断章
トータルエンクロージャの世界
第一章 はじめてラバー製キャットスーツで身を包んだ日とそれにまつわる妄想
マスクで何重にも顔を包み込む。これは厚く包まれれば包まれるほどよい。外界からの疎外感を味わうためだ。もっともこれは原則、室内で行う儀式だし、どうせ自分の姿は自分でわからないのだから、形式的なところはそれほどこだわる必要はなかろう。
それにしてもマスクの中から世界を見ると外界は何も変わらないようでいて、それでいて自分の内面には大きな変化が生じていることに気がつかずにいられない。自分の姿を鏡に写して見てみると、あまりの変貌ぶりにおどろくほかない。鏡の中の黒い物体はいったいなんなんだろう? 頭の中が次第に混乱してくるが、それが静まったときに自分の自我を覆っていたなにかしら正確なものがこわれてしまい、解放感を味わうのだ。
世界は狭いゴーグルをとおしてでしか見ることができない。おまけに耳の中にイヤホンを仕込んでおり、外界の音も完全にさえぎられている。
しかし何よりもすごいのは、顔を隠すことで自らの人格を完全に隠蔽することができたという、妙な快感である。始終心の中におおいかぶさっているもっとも堅苦しいもの。周囲が勝手に自分になすりつけたところの人格。その大半がこの行為をすることで、なぜか解放されるのである。
もしこのまま、このマスクが自分の皮膚と密着してはがれなくなってしまったらどうなるのだろうか。これはとても怖いことだけれども、その反面興味もある。このまま自分が別のものと化してしまったらどうなるのだろう。おそらく取り返しのつかないことになるだろう。だから僕はそのぎりぎりの均衡の上でつなわたりをして遊ぶのである。何だって一線を超えてしまったらとたんにつまらなくなるに決っている。殺人だって考えているうちが無性に楽しいものなのだ。そしてこれがサスペンス小説創作の温床でもあるはずである。あんなのは実際に実行したらこれほどばかばかしいものはない。残りの生涯を刑務所暮らしするしかないのだ。
それにこんなことをしてしまったことで自分はいま社会性を喪失しているらしい。たとえばこの格好のままコンビニの自動ドアをあけたらその数分後に連行されることだろう。まったくいかにも不気味な外見だし、正体を隠しているのだからしかたあるまい。ただ、あらためて考えてみたいのは全身ラバーにマスクというのは奇抜な格好なだけであって、それ自体十分に個性的なものである。強盗の格好とは根本から違うのだ。安手の目だし帽をかぶってサングラスをかけたのとは違っていて、この格好には逃亡の意図を読み取ることができないはずである。それに視界は狭いし全身全体が拘束されているのでとても動きづらい。したがって、この格好をしたことで連行されるのはただ自らを取り巻く社会通念の低さをうらむ他ないといえなくない。そしてその社会通念のために、連行後マスクをむりやりはがされたときの屈辱感は創造を絶するものがあろう。単なる挙動不審であって誰にも迷惑をかけていないはずなのだ。すべてを隠しているのだから、これは公然猥褻とも別物である。なにがいけないのだろうか。
でも暑い、暑い、息苦しい。フードの布地の匂いも強くなってくる。自分の汗の匂いもしみついて、渾然として、絶妙なにおいだ。これはたいへんだ。頭の中が完全にハイになる。ゴーグルも内側から曇ってきて、世界がだんだんとろけてくるように感じてくる。人格を消したことの当然の見返りだろうか。僕は悪魔に魂を売ってしまったのだろうか。自分のいきづかいが大きく聞こえてくる。これが本当に自分の呼吸なのだろうか?
