はわかってもぜんぜん読めない。だから中国語の参考書をみてもつまらなかった。それでまずは漢字を読めるようになろうと中国語のポップスを聞き始めた。中国語の学習をスタートして辞書を引くことなどほとんどなかった。だいたいテキストに単語の意味が書いているので必要ない。しかし、歌詞を読むためにピンインを辞書で引き始めてからすごく辞書を使うようになった。 最初はだれが人気歌手か、なにが流行っている歌か、どれが古い歌か新しい歌か、ホントーにわからなかった。しかし、インターネットで中国の歌手の情報を仕入れ、中国に行くたびにレコード屋・本屋に寄って売れ筋の確認とあらかじめチェックしておいた歌手のVCDを買ってきては聴いた。だからまだ中国語ポップスを聞き始めて1年ちょっとしかたっていないが今ではかなりわかる曲と歌手が多くなった。これは自分の趣味を広げてくれたわけで財産になった。
いま、僕が気に入っている歌手は黎明、黄品源、杜徳偉、張高(金偏)哲、任賢斉、伍百(人偏)、動力火車、林暁培、張恵妹、孫燕姿などである。かなり歌を聴いているが自信をもって歌える曲はまだ10曲程度だ。しかし、中国のポップスを聴いていると楽しくて中国語をやってよかったなと思う。 僕の所属しているサークルにcn-musicがある。これは4年ほど前に東京でできた中国語カラオケサークルで毎月1回例会を行っている。新大久保と目黒にカラオケ103があり、そこで毎回20人前後の参加で歌会を開いている。僕は昨年6月に初めて参加し延べ4回行った。4回でも歌うことが好きな人たちが集まっているからすぐ仲良しになれる。ほとんど中国留学経験者で中国語ができるが、中には中国語初心者も歌が好きで入ってくる人がいる。中国語ができる、できないはこのサークルでは関係ないのだ。歌が好きであればいい。そこがおもしろい。僕は密かに思っている。30曲くらい歌えるようになるころにはきっと中国語を話せるようになるだろう・・・と。
僕はもともと中国語に対する関心が薄かった。好きでもなかった。でも中国語の世界にかかわった偶然性があった。 90年代、仕事で英語ビジネスにかかわっていた。大学生に対してTOEICという英語テストを普及しながら使える英語能力を身に付けることをサポートする仕事だ。たまたま勤め先で中国の教育部から中国語能力認定試験の実施を委託された。試験の実施事務局をやる人間がいなかったので、英語のテスト世界を知っているということでその事務局をやるために2年ほど大阪に単身赴任した。中国語能力はなくてもできる仕事だったが、せっかく中国語にかかわったのだから少しは中国語をできるようになろう、と思い立ったのが中国語学習開始のきっかけだった。
10年前、HIFが発足したときから、地域の国際交流活動に関与して、その活動のなかで「中国大好き」、Yさん、Mさんなど知った。でもその頃は自分が中国語学習でお世話になるサークルとは考えてもみなかった。
(グループ『中国大好き』会誌第4号 01年12月刊)
2001年10月 はじめての中国・シンセン
「中国内陸発」(日経新聞社)を読みながら、91年に始めて中国大陸に入ったことを思いだした。それは会社の慰安旅行だった。日本の会社は福利厚生とリフレッシュをかねて、年1回1〜2泊の慰安旅行をしていた。今は景気が悪いため制度も無くなりつつあるが・・・。
僕の勤務先も91年は香港旅行が新設されたのでそのコースに入った。30名くらいの団体旅行だった。2泊3日の香港旅行だったのでまる一日自由行動の日があった。 ほとんどの人は香港市内の観光をした。「シンセンに行ってみないか」と同僚に話したが、「ビザを取れない可能性が強いので行かない」という旅行通の友人の一言で誰も行かなくなり、僕一人で行くことになった。九龍駅から電車に乗ること約1時間、そこは香港とシンセンの「国境」だった。
僕がこの香港旅行でぜひシンセンに行ってみたいと思ったのは創文社のPR誌「創文」で木村尚三郎が「シンセンが経済特別区になり、町が農村地帯から大都市に様変わりしている、その変化の真っ最中だ」というのを読んだからだ。その文章を読んだ時シンセンにすごく興味をもった。 そのシンセンがもう目の前にあるのだ。 「国境」は青函連絡線の切符売り場のように簡素なものだった。改札では香港でたくさんの買い物をした人たちが荷物を担いで並んでいる。僕もその人たちに混じって胸をわくわくさせながら並んだ。その後、小部屋に入りビザの申請をした。パスポートと書類を渡し20分ほどでビザのハンコが押されて戻された。簡単な手続きだった。その後シンセンに入る。改札を通るとそこは中国大陸だった。
