二階から目薬
一光 輝瑛
「おぉい,柏木」
どこか聞き覚えのある声で呼びとめられたような気がして振り向くと,
学生用ボロアパートの二階から,上野が手を振っていた。
「おぉい,ちょっと来てみろよ」
「え」
「いいから,ちょっとこっちに」
上野は,同じ大学の同級生だ。一回生の時に同じ講義を受講したのがきっかけで
知り合ったのだが,正直言って大学の外で彼を見るのははじめてだった。
ううむ,外見は相当古いアパートだが,これだけ大学に近ければ便利も良いだろう。
「おぉい,こっち,こっち」
しきりに手招きする上野に引っ張られるかのように,そのアパートの敷地に入る。
道路と建物の間がちょっとした庭のようになっていて,車が何台か止めてある。
「おい,上野,いったいなんだぁ」
上野がいつになく笑いながら手招きするので,きっと何かたくらんでいるのだろうとは思ったが,
それが何であるかは想像できなかった。ちょっとだけ警戒心のようなものを持ちながらも,
まあとりあえずと思って近づいた僕は,気づくと上野が手招きしている窓の真下に来ていた。
「おい,柏木,行くぞ」
「え」
「冷たいっ」
一瞬の出来事だった。上野の手が何か不自然に動いたかと思うと,次の瞬間,
それを見ていた僕の目を,何やら冷たいものが襲った。水,いや…
「どうだ,柏木,すっきりしただろう」
同じ窓から離し続ける上野の手には,何か小さいもの,片手にすっぽりと収まるくらいの
おおきさのものが握られていた。
「疲れ目にはよく効くぞ」
上野の六畳一間のアパートは,いろんな荷物が所狭しと並べられていて,とにかく
ごちゃごちゃしていたが,その割には妙に明るく感じた。先ほどの窓からは今通ってきた道路が
見えている。そうか,部屋の割に窓が大きく造られているので明るいのか。
「どうだ,びっくりしただろう」
上野の右手には,小さな容器のようなものが握られていた。
「最近発売になった新商品だ。疲れ目に良いらしいが,とにかくこの清涼感がいい」
上野はその容器,目薬の容器を軽く振ってみせた。
「目薬,,本当にか」
「ああ,確かに目薬だ。ちょっと気持ちよかっただろう」
「いや,そういうことじゃなくて…」
確かに彼の言うとおり,清涼感は心地良いものがあったが,問題はそこではない。
「で,さっきは,二階からそれを…」
「そうだ。右目と左目に一滴づつ。どんぴしゃストライクだ。うまいものだろう」
「おいおい,冗談だろう」
「冗談じゃないさ。お前も見てわかっただろう。それとも,別のところにもかかったか」
「いや…」
上野は,もう一度得意そうに目薬の容器を振って見せる。二階から目薬,嘘だろぅ…
僕は,再び同じ窓の下に来ていた。
『まぐれだというのなら,もう一度やってみせようか』
という上野の一言で,本当にもう一度試してみることになったのだ。
しかし…
さっきは突然だったから良かったが,はじめから目薬が降ってくるとわかっていて,
それでもその下で目を開けておけ,なんていうことは,どこか途方もない恐ろしさがあった。
痛い注射とわかっていて,それでも腕を出さなくてはいけない小学生,そんな気分を思い出した。
「この辺りでいいか」
「ああ,ちょうどいい」
首を上に向け,上野が落すであろう目薬の水滴を待つ,いや…
しきりにまばたきが増えてしまい,思えば思うほど目を開けていることができない。
…小学校の卒業写真を撮る時,そういえばこんな感触だったか。
まばたきするな,目を閉じるな。そんなこと言われても…
「だめじゃないか,柏木。きちんと目を開いてないと」
「おい,そんなこと言ってもなぁ」
「…!,冷たいっ」
絶妙のタイミングだった。上野に反論しようとした僕の目が見開かれたその瞬間,
彼の手から繰り出された水滴が,僕の両目,それもど真ん中をとらえる。
「…うわぁ」
圧倒的な清涼感。さきほどよりも良く効くような錯覚に陥る。
「どうだ,うまいもんだろう」
上野が,屈託のない笑顔で,得意そうに容器を振ってみせる。
「相当,目が疲れていたみたいだな,柏木」
もともと,上野とは講義の時によく近くの席に座ったことで,いつのまにか
知り合いになっている,そのパターンだった。学食などでもよくいっしょになり,
ああだこうだと話をするまでになっていたが,それ以上の付き合いはなかったから,