欧米の人はもっとすごい。あまりにマスク好きが高ずるあまり、マスク(ラバー製で人間の顔をそのまままねたもの)をつけたまま日常を過ごしている人もいるという。このマスクの上にサングラスをかけると、つくりものとしての要素をごまかしにくいところの眼を隠すこともできるから、その顔が人工的なものであるという外見すらなくなってしまう。往来ですれ違っただけでは気がつかれないこともあるという(逆にあまりの不気味さに声を出すのをはばかっているのだと思えなくもないが)。
しかし長時間このままの態勢は苦しい。あまりにも苦しい。
それでもあらためて鏡に自分を写してみたとき、全身があやしく黒光りしているのを見るのは興奮ものだ。そもそも人間は光沢に心ひかれるものなのだろう。原点にかえって考え直してしまった。
たとえば、漆器の光沢は日本が世界に誇る文化のひとつとして崇められているが、この光沢は現今のラバーにも通じはしないだろうか。戦国の鎧もあちこち漆で彩られているけれども、あれをみてかつての戦国武将はなにかしら「陶然たる」思いを抱いたのではなかろうか。もちろんこれは現代人のそれとは感慨の度合を異にするものではあろう。現代の僕には漆器の光沢はもはや恬淡としたものに過ぎないように思われる(もっとも昭和の初めころの名著「陰影礼讃」で日本の食器の薄暗がりでの絶妙な色合いについて述べられていることもあり、あまり古い古いと断言してしまうのは問題もあったりするかもしれない)。
結局のところ、漆は天然の素材でありながら現在のプラスチックの光沢に近似している。光沢とその強靭さにあこがれた結果の産物であるというのが正確なところではなかろうか。
ラバーは現代的なものできわめて新しいものであろうが、人間的な側面から照射すると嗜好というのはまったく変わっていないのだとおもう。脱線するが、僕はメールのやり取りに連歌を感じているくらいだ。典型的に年よりくさいものとされているものも視点を変えてみると発見があるのだ。むろんそれそのものは古い。そのままで現代人の心には訴えかけてこないのは当然だ。たとえば芭蕉の連歌集をひもといてみてもそれらがことごとく当人同士にしかわからない世界で占められており、通常の感覚では理解できそうもない。むろん発せられた句はすべて根拠あってのものだ。だけど僕は国文学者でもなんでもない。そこまでつきとめることはできない。しかしながら、そこでは相手のフリに対するレスを生み出すとき、一朝一夕ではとても満足なものをつくりあげることはできないはずだ。これはメールをはじめて書いたときの苦労に近いものがあるのではないか。
しかし、本当にひどく脱線してしまった。興ざめだろう。しかし、これらもラバーの内でかもし出された思考(いや、妄想)の軌跡なのだ。記録する意義はなきにしもあらずである。
まったく顔面を消す行為とは面白いものだ。ではちょっと時世に眼を向けてみよう。僕は以前ドーラーを見たことがあるがそこで感じたのは人形に使われている素材がまだまだ未熟でなにかしら人間的な破綻を感じさせることだ。あれは自らを極限的に非人間的な「もの」に自分を化させてしまうようでなくてはだめだと思う。したがって精巧さを得るためなら本来なら一体の着ぐるみを作るだけでも数百万円ははたかなくてはならないのではなかろうか。もっとも彼らのやることは、ほとんどが仕事の傍らでの活動なので費やせる資産もせいぜい半年に一度のボーナスくらいなものではなかろうか。ようするに経済的な脆弱さがうかがえるのである。見ていて彼らの目指すものが相当に高いところにあることが察せられるので、なおさらそう思うのである。いつも思うのだが彼らになにかしら経済的なバックアップができないものだろうか。これは国の農業に対する補助金政策のように被補助者の怠惰を促すものとは違うのではないか。いうなれば彼らはあまりに未来を先取りしすぎたために周囲の理解を得られなくて悶々としていることも考えられる。何とかしたいものだ。当人の内に秘められた世界の大きさを感じるときに資本は流入されるという法則もあるはずなのだ。でもいまの福祉優先社会ではむずかしいだろうねえ。