シンセンに入った感動は今も忘れることができない。シンセンに入ると若い警官がカーキ色の制服をして整列している。人がたくさんいてすごくにぎやかだった。15分くらい歩いていくと真っ青な空から灼熱の太陽が照らす、暑い暑いシンセンがあった。歩道橋から町を眺めると太い道路と林立したビルが一面にありそれは人工巨大都市だった。「これがシンセンか。ここが中国か」始めての中国に感動した。
確か午前10時頃から5時頃までシンセン市内にいたと思う。市の博物館、百貨店、ちょっと外れた街など暑い中をひたすら歩いた。昼食も道路脇にある食堂に入り、確か5元くらいの値段で安かったことを覚えている。真新しいビル群もちょっと通りを離れると掘っ立て小屋の長屋があり、古さと新しさの混在した街を膚で感じた。
街角にはト小平が何かを話し掛けている様が描かれてある大きな看板があちこちにあった。その時はその人が「中国の最高指導者」で「南方講和」で回ってきて「経済特区」の推進者なる人物であることを知らなかった。だから「誰だろう、このおじいさんは」と思っていた。あとで中国を知るにつれ、まさに91年はト小平の「開放改革」の経済政策が始まったばかりで、シンセンはそのモデルとして大きな様変わりをしている最中であったことを知った。
これが僕の最初の中国大陸だった。
シンセンの街中、公園などいろいろ歩き回り、しまいには疲れてしまった。ちょうどそこにはマクドナルドがあった。「中国もマクドナルド・・?」と思いながら入ると2階建てのそのマクドナルドは店内が広く若者たちでいっぱいだった。コーヒーを飲んでいると隣に4〜5人の女子高生が座った。中国語はまったくできないので英語で話しかけると流暢な英語で返事が返ってきた。何を話したか忘れたが、その娘の両親は海南島の出身で、そこはいいところだと言っていた。「英語教育をしっかりやり中国発展のための人材作りをしているんだな」と実感した。その娘も今は26〜27歳だ。今ごろシンセンでOLをやっているのだろうか。
こうしてシンセンの一日は、僕に“中国の魅力"を植え付けていた。
2000年8月 生活とマラソン
きっかけは友人との話から
走りはじめたのは1994年1月からだった。93年の12月にランニングとかマラソンをしている仲間たちと話をしていて刺激を受けた。それまで自分にとって「マラソンは見るもの・応援するもの」と思っていた。 最初は一回3キロくらいを家の近くの公園で走り、月40〜50キロの距離数を練習した。
友人から「マラソンは月の練習量が100キロでは後退、200キロで現状維持、300キロで記録が伸びる」と言われてから、月間の練習量を150キロ前後までのばした。朝とか土・日走るが、150キロでも結構大変だ。週に40キロ位だから、朝5キロ走を数日やり、土・日に10キロとか20キロ走る。 走り込みはじめた時は、腹が痛くなったり、膝・くるぶしが痛くなったり、足の爪が黒ずんできたりいろいろ身体に障害がでた。それは練習量に応じて治っていくのだが、また新しい”痛み”が出てくる。自分の身体、精神の弱いところが壁にぶつかった時に現われるのだろう。だから、この壁とのつきあい方をうまくしなければならない。それは「壁がきたら飛躍のまえぶれだと思おう」「スランプがきたら次のステップが目の前に来ているのだと思おう」と前向きに自分に納得させることだった。そうして、練習を続けていくと”痛み”は克服されていく。
市民ランナーはフルマラソン(42.195キロ)を3時間以内で走ることを夢見ながら練習して、マラソンレースという舞台にでる。しかし、サブスリー(3時間を切る人のこと)になれないまま人生を終えていく市民ランナーが圧倒的だ。僕もサブスリーを目標にしていたが、もう難しいのではないかと・・・、今はあきらめている。もっと若い時からランニングに目覚める機会があれば可能性があったかもしれないが、気づいたのが40代だったからこれってしょうがない。
