一光 輝瑛
「近藤さんにも,今度は営業面でがんばってもらわないとな」
「え?」
そんな一言から,“たいへんな毎日”がスタートしたのだった。
「私が,外回り,ですか?」
「そうだ」
「…」
近藤さんは,完全に困惑した表情で,野際課長を見ていた。
突然改まった形で呼ばれた応接室。通常は来客用に使われるその部屋も,
社員が呼ばれるとまったく違った使い方となる。面接室。
時として残酷な判決が下されることもあるその部屋は,丁寧な応接セットとは裏腹に,
妙に立ち入りたくない雰囲気を感じるスペースでもあった。
「これは本店の方針でしてね」
「方針…」
「現在の厳しい環境のもとでは,ますます営業力の強化が課題となっています。
これまでは内務と外回りは区別されることが多かったのですが,今後はそうも言っていられません。
内勤の経験豊富な社員を,積極的に外勤で活かして行く。
これが,わが社の命運を左右すると本店でも考えているらしいですね」
「それで私に…」
「そうです。近藤さんの豊富な経験を,ぜひ外務でも活かして欲しい。それが,本店からの意向です」
「でも,私…」
「外勤の経験が無いのはよくわかっています。
来週から1週間,研修所で必要な知識を学んでいただくことになっています。
そして,それから後は,現在弓山君が担当している地域を,
引継ぎであたっていただくことになっています」
「弓山君…」
近藤さんの困惑はますます深まっていた。
現在40歳の近藤さんは,この営業店にあって,庶務担当として働いてきた,内勤の社員であった。
仕事の内容は,お茶くみから電話交換,そして給与計算にいたるまで,
完全に他の社員が働きやすい環境を作るものに特化していて,
確かに営業の分野とは何の関係も無かった。昇進昇給の見込みは無いが,
それでも主婦の近藤さんにとっては,残業も少ないしノルマも無い。
非常に働きやすい環境であったのだ。
「弓山君は今度転勤になることになっていてね」
弓山君とは,入社5年目の若手男性社員で,日々大きなかばんを持って営業活動に走っていた。
「彼の後の担当ということで,責任は重大ですが,近藤さんの豊富な経験を活かして,
しっかりがんばってください」
課長はそう言い残して,応接室を離れる。一人残された近藤さんは,
深い苦悶の表情に包まれていた。『これは事実上の退職勧告かもしれない』そんな思いがよぎるが,
退職したら旦那一人の給料ではやっていけない,そんな思いが強かった。
安住への道程は長い。働きつづけるしかないのだ…
「これがお客様のリスト。必要な書類はすべてこのかばんに入っています。そして,携帯電話です」
「携帯…」
「主だったお客様にはこの番号を知らせてあります。必要に応じてかかってきますから,
営業中も絶対に手放せませんね。電話代は会社もちですが,
あまり使いすぎると庶務にうるさく言われますから…」
「…」
『経費がかかりすぎです』そんな風に営業に釘をさすのは,
確か先日まで近藤さん自信の仕事であった。
「最初はたいへんだと思いますが,がんばってください。責任重大ですよ」
一回りほども若い,弓山君のその一言で簡単な引継ぎは終わり。
後は,車のキー,大きなかばん,携帯。太陽の光を浴びる営業活動がまっていた。
トゥルルルル,トゥルルルル…
「!」
早速鳴った携帯に,近藤さんは背筋が伸びる思いをする。
「もしもし,近藤ですが」
「あ,近藤さんですか,」
「え?」
「あ,西野です」
「なんだぁ,西野さん」
「あのぉ,すみませんが…」
西野さんとは,30歳くらいの女性で,近藤さんの後に庶務として配属された社員であった。
「予備のお茶っ葉って,どこにありましたっけ?」
「ああ,お茶ね。給湯室の棚の,左の…」
トゥルルルル,トゥルルルル,
「はい,近藤です」
「すみません,西野ですが」
「あら,西野さん」
「あのぉ,コピー用紙がきれたときって,どこに頼むんでしたっけ?」
「ああ,それね。筒井文具に電話すれば,持ってきてくれるわ。いつものことだから,
社名を言えば大丈夫」
トゥルルルルル,トゥルルルル…
「はい,近藤です」
「すみません,西野です」
「はい」
「あのぉ,香典用の封筒って,どこにありましたっけ?」
「あれはね,庶務の鉄庫があるでしょう。,そうそう,観音開きのやつ。それのね,左側の,下」
携帯がけたたましい音を立てるたび,近藤さんは車を止めて対応するが,
肝心のお客様からの電話は一本もかかってこない。
トゥルルルル,トゥルルルル…
「はい,近藤です」
「…西野ですが」
「…西野さん」
「すみません。高野商店から請求書が届いたのですが…」
「ああ,あれね。高野商店は大丈夫。月末にまとめて振り込めば,文句言われることはないわ」
「ふっ」
近藤さんは,また一仕事終えた気分になって,再びハンドルを握る。
それにしても,電話越しに説明をするのはもどかしい思いだ。
自分がやればぱっぱと片付けられるのに…
トゥルルルル,トゥルルルル…
「はい,近藤です」
「たびたびすみません,西野ですが…」
「あら,また西野さん?」
「はい,すみません。予算の報告入力期限が今日になっているのですが」
「ああ,あれね…」
トゥルルルル,トゥルルルル…
「はい,近藤ですが」
「すみません…」
「ああ,西野さん?」
「はい。野際課長から,報告用紙を頼まれたのですが」
「ああ,あれね。あれも筒井文具に言えば…いや,予備があったと思うわ。
二階の用度品倉庫の,入って右側の,下の棚。あそこにあったと思うけど。B4のやつ」
トゥルルルル,トゥルルルル…
「はい,近藤ですが」
「すみません,西野ですが…」
「……」
「ただいま戻りました」
「ああ,お帰り」
4時過ぎ。大きなかばんに引きづられる様に帰ってきた近藤さんを,野際課長が迎える。
「どうだ,営業初日は」
「はい…」
「たいへんだっただろう。まあ,誰でも最初はたいへんだから,徐々に慣れていってもらえばいい」
「はい」
「しかし,外もいいもんだろう,目先が変って。今までの内務とは,相当違った仕事だろう」
「はい。確かに目先が変わりました。でも…」
近藤さんは,左手に持った携帯をふと見る。
「まあ,いろいろあるとは思うが,明日からもがんばってくれ」
野際課長は,いつに無くやさしい表情で近藤さんを見ている。
近藤さんは,ようやくかばんを置き,ふっ,とため息をつく。
「確かにいろいろありましたわ。…たいへんな仕事ですわね…」
以上 PN 一光輝瑛
ご感想等,メールはこちらまで。
この作品は,あくまでもフィクションです。
この作品の著作権は,作者に帰属します。