今日はラバードールになって観光地にくりだそう。バッグの中にひととおりセットをつめこんで出発だ。もちろん出かけるときは通常のスタイルさ。僕はアパート暮らしだし、ここの住人はそれぞれ個人ばらばらであり、いったいどんな人が住んでいるのかお互いに知ることはほとんどない。朝たまに顔を合わすことはあっても挨拶をする程度だから、当人の人柄がどうとか言うことはまったく関知しないところである。それでも自分のこのアンダーグラウンドな趣味をカミングアウトしてしまうことは、抵抗を感じる。ラバーの趣味と僕が結びついていることを、隣人に察知されることでなにかがつまらなくなるような気がするのだ。隠しておくものはそのままにしておこうか(前述したがこれは犯罪とはぜんぜん関係ないんだけどね)。
林の中を走りながら周囲に誰も居そうもない適当なポイントを探す。これがなかなかむずかしい。ここがいいなと思ってギヤを2速にいれて繁みのなかに滑り込むと、昼寝のためにほかの車がエンジンを空ぶかししていつまでも動こうとしない。もういいなと思ってまた戻ってきても動きそうにない。いらいらする。でもこういうときはさっさと去ろう。そうしてどうにか、やっといいポイントを見つけた。そして周囲に本当に誰も来そうにないことを充分に配慮した上で着替えよう。どっちにしろラバーでトータルエンクロージャすると正体もなにも消えるけれどもなにか隠れてやらないと気持ちが受け付けない。
キャットスーツはもちろんのこと膝までとどく長いブーツとこれまた肘までどく長いゴムグローブまで使って、がっちりと身体全体を覆い固める。最後にゴムグローブのチャックを閉じた瞬間のぴっちりとした感覚もなにかしら緊張感を促してとてもいい。そうこうしているうち何とか身体全体黒いゴム一色に仕上がった。今日の全頭マスクは眼の部分に黒いレンズをはめ込んだ特殊な品だ。これを被って、ミラーに写った自分の姿を見ると、なにも呼吸をしていないような、真っ黒い人形と化しているのに気がつく。頭の中は精神が自由を得て、もう興奮状態だ。このまま車の中に自分を納めながらずっとひとりで空想の世界に浸っていたくなってきた。しかし、今日の目的はそれではない。一枚のゴムを隔てて公衆の面前にのぞみ、別の角度から世界を改めて見つめてみることだ。
このままでも姿はじゅうぶん人間離れしているが、こうなったらとどめにイスラエル製のガスマスクを被ることにしようか。ガスマスクを被るときは、器状のマスクの内側に顔を突っ込むときに独特の興奮を感じるものだ。さながら別世界の扉の中に飛び込んでいくかのようだ。そして頭の後ろにバンドの先を持って行き、力をこめてバンドを締める。顎の周囲から額まで、ぴっちりとした密着感がとてもきもちがいい。しかもマスクの上からの着用だから、マスク底での自分の顔の筋肉も四方八方から完全に固定されてしまっていて動かせない。こうなると喜怒哀楽はもはや脳の中だけの現象に過ぎないのだ(だけど気持ちが内へと無限に向くので、精神が自由になっているのだ! これがミソ)。そして世界がガスマスクのゴーグルの円状枠の中で、奇妙に映像のように遠い存在のように思えてくる。もう頭はものすごくハイだ。では車のドアをあけて外へ出てみようか。
海が近い観光地だ。道路の向こう側は林が途切れていて、あとは何処までも空が広がっている様子だ。その向こう側が海だろうかと思った。50メートルくらいの距離だから歩いていこう。むこうから誰か歩いてきた。僕の姿を見てどう思うだろうか。まさか110番はしないだろうな。もしこのまま自分が店舗の中とかに入ったらそりゃ通報されても仕方ないが、別に往来を行き来している分にはいいではないか。この警察沙汰に関する思考が自分の緊張を一番高めている原因だ。あとは割り切ったものだ。僕の眼の表情はマスクの下の黒いレンズで隠れているから別にびくびくすることもない。すれ違いの人の表情の動きを始終見つめつづけてみよう。すれ違いの人は20代の男性だ。彼はいったん僕の姿形を見た様子だがすぐに眼をそらせてなにくわぬ顔をして、そのまま僕の後方へ去っていった。やはりなにかしらびっくりしたのだろう。まあしかたないか。奇抜なスタイルはとても眼をひくものだ。