ランニングはすごく気軽にできるスポーツだ。しかし、まだ日本ではマラソンをやっているというと”特別人間”的に見られがちだ(すごいですね、でも何のために・・・と)。 だから、ランニングをやっている人がその良さを他の人に伝えることが大切なのだと思っている。「走る」、これは人間には「歩く」と同じほど生活の中での基本的な動作だ。しかし、実際には自分の身体と精神への極限的な挑戦になるためになかなか挑む勇気が湧いてこない。
以前、ランナーに関するメジャーな雑誌で「ランナーズ」という雑誌の編集長にお会いした。彼女は自ら走りながら雑誌編集の仕事をしている。まさに趣味とビジネスを一緒に楽しんでいる人だ。話の中で、「日本の若い人は自分の生活のなかにランニングをうまく取り入れていない。女性の場合、きれいになろうと思うなら走ることはすごく素敵な素材なのに」という旨のことを言っていた。欧米ではランニングは日常生活の一部になっている人が多い。文化の違いとは言え、日本で欠けているものの一つではないだろうか。21世紀を生きる我々がスポーツとどのように付き合っていくのか、どんなスポーツであれ自分が好きで長く続けることができるスポーツを生活に溶け込ませていくことは、しなやかで健康的なライフスタイルをつくる上で必要だろうと思う。
記録とタイム
始めてのフルマラソン出場は95年3月の第10回ロサンジェルスマラソンだった。結果は3時間50分24秒、僕としては最後まで走れた自分に感動したマラソンだった。 LAマラソンは1984年のロサンジェルスオリンピックで使ったコースを翌年から市民マラソンとしてスタートして第10回目だった。約20000人がフルマラソンにエントリーしており、アメリカではホノルルマラソン、ニューヨークマラソンに次いで大きいマラソンだ。 その後は、シドニーマラソン、つくばマラソンなどに出場し、フルマラソンの自己最高はシドニーで走った3時間18分5秒、ハーフマラソンは第1回手賀沼マラソン(95年10月29日)の1時間32分45秒だった。しかし近年は申し込んでいない。今度は上海マラソンか北京マラソンに挑戦したいと考えている。
友人からア ドバイスをうけ、1994年の10月から手帳に距離数だけを書きつづけている。記録してわかったことは「記録しないと自分の走った歴史は残らない」ことだった。記録をつけはじめてからは、自分の生活のリズム、練習量と記録の関係が見えてきた。
年(年間練習km)1994(212),1995(1425), 1996(1787),1997(1521),1998(1209),1999(794)
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◇フルマラソン出場記録◇
第10回ロサンジェルスマラソン 95年3月5 日 3時間50分25秒 雨
第2回シドニーマラソン 95年8月 27日 3時間40分59秒 晴
第15回つくばマラソン 95年11月 26日 3時間33分59秒 曇
第15回佐倉マラソン 96年3月3日 3時間31分59秒 晴
第3回シドニーマラソン 96年8月18 日 3時間18分05秒 晴
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最近はめっきり走る量が減ったが、生活のリズムをつくる上でも朝のランニングを一日の始まりに位置づけている。朝5時におきインターネットと新聞を見て、6時過ぎに5キロほど走りに行く。シャワー、食事などを済ませて出勤という生活を送っている。
たぶん、自分の生活を律するために「走る」という人は多いと思うが僕もそうだ。そして朝日と空気・風を感じながら走っていると「生きている」という感動とエネルギーが湧いてくる。自分の人生にとっていいものを見つけたと思う。
1999年3月 植物と社会
最近刺激的な話しを聴くことができた。ナチュラリスト荻巣樹徳(おぎす・みきのり)さんの話しだ。園芸植物の起源(自生地)を訪ねては、幻の植物の確認をする作業である。中国西部(四川省など三省とチベット)をくまなく歩きかなりの花の起源を探し当てたという。