彼がいったい日頃どこにいて,どのサークルに属していて,どんな友人達と話しているのか,
一切知らないと言ってもよかった。希薄な人間関係,いや,そんなことはないだろうが…
「どうだ。これで納得できただろう」
「ああ。だが…」
「芸はこれだけじゃないぞ」
上野は,目薬の容器を親指と人差し指ではさみ,誇示するかのようにこちらに向けた。
「こんな差しかたもある」
「…!」
流れるような上野の動き。そして,すべてはあっという間だった。一度降ろされ,
そして振り上げられた容器の先から,水滴がたちあがる。そして,放物線を描いて落下してくる
その先に,体を回転させて,のけぞるように上を向いた,上野の右目があった。
「…すごい」
そうとしか言えなかった。まるでピーナッツを食べるのに,放り上げて口に入れるような流れ。
だが,それよりもはるかに難易度は高い。
「うぅん,やっぱりこの清涼感だ。すっきりするよ」
上野は,気持ちよさそうな笑顔。と言うか,それよりも得意そうな表情の方が勝っていたが。
「…」
しばし呆然となる僕に,上野は機嫌よさそうな声で続ける。
「じゃあ,とっておきの大技も見せてやろう」
そのアパートの“外階段”は,かなり年季が入っている,というか,古くなっているというか
…鉄製のステップ,そして手摺も鉄製。一応ペンキが塗られていたが,かなりさびが目立っていて,
歩くとぎしぎし音をたてた。中にも階段があったから,おそらく非常階段という位置付けなのだろう。
…それはそれで危ないような気もしたが。
「…」
「こんな外に出た階段が,この“芸”にはちょうどいいんだ」
上野の手には,やはり目薬が握られている。
「ふぅ」
いきなり上野が大きく息をはく。横にいた僕は,なぜか驚いてしまう。
「さあ,とっておきの芸だからな。よおく見ておけよ」
「ああ,…!」
間髪入れず,上野は目薬を振り上げる。確かに飛ぶ滴,そして,上野の動きはそれ以上に速かった。
「え…」
思わず絶句してしまう僕。上野はその滴が落ちるよりも早く,階段を駆け下りたかと思うと…
「う〜ん,いいねぇ。目にしみるよ」
…正直言って,よく見えなかった。が,階下の上野の表情からすれば,どうやら,
滴が彼の右目に収まったのは確からしい。
「…」
「どうだ。これぞ,究極の大技さ」
「別に生まれ持った才能じゃない。努力の結晶だよ」
そう言って,上野は再び目薬の容器を持った。
「これは,練習のための容器だ。なにせ,全部本当の目薬を使っていたのでは,
金がいくらあっても足りないからな。空になった容器に,水を入れたものさ。
…まあ,それでも一月にかかる目薬代は数万円単位。高くついてるけどな」
「…」
「あそこに的が見えるだろう。そこに,確実に落す技術。これが芸を可能にしているんだ。
すごいだろう」
上野は,その“練習用容器”から,その的らしきもの目指して水の滴を落していた。
的に当たっているようだが,はっきりは見えない。
「ただ落せば良いものじゃない。風の影響,そして,まばたきに負けないスピード。
そう簡単には習得できなかったよ」
「…」
上野は,満足そうにこちらを向く。…僕は,感心したような表情を作るのでやっとだった。
パチッ
何やら不自然な位置のスイッチを押すと,奇妙なほど明るいライトがこちら向きに灯った。
「ただひたすら練習すればいいってもんじゃない。研究も大切な作業だ」
「研究…」
「そう。目薬の滴というものが,いったいどんなかたちで飛んで,どんなかたちで落ちるのか。
それを把握しなくちゃいけない。瞳に飛び込むときに,きちんとした滴のかたちをしていないと,
意味がないからな」
「…」
今度は,その光にかざすように,目薬の滴を落し始める上野。
「力の入れ具合,加速の具合,そして極端に言えば,目薬のブランドによっても滴の特性が違う。
それを全部わかるようでないと,技の完成とはいえないな」
「完成…」
「まあ,俺の技もまだまだ発展途上さ。だからこうして光にかざして,滴の特性を見ている。
…徐々にわかってきたところだ」
「…しかし,この光,まぶしいな…」
「ああ,まぶしいとも。おかげで視力が落ちてしまったよ」
「……」
以上 PN 一光輝瑛
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