やはり観光地だ。人ごみができているほどではないが、それでも楽しそうな顔ぶれが、あちこちに点在している。向こう側に居るのはグループの旅行者だ。僕の奇抜なスタイルにはまだ気がついていないようだ。視界がせまいので顔を回して周囲を覗ってみる。なんだ、人ならいっぱいいる。いままで気がついていなかっただけなのだ。みんな、目を合わせようとしない。なにもそこに存在していないものというそぶりをしている。なかなかおもしろい。僕からも周囲に働きかけようとはしないし、それならば相手方も僕の方にまったく働きかけてこないのだ。すばらしい契約関係ではないか。物見遊山でゆっくり景観を僕も楽しむことにしよう。灼熱の太陽の下で、マスクのなかは高熱でうだっている。気持ちが変になりそうだ。汗がラバーの内部でくちゅくちゅとして不思議に気持ちがいいのも特徴的だ。外部の木々が風で激しく波立っている様子が覗える。でもラバーの内部では風のことなどなにも感じない。風の音すらきこえない。ラバーのなかで風からも隔離されて、風の中で自分がからっぽになってきている。感覚が現世のものとはとても思えないのだ。しかし、あつい。本当にあつい。黒づくめのラバーが日光を吸収して、すさまじいくらい、あつい。あるいてもあるいてもこのあつさに抗うすべがみあたらない。時間がこれほど経つと他人の視線などあまりきにならないものだ、もう周囲に自分が溶け込んでいるかのようだ。もはや自分のことだけしか考えられないのだ。はやくこのあつさから逃れられればという気持ちだけで、じゅうぶんだ。外面だけは冷静さを保つことにして、ゆっくりと歩をすすめて、自分の車のほうへ戻ることにした。でもしばらくはこの格好で車を運転することにしたい。このまま着替えているところを、なにか僕のことに関心を示した輩がつけてきて、着替える様子でも覗かれてしまってはいやだからだ。あくまでもラバーの外界の世界の住民とは隔たりを設けておきたいのだ。
はじめのうちはこのスタイルで外をであるくことにものすごく羞恥心を感じていたが、よく考えてみれば顔は密閉されているし、どこの誰であろうと僕の正体はわかるはずがないのだ。にもかかわらずこの緊張感は何だろうか。エキセントリックなスタイルのため社会から疎外されかけているところからくるのだろうか。
ここでの記述に繰り返しが多いと思われるが、この手の快楽については上昇志向をしてはならないはずで、つねに同じテーマを執拗に繰り返してなんぼだとおもっている。変るのはこのトータルエンクロージャしたときのシチュエーションぐらいなものである。性に関する指南書も古来から内容はほとんど変らない。サドの著作もテーマの執拗なる繰り返しに徹している。しかしながら読者の心をいつまでもひきつけてやまないのはやはり何回繰りかえしても感慨において変るところがなく、日常の渇を癒してくれるところにあるからだと思われる。
僕は先日、仏映画「あの胸にもう一度」(1967年)を観た。あらすじはなんのことはない。主人公の女優さんは映画のはじめからおわりまで、ずっとバイクに乗りっぱなしだ。しかしバイクに乗るとき、黒光りのする革製ライダースーツを素裸のうえに着用するようすが、なんとまた色っぽいことといったらない。そのフェティッシュなスタイルのまま映画は淡々と続いていくのであった。映画の内容はバイクに乗りながら自分の恋人に対する思いを、映像にしてリズムよく流しているという感じだ。悪く言えばはじめから終りまで、ストーリー的にはおおきな変化がない。変奏をという変奏をくりかえしながら、同じ素材でいつまでもつづけていく。でも僕はこれを観ていて、飽きることがなかったし、興奮すら感じたりした。・・・・・・さて、この映画の結末は悲劇的だ。主人公は事故であっさり死んでしまうのだ。でもこの結末はしかたなかろう。素材的に区切りをつけられるはずがないからだ。殺してしまってむりやり映画を終わらせるしか手段がないのもうなずける。
いま僕はこれを書きながらトータルエンクロージャしている。今日もつま先から指の先、顔全体すべてラバーで封じている。果てしないほどの密着感がとても気持ちがいいのだ。なんどやってもこの感覚はなかなか擦り切れない。気持ちが興奮してきてやまない。身体が熱くなってきて、インフラッタブルマスクのレンズが曇ってきて、ディスプレイがよく見えない。もう真っ白な世界の中で自分が溶けそうである。もう一度ポンプでマスクのなかに空気を吹き込んでみる。より強い密着感がとても気持ちがいい。汗で内面がクチュクチュしてきているが、当初の不快感もいつのまにかゴム内部のワールドにて、自分がこのままいつまでもいられればという感覚がする。それにしてもインフラッタブルは暑い。そりゃそうだ。この構造では熱が逃げるはずがないのだから。インフラッタブルを着ると傍目には身体全体が丸みを帯びて何かしらユーモラスな物体になる。でも着ていると密閉感がとても強く気持ちがより強く内面へと向かう傾向に陥るようだ。でも身体のあちこちは自由に曲げることもできるし、割合自由だ。