代表的なのがコウシンバラの野生種。このバラは「ロサ・シネンシス」で中国産であることは言われてきたが、誰も確認していなかった。それを英国のG・S・トマスさんに頼まれて、探した。1983年5月だった。
荻巣さんはベルギーのカラムタウト樹木園、オランダのボスコープ国立試験所、イギリスの王立キューガーデン、ウイズレーガーデンなどで学んだ。僕は植物のこと、これらの植物園を知らないが有名で世界的な権威のある研究機関らしい。
とにかく徹底している。花の自生地を探しに行くのに、実際にその花を自分で育て、その花に関することを自分で理解してフィールドワークに入るという。コウシンバラもそうで、現地の人にコウシンバラをとってくるように手配して、とってきたさまざまな植物(草?)のなかから、根っこの破片をみつけ「これはコウシンバラに違いない」と確信して、現地の人と現場に行った。
書物の上だけの知識だけではいい仕事ができない。だから、荻巣さんはフィールドワークを徹底してやる。18年間で移動距離は20万キロ、1年1万キロ以上だ。しかも、他の人が入らないところを入って調査する。そして成果を上げている。
40枚のスライドを使って淡々と植物のバックグラウンドを説明してくれた。難しい名前がたくさん出て到底僕にはその1%も覚えることができないが荻巣さんの生き方は理解できた。「一つの植物をよく知るために、少なくとも4回、現場に行く」「自分で栽培してみて、初めてわかることがたくさんある」「細かく記したフィールドノートを残しておくことに意味があるのではないか」「科研費など公的な資金援助を受けないでやってきたしこれからもやっていく」「人のやらないことをやるという差別化が今の自分をつくった」「その分野の一流の人に教えてもらうことが自分を一流にする」「プライドをもつ中国人にあった時が嬉しい」
「職人」の危機が言われて久しい。本当に納得いくまでやって成果を出すには「職人」的な取組が必要だ。日本は1960年代の高度経済成長以来、大量生産・大量消費の様式が定着した。その行き着く先が今の日本である。「高度成長」は我々の生活を「豊か」にした。しかしその代償にアンバランスな日本の姿をつくったのも事実である。「職人は大切」という荻巣さんの言葉は、地に足をつけた仕事で世界に認められる成果をつくった価値ある生き方だ。
1999年2月 50人への電話かけ
2月15日は春節のイブ。大阪では毎年、梅田の小学校体育館をつかって関西生命線がイブをやる。ギョウザをたくさんこしらえそれを食べながら舞台の催しを楽しみ、参加者同士の交流を楽しむ。僕は昨年参加して今年で2回目だ。今年は第8回目だが昨年と比較して今年のほうが人が多いように感じた。日本人、中国人、台湾人、その他いろいろな国からの参加者がいる。主催者に聞くと500人ほどの参加だという。みな1500円の参加費を払ってる。
この関西生命線は阪神大震災で果敢なボランティア活動をやったことで名が知られている。代表者は台湾出身らしいが、神戸地区は中国系の人が多いのでこの団体は日本人のみならず外国人ボランティアも迎かえ入れて活動したに違いない。阪神大震災では多くの若者が活躍した。マスコミなど世論も”さすが若者”と賞賛した。そして今は”あの若者は今何をしているのだろう””あのころのボランティア体験を今も活かしているのだろうか”とその後を気にしている。
この関西生命線のイブに参加して驚くのは若者が多いことだ。ここを見る限り若者は健在だ。何か魅力ある活動をしているのだろう。代表の女性は、各種イベントを終わったあとは50人くらいに電話をして感想を聞いて反応を調べる。また、やる気がある人を見つけることもしているそうだ。この、マメな事務局活動の蓄積が常に活力ある組織を維持しているのだろうか。
昨年NPO法案ができて、今まで苦労の多かったボランティア活動も今までとは違う広がりができるかもしれない。今年3月、慶応義塾大学の三田校舎で第1回NPO学会が開かれる。日本のボランティアの発展、国際連帯したボランティアが日本でも巻き起こることを期待したい。特に、民間レベルでの活動が重要だ。
そんな活動事例に関西生命線はこれから始める団体、発展させようとする団体に大きな刺激を与えるに違いない。