第2章 安部公房作「箱男」冒頭を、ラバーを素材にパロディーしました
上野の覆面集団一掃
けさ取り締まり180人検挙
そろそろ冬ごもりの季節を控え、東京上野署は、ピストル連続殺人魔109号の警戒もかねて、23日未明、台東区上野公園や、JR、京成上野駅地下道周辺にたむろしている覆面集団の一斉検挙を実施。公園内の東京文化会館裏、地下道などにいた合計180人を、軽犯罪法(立ち入り禁止違反)、道交法(路上禁止行為)違反現行犯で逮捕。全員同署へ連行し、指紋や顔写真を取ろうとしたが、全員がことごとく身体全体ゴムあるいは黒い牛革のスーツやゴムの覆面で覆っており、またそれを外すことを強要すると、激しく抵抗する始末で、取り調べは困難だった模様である。一部のものはスーツのチャックの部分が、上から幾重ものバックルと南京錠で固定されており、外すのに相当難渋した様子である。
取り調べを終えた者は全員とも「二度と着用しない」との誓約書を取ったうえで釈放した。しかし一時間後には、ほとんどのものがまたもとの場所に舞い戻った模様である。
これはひとりのラバードールについての記録である。
ぼくはいま、この記録をラバーに身を包みながら書き始めている。頭のてっぺんからつま先まですっぽり包み込むラバーの中だ。
つまり、いまのところラバードールはこのぼく自身ということでもある。ラバードールがラバーの中で、ラバードールの記録をつけているというわけだ。
材料
ラバーキャットスーツ 一着
ラバーマスク 1ヶ
ラバーの厚さはおよそ1mm程度で、材質は天然ゴムがのぞましい。天然ゴム独特の甘い香りが、自らの内面までも隠蔽させるからだ。ラバーは伸び縮みがあるのでサイズについてはいくらか融通がきくが、実用的にはオーダーメイドが望ましい。長時間身につけているときの疲労の度合いがまるで違うからである。
マスクもまた天然ゴムが望ましい。人間の頭部はもっとも感覚が集中する場所であり、頭部をゴムで密閉することで、そのすべてが遮断される。しかしラバーの内部は着用者にとって唯一の現実世界なので、なるべく快適さを優先したい。
マスクについて注意しておきたいのは、可能なかぎり、皮膚の露出をなくすことだ。
だからマスクの口部分は唇が露出しないように、開口部分はゴムが内側に裏返っており、ちょうどマウスピースのように口の中にはめ込むことができる。裏返った先端部分を唇と歯の間に挿入するのである。
鼻もまた同じ意味で重要だ。マスクの鼻の部分は管が2cmほど内側に伸びており、マスクを被ると鼻の内部へ挿入する仕掛けになっている。
マスクの眼の部分には、ミラータイプのレンズを入れている。外部からの視線をはねかえすという意味で、このレンズにかなうものはないからだ。単に色の濃いのもいいが、あれは西日が強く射すと、内側の皮膚が照り返しを起こし、そのため外部から眼の様子をうかがい知ることができるので、露出を拒むという意味では完璧とはいえない(もっとも時にはこれが効果的な場合もある)。季節によっては曇りを避けるためレンズではなくて黒いメッシュをはめ込むのもいいが、これはレンズに比べて視界がかなり現実的で、興を削ぐことは止むを得ない。
しかしながらこれらは一長一短であるので使い分けたい。ちなみにレンズの内側はおわん状のゴムが、レンズのまわりを支えており、着用者の眼球を圧迫しないようになっている。これも長時間の着用に考慮してのことだ。
マスクの形状は頭のてっぺんから、首の付け根下まですっぽりと包み込むのがいい。付け根部分はキャットスーツの襟部分につっこんで処理する。
一般にマスクにおいて難しいのは首部分の処理である。
マスクの後頭部には紐を通す穴が開いており、そのすべてに互いに紐を通し、結わえ付けることによって、顔全体を密閉する。紐で固定するという古風な形式を選ぶのは、これがもっともマスクを顔にフィットさせるという意味でもっとも適当だということ。また外部に対してマスクを外すことの困難性をアピールすることができるし、そしてそれは外部から自分への干渉をいっさい排除するということの意思表示でもある。
繰り返しになるが、マスクについて、もっとも望ましいのはなんと言っても着用者の頭部にぴったりフィットすることである。とくに口と鼻部分はしっかりサイズを合わせたい。マスクの外見がしわくちゃになっては台無しだし、なによりも着用感が不快そのものである。
以上の条件を満たすことで視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてが、制限されることになる。
ここまでの過程を終えたら一度鏡の前に行って自分の姿を確認するといい。容貌の急変に驚くことだろう。そして自分の内面も大きく変貌していることに気がつくことであろう。
ラバードールになるだけなら、わけはない。所要時間にしてせいぜい10分くらいのもだろう。だが、そいつを着用してラバードールになるには、かなりの勇気がいる。とにかく、このなんでもないただのゴム一枚に誰かが身体を覆って街に出たとたん、ゴムでもなんでもない、化物に変わってしまうのだ。ラバードールにはなにやら嫌みな毒がある。テレビの芸能人や、前衛芸術家の作ったオブジェにだって、多少の毒はあるのだろうが、いずれも経済的取引で相殺される程度のものだ。だが、ラバードールの毒は、そうなまやさしいものではない。
例えば、君にしたところで、まだラバードールの噂を耳にしたことはないはずだ。べつにぼくの噂である必要はない。統計があるわけではないが、全国各地にはかなりの数のラバードールが身を潜めているらしい痕跡がある。そのくせどこかでラバードールが話題にされたという話は。まだ聞いたこともない。どうやら世間には、ラバードールについて、固く口をつぐんだままにしておくつもりらしいのだ。
では、見かけたことは、・・・・・・
しらを切りあうのも、その辺までとしておこう。ラバードールが目立ちにくいのは、たしかである。交差点をわたる人混みのなかとか、コンビニエンスストアのような、人があたりまえに行き来するところに、通常に姿をあらわしていて、一般人となんらかわりがないのだ。だが目立たないのと、見えないのとは違う。とくに珍しい存在というわけではないのだから、目にする機会はいくらでもあったはずなのだ。君だって目撃したことはあるに違いない。しかしそれを認めたくない気持ちも同じくらいよく分かる。見て見ぬふりは、なにも君だけとは限らないのだ。べつに底意がなくても、本能的に眼をそむけたくなるものらしい。それはそうだろう、夜中に濃いサングラスをかけていたり、覆面をしていたりすれば、悪事をたくらんでいるか、さもなければよほど悪びれている人間とみなされていても仕方のないことだ。まして、全身をすっぽり隠してしまったラバードールが、胡散臭がられたといって文句をいえた義理ではないだろう。
それにしてもなにを好きこのんで、そんなラバードールをわざわざ志願したりする者がいるのだろう。不審に思うかもしれないが、その動機たるや、呆れるくらい些細な場合が多いのだ。一見動機にはなりそうもない、ささやかな動機。例えばAの場合などである。
ある日、Aのアパートの窓のすぐしたに、ひとりのラバードールが住みついた。いくら眼に入れまいとしても、自然に目に入ってしまう。いくら黙殺しようと努力しても、意識せずにはいられない。Aをおそった最初の感情は、不法に領分を侵されたような、いらだちと困惑、割り込んできた異物に対する、嫌悪と腹立ちだった。それでもしばらくの間は、黙って待ってみることにした。いずれ近所の、ゴミの始末やなんかで口やかましい世話焼きが、かわりになんとか手を打ってくれるだろう。ところがいつまで待っても、誰ひとり動いてくれそうな気配も見せないのだ。思い余って、アパートの管理人に訴えてみたが、無駄に終わった。なにぶんラバードールは、彼の部屋からしか見えず、見ずに済ませられる連中が、ことさら動いてくれたりするわけがない。誰もが、できれば見て見ぬふりで済ませたかったのだ。
結局Aは、交番に足を運ぶことになる。応対に出た警官から、被害届を書くように迷惑顔でいわれたとき、はじめておびえに似たものを感じたという。
・・・・・・それで、あんた、はっきり立ち退くようにいってみたんだろうね。