1999年2月 「沢登り」から韓国とのつきあいが始まった。
最近、韓国が僕に近い。主語を間違えたかな。僕は韓国に近くなっている。何度か行ったり、韓国映画をみたり、MLでいろいろな人の情報を読んだり………。
生死をともにした連帯
5年ほど前、OBS(日本アウトバウンド協会)の体験セミナーに参加した。これは一種の企業内研修で「自然に立ち向かい、仲間たちと自然の強さを感じ、連帯を感じ、自分を発見する」プログラムであった。
2泊3日のプログラムで、川口湖の西湖付近を舞台に野外訓練を行い、沢登りは丹沢まで車で飛ばして行った。7〜8人のメンバーだったがその中に、韓国のLGグループの教育担当が2人参加していた。生死をともにするこのプログラムは連帯感を強くする。この韓国人と仲良しになったのが韓国とのつきあいの始まりである。
誘った方が払う。
セミナー終了後新宿に戻りみんなで飲みにいった。結構高いバーだった。1次会で飲んでその勢いで行ったバーだった。当然、割り勘のつもりだった。しかし、精算の段になって、彼等には金を払うという姿勢が全くみられない。しかたなく(にこにこしながら)、金を払った。あとで、韓国では(中国も同じだが)誘ったほうが金を払う、という習慣があることを知った。これが僕の韓国の異文化体験だった。
その後、僕の方から韓国に行ったのが2年前の冬だった。居酒屋で飲んでその後カラオケにいった。「韓国ではカラオケに女性を呼ぶとすごく高い」と言っていたが、飲んで歌っているうちに盛り上がり「呼ぼう」となった。若い娘が2人きて、飲んで歌って踊って楽しかった。金は彼がはらった。しかし僕は買ったばかりのカメラを店に忘れてしまった。深夜そのカラオケバーに泥棒がはいり店の売り上げ金、僕のカメラなど盗まれてしまい、今も戻って来ない。彼はカードで払っていたから、あれはきっと引き落としされずに済んでいるに違いない。
どうも韓国と収支バランスを考えると、いつも僕の方が持ち出しになる。この他にもいろいろあって・・・・・。
友達がいると韓国は楽しい。
彼の家は奥さんとお子さん二人の幸せそうな家庭だ。ソウルから南15キロほど行った大きい団地で、20万人くらい住んでいるという。その分譲団地は全室オンドルが通っており板の間でも暖かい。しかもすごく広い部屋である。近くの国の住人だが、僕の住まいの様式とほとんど変わらない。何か不思議な空間の共通性を感じた。
韓国に着くと電話カードを買う。そして彼の家に電話をする。異国に行って、電話できるところがあるのはやはり心に落ち着きが出る。数日の滞在のなかで、アポをいくつかとり、空いているかなり多い時間を使って、映画、ミュージカル、音楽、本や、バー、食堂などを楽しむ。結構贅沢な僕の時間だ、
1999年2月 In the heat of the sun (太陽の少年)で発見した陶虹
この映画は1997年、大阪でみた。文化革命当時、北京市内に住む少年たちの生活を描いた映画だ。大人、学生たちは地方に追いやられ北京は少年たちが自由に遊ぶことができる空間。「歴史の断面」を少年と少女の関係を通して描くこの映画は、時代劇ものの中国映画を観ることが多かったので新鮮だった。
1999年2月、杉並国際交流協会主催でこの映画鑑賞会があり、これにはぜひ行きたいと思って行ってみた。理由は、昨年11月に観た「黒眼晴」による。
「黒眼晴」の主人公である陶虹が、「太陽の少年」に出演している、との情報をもらったのは現代中国映画研究会からだった。全然知らなかった。それで、それを確かめるべく今回映画を観たのだ。
「太陽の少年」のなかで陶虹はペイペイ役。結構、登場回数が多かったのだが”確かに彼女だ”と確信できたのは、最後の方で誕生日で食事会をするシーンだった。
僕が中国映画に触れたのは最近のことだが、きっとこんな”追っかけ”をやって、だんだん中国映画にはまっていくのかもしれない。
□主催事務局が作った映画あらすじがあったので紹介させていただく。
「In the heat of the sun 」(太陽の少年)
In the middle of the 1970's , the city of Beijing became a utopia for street kids since grow up were absent, forced to work in villages or join the Army. The children cut classes, smoked cigarettes, and fooled around the looking for girls. Among them was Xiaojun, the hero. He was an expert at duplicating keys. At the beginning of summer, Xiaojun sneaked into an apartment room and found a photograph of a beautiful girl older than himself. He fell in love with her---. While confrontation between his group and a rival group became increasingly hostile, Xiaojun kept looking for the girl. Finally, one day, he found her. She was Meilan, the legendary beauty. Xiaojun asked her to become his sister, but she refused, saying she disliked hoodlums. Nevertheless, his sincere love for Meilan gradually melted her heart, and the summer spend with her gave Xiaojun unforgettable. In the meantime, his grandfather committed suicide. Xiaojun left Beijing with his parents to attend the funereal. When he returned, he had found Meilan changed. She had turned her affections to the leader of the group. Xiaojun was afflicted with jealousy, but still could not forget his love----.
1998年12月 記憶の片隅から学ぶもの
子供の頃を思い出すと、暇もなくあわただしく人生を送ってきた感がある。しかし、ときたま、昔のことが頭をよぎる。今までそのことをあまり考えないできたが、キーワードを抽出して散文風に昔を思い出して見ようと思う。
玉石ひろい、除草機、牛の放牧、稲苅り、ビートの葉きり、銅ひろい、わさび、うぐいす、ランプ、雪かき、松ぼくり、どんぐり、グスベリ、トランジスタラジオ、力道山、夕焼け、りんご、なし、秋刀魚、ストーブ、蹄鉄、皮剥き、汽車通、出面とり、小遣い、シシマイ、焼場、カッコー、カスミ、雲雀、馬糞、オートバイ、高砂座、盆踊り、野外映画、コスモス、あんず、蝿取り、布団敷き、北斗七星、出稼ぎ、りんご箱、秋払い、澱粉カキ、スケート、DDT、運動会、つぎ、シロカキ、支援物資(順不同)
こうしてキーワードを列挙すると僕の子供時代が写しだされる。素朴で質素な生活がほんの数十年前にはあった。急激な経済成長で日本は20世紀、世界に躍り出た。いま、21世紀を目前にして、世界中から「何とか経済を立て直せ」「それが世界、アジアへの責任だ」と言われている。劇的に変化した20世紀だった。僕は”質素という贅沢””自然との共生”を好む。こうしたインターネットなど”文明の利器”は多いに利用するが、改めて、21世紀流の生き方=自分のライフスタイルをつくっていきたい。子供のころの生活にそのヒントがある。
1998年11月 晩秋、快晴、快適ハーフマラソン
11月某日、大阪吹田市にある万博公園で「98吹田万博国際ふれあいマラソン」と「98吹田国際交流フェスティバル」が行われた。