警官の皮肉な追い打ちに、もう腹を据えてかかるしかなかった。交番から引き返す途中、寄り道をして友人から空気銃を一挺借り受けた。部屋に戻ると、一服して気を静め、いつもなら横目でにらんだだけで済ませていた窓の外を、正視した。と、むろん偶然だろう。ラバードールの方でもマスクの正面を、まっすぐこちらに向けていたのだ。その間、わずか3,4メートル。Aの狼狽を見すかしたように、ラバーの身体が立ち上がり、レンズのはまっている眼の部分が、不動のままこちらをじっと見つめている。なめらかなレンズの奥の眼の表情は読みとれない。しかし、なかからじっとうかがっていることは分かった。逆上した。窓を開け放った。空気銃に弾をこめて、ねらいを定めた。
だが、どこに。この至近距離だったら、目玉にだって命中させられる。しかしそんなことをしたら後が面倒だ。二度と姿を現さないよう、思い知らせてやるだけでもいい。ラバーのなかでどんな表情をしているのか、あいての身体の動きからあれこれ思い描いているうちに、引き金の上で血の気をなくしかけていた指先が、ひるみを見せはじめた。それも結構、威嚇だけで相手が退散してくれるのなら、それに越したことはない。血の一滴だって残してなんかほしくない。だが、そう長くは待てないぞ。ただの威しだと見破られたら、もうやりなおしはきかないのだ。じりじりしながら、限界をはかる。再び怒りがこみあげてくる。時間が過熱し、燃えつきる。引き金をひきしぼった。銃身が、つづいてラバードールが、塗れたズボンの裾を傘の柄ではじいたような音を立てた。
同時にラバードールが大きく跳ね上がった。いくら外見が特殊だといっても、ラバーは所詮一枚の素材にすぎない。緩叙な圧力の変化にはかなりのねばりを見せても、急激な圧力の変化にはひ弱なものだ。鉛の弾はもろに相手の肉にくい込んだはずである。しかし予期していた悲鳴も、罵声も、聞こえてこない。一度跳ね上がったあとは、再び静止したラバードールに、ひどく緩慢な動作があるのみだ。Aはまごつく。ねらったのはレンズの右端あたり、たぶん頬のあたりをかすめることを期待してのものだと思う。遠慮しすぎて、ねらいを外してしまったものだろうか。それにしては反応が大きすぎた。ふと浮かんだ嫌な想像。ラバードールがラバーマスクのなかで、なにも正面を直視していたとは限らないのだ。下半身も実際のところ、どこへ歩いていくところだったのかも見当もつかない。およそ銃のことなど念頭になく、ただ通り過ぎようとしていくところだったのかもしれない。だとすると、最悪の場合、弾はラバードールの進行方向に従うように飛んでいき、頸動脈に命中してしまった可能性だってなくはない。
不快なしびれが口のまわりに楕円形の輪をつくる。夢のなかの駆け足。すがる思いで、次の動きを待ち受ける。動かない。・・・・・・いや動いている。・・・・・・たしかに動いている。時計の秒針ほどではないが、分針よりははやく、確実に傾斜を強めている。そのまま倒れてしまうのだろうか。生乾きの粘土をこすり合わせるような音。ゆっくり向きを変えながら、低くせき込み、のびをする。小さく身体を左右に動かしながら、歩き始める。前かがみになっているのか、腰の位置が気がかりなくらい後ろに寄っている。なにか言い残したように思うが、よくは聞きとれない。建物にそって通りに出ると、そのまま角を曲がって姿を消した。ラバードールがどんな表情をしていたのか、見定められなかったのが、Aには何より心残りだった。
それから半月ばかりAはラバードールのことをほとんど忘れかけていた。ただ、通勤の際、駅までの近道だった狭い路地を通るのがさすがに気がかりで、知らずにコースを変更していたり、起き抜けや、外から戻った時など、まず窓の外をうかがってみる、といった習慣の変化はまだ拭いきれなかった。
(筆者自身がのたまうのはおかしなことだが、このへんは安部氏の作品を忠実に筆写して、ラバードールを文章のあちこちにはめ込んでいるようにしか見えない。しかし、この調子でもっともっとつづけてみたいという欲望にかられている。)
この際、トータルエンクロージャをさらに徹底させてみたいという気持ちになり、インフラタブルマスクも新規購入した。今度は呼吸するためのパイプがついているだけでそれ以外には何も穴らしきものがない。マスクの中に空気を注入するとパンパンにふくれて、顔全体が周囲から圧縮されてしまう感覚が気持ちいい。外部の音も聞こえない。