僕は久しぶりにハーフマラソンに参加した。このふれあいマラソンは参加できる種目の幅が広く、まさに市民のマラソンになっている。10キロ、3キロ、2キロ、5キロ、ハーフの5種目あり子供から親子連れまでいろいろな人が自分の力と好みに合わせて参加していた。 ハーフは12:30スタート。10時にランニング仲間のKさんと受付付近で待ち合わせ、紅葉と太陽を浴びながらゆっくりと時間と空間を楽しみ、出番を待った。
さて、今回の僕の記録は1時間35分10秒。32〜33分台を狙っていたので予定よりちょっとタイムオーバー。ハーフマラソンのコースは公園を4周する周回コースでそんなにアップダウンもなく走りやすかったのだが、最初からスピードを抑えたのがまずかったかな、という反省。しかし、大会に参加すると気持ちが高ぶり、「よし、今度は・・・・。あのペースで」と考えてしまう。
スタートすぐ横の広場には17程のブースがあり、そこでいろんな国の人達が食べ物、小物を販売していた。タイランド、スリランカ、メキシコ、ベトナム、インドネシア、韓国などだ。
国際交流とマラソンを組み合わせたこの「第15回吹田市民健康づくりフェスティバル」は、34万市民のニーズを実現する企画の一つとして定着しているようだった。
1998年11月 リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる
現代中国映画上映会、この名前はInternetで知っていた。いつも熱心に中国の映画を宣伝する会だな、と思っていた。この会の主催する映画会を日中友好協会の新聞で知り、6本の映画のなかで一番関心を持ったのは「瞳の向こう側」(原題 黒眼晴)。何故か。理由は簡単で「走る」物語だからだ。
僕も約5年前から長距離を走るようになった。趣味だが、それ以来「走る」人に関心を持つ。この映画もその流れで興味を感じた。
「盲目の少女力華(リーホア)は、とあるきっかけで障害者の陸上を指導するコーチにスカウトされ陸上短距離の選手となる。コーチの指導のもと順調に力をつけ優勝し世界大会に出場することになる。リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる。そして彼女とコーチの間に築いた信頼の行方は-----。」(中国映画上映会B42つ折チラシより)。
いい映画だった。涙が何回もこぼれてきた。障害者が「走る」ことを通してポジティブに生きていく。社会的な関係の中での「自分」を知り、その「自分」を悩みながら苦しみながら自覚していく。その自覚は世の中で素直に生きて行くためのアイデンティティの確立のプロセス。多くの人に励ましを与えた映画だと思う。そして彼女(力華)の走りがすごくよかったネ。かなり走り方を訓練したと思う。
今回の映画はこの会が選んだとパンフにある。もし日本に持ってこなければこの映画に出会うことができなかった。Thanks for Gentyuei.
主演女優の陶虹が上映の前に挨拶をした。終わってからも挨拶をした。映画会場を出たところで、彼女にあえるかと思ったが不在。受付の人に「彼女と握手をしたいんだけど・・・・・」とリクエストすると早速、陶虹を呼んでくれた。握手をして写真をツーショットで撮らせていただいた。「走る」彼女の手は小さく柔らかく女優の手だった。
参考 現代中国映画上映会
1998年10月 鼓童
明日は中秋の名月という素敵な夜に鼓童を聴いた。18:00開演で19:30まで迫力ある演奏が続き音を身体で感じてきた。今回のプログラムは「族」「三宅」「風天」「千里馬」「八重の浮立」「木遣り」「大太鼓」「屋台ばやし」の8曲。鼓童は佐渡に本拠をおく集団だが、演奏活動は幅広く1年の3分の1を海外で、3分の1を国内、あとは佐渡で活動しているそうだ。海外では有名で今回も外国人が多数来ていた。
野外音楽堂なので、音響装置は使わない。人間がたたく太鼓の音が響きわたる。暗闇と静寂のなかで時には激しく時には静かに音を出していく。この迫力はとにかく聴くしかない。僕は鼓童のビデオを1個持っていてそれを月1回くらい聴いている。KODO Live at Acropolis,Athens,Greeceだ。音はいいが彼等のパフォーマンスがまたいい。太鼓の使い方、一人ひとりの個性と協働、踊り、音の組み合わせ、何とも言えない。ライブが一番、でもビデオで聴くこともおすすめたい。