ただ、何も見えないのは不安なので、マスクの目部分にはアイトレックを仕込むことにして、マスクの上部に小型カメラをつけた。外の映像はカメラ映像を通して伺うことになる。これはものすごい効果的だ。いままで三次元で見ていた世界がひとつの小さな映像にしか過ぎなくなる。視覚ですら間接的な感覚に支配されてしまうのだ。
断章 ゼンタイの魅力
ゼンタイ(全身タイツ)も奇妙な魅力を有する衣服である。一枚のタイツ生地は頭のてっぺんからつま先まで肉体のすべてをすっぽりとおおいつくすのである。身体全体が生地に引き締められているために、全身に独特の緊張感が走る。
全体は割りと高いものなので着用するときは慎重に着るべきだが、慎重に着ていくプロセスがなかなかおもしろいものだ。足を入れて行くときに生地がふくろはぎの上を滑って行く感覚もなかなか気持ちが良いものだ。そしてグローブ部分に手を通しいれるときに、自らの肉体がじわじわと別物に変貌しつつあるときの、独特の期待感と、指まで差込んだときに、グローブのしわを整えるときの感覚もなかなか気持ちが言い。肉体にタイツ生地がすこしづつなじんで行くときの忘我の感情と言ったらない!! そう、そして、いよいよマスク部分に頭部を差入れるときがもっとも感情が爆裂する瞬間だ。髪の毛がチャックに絡まるのを防止するために、下準備としてパンストをかぶることは必須だろう。パンストをかぶったときの顔面の肉体が引き締まる感覚もいいが、この上にゼンタイのマスク部分を、すっぽりと被せたときの、緊張感は最高潮と言っても良かろう。
マスクをかぶったときにいま自分の見ている世界は、一枚の生地を透かしての、どこかぼんやりとした光景しか映らない。新聞の活字等を読むことすら難しい状態だ。もっとも自室の電灯の明かりの位置がわかるし、床の上に落ちているものくらいは、判るのでつまづいたりする心配はない。それでも視界のほとんどはライクラ生地のおかげで、奪われており、そのおかげで、自分の精神は自然に内面へと向かうのは必至である。
鏡をみて自分の顔を確かめて見る。なめらかなライクラ生地でできた奇妙なのっぺらぼうの人形がそこに映っているだけだ。
笑ってみる。
鏡の中の自分はのっぺらぼうのままだ。でも微かに表情が動いているようにも見える。でもあまり変わってないような感じもする。マスクのなかはパンストのおかげで表情菌の動きがほぼ固められてしまっていて、目の形はどことなくつりあがったままに固定されているのだ。口をぱっくりあけてみても、鏡の中の顔面部が、ちょっと口の部分にクレーター上に、生地が形をちょっと変えた程度で、なんだかあまり変わっていない。
ライクラ生地はしかし魅力的な素材だ。なめらかな光沢は人間の五肢を完全に抽象化せしめてしまう。胴体から突き出た五つの突起物(頭、両手、両足)が、鏡の中に鎮座している様子に、なんとも奇妙な感覚を覚える。なめらかな生地は、社会生活を営むところの人間としての証をことごとく隠蔽してしまう。光沢を帯びた生地は、肉体の片鱗を傍目からうかがわしめることをかたくなにシャットアウトしてしまう。一体の人形の手、足、胴体と、同列の存在になってしまうのだ。すごい。すごい。すごい。
これがはたして自分なのだろうか? ここまで極限までに自分の存在を記号化してしまうのは許されることなのだろうか? いま、自室にこもってこんな遊びにふけっているのであるが、このゼンタイ姿のまま外出したら、周囲の人物はだれも自分を認識してくれないだろう。あらゆる雑物を人間の存在観念からすべて削ぎ落とされた極限の状態をゼンタイはいともたやすく自分の想念に醸しださしてくれるのだ。一枚の生地の力まことにおそるべしである。
それにしても、ゼンタイに包まれた自分の肉体を、指の先で、つま先から撫で上げて、股間をとおり、胴の上をすべらせて、首筋まで持って行く! そのときの感覚の異常さといったら! 一枚の生地があるために、指で押された感覚が、生地を伝わって、触られた生地の周囲の、拡大されているように思われてならない。身体全体の感覚がおそろしく敏感なのだ。このことでも今までの自分がなにか別物にと変貌してしまったかのような感覚になることが判るのである。