今、鼓童は「ONE EARTH 一 ひとつの地球」というテーマで世界に向かって”文化の共存””日本の伝統音楽”というメッセージを伝えている。1981年、ベルリン音楽祭でデビュー以来、世界的規模で有名になった鼓童。日本にもいいものがあるんだ、と自慢したくなる太鼓演奏だった。
1998年9月 中国語会話レッスン体験
今日は吹田市国際交流協会主催の中国語会話教室に体験入学した。
受講は3人+私ともう一人女子大生の体験入学者。話しによるともう一人在籍しているようだ。講師は70歳くらいの年配の女性。クラスが終わってからちょっと話しをした。戦争時代に結婚。2年で夫に戦死で死に別れそれ以来、中国で2人の子供を育てる。28年間中国の学校で教師をして、昭和54年に日本(小樽)に来たという。日本では中国語を教えたり、日本語を教えたりしているとのことだ。彼女もあの戦争による被害者の一人。胸が痛む。
教師をしていたということもあるだろうが、たぶん、中国と日本の友好のために中国語のボランティア活動をしているのだと思う。テキストは「生活中国語」評論社。進めかたは受講者の一人がテキストの日本語を読み、もう一人がそれに対応した中国語文を読む、それを順繰りに全員が行い、その間読んでいない人は聴いている。その過程で四声などを間違うと講師が直ちに直してくれたり、黒板に漢字とピンインを書いてくれたりする。
僕も講師の教材のコピーを渡され、皆さんと一緒に勉強に加わった。このクラスは中級コースなので、僕にとって始めての単語があるが、幸いピンインが振ってあったので音読に加わることができた。終わってから、講師から「発音がいいですね」と言われ嬉しくなった。「そうか、この間、発音の練習を中心にしてきたけれど、結構、様になっているんだ」と。講師はハルピン出身とのこと。普通話の発音はハルピンと北京をあわせて2で割ったようにして作られた、と聞いている。だから、この講師もきっと発音にはこだわりをもっているのではないかと期待したい。
今日は申し込みができなかったが、きっと、受講者数が少ないので、クラス入は大丈夫ではないか。このクラスは10月6日から3月16日まで、20回(40時間)で16000円、1時間あたり400円という安さでこれは本当にありがたい。
1998年9月 英語のクラスレッスン体験
吹田国際交流協会主催の英語クラスに体験入学した。先週の予約しておいた。初級、中級、上級があり、僕は自分のレベルを「中級」に想定して、木曜日の18:20〜20:30のクラスに参加した。18:30ちょうどにクラスについたが、まだ出席は2〜3名。しかし、10分程で15名ほどになった。20名定員ということだが4月から徐々に欠席受講者が増えているとのこと。男性受講者は2名でここでも女性のパワーを感じさせらた。20分位遅れて、Bradというニックネームの男性講師がダイエットコークを手にして入ってきた。ロの字型の机の黒板側にすわったBradはいきなり「What did you do this summer?」みたいなことを言って、端から聞いていく。どうやら今日は夏休みあけの第1回目のクラスで、休みに入る前に、夏の出来事をそれぞれ英語で発表するように申しあせていたらしい。各人がすばらしい英語スピーチでとうとうと喋る。
Bradは発表者に質問したり、発表中に時制、複数、イディオムなど間違いがあるとすかさず訂正する。なかなか、こまやかに人の話しを聴いてうまく訂正する人だ。文法を大切にする講師のようでこれは好感がもてる。テキストを聞いて見ると"Fundamentals of English Grammar" Prenceton Hall Regentsで、コミュニケーション文法を重視しているようだ。
半年間21回のクラスレッスンで参加費は27300円、1時間あたり650円という安さでこれは絶対に「買い」。翌日、申し込みの電話を事務局にいれると、「今は定員20名一杯なので補充は無理です」とのこと。しかし、「ぜひ入れて欲しい」と頼み留守電を教えた。
果たして、空きはでるのか? まだ確定していないにもかかわらず紀伊国屋書店でテキストは買ってしまった。