一光 輝瑛
「いいな,携帯は常に持っておくからな。困ったことがあったら,すぐに電話するんだぞ」
野本課長は,そう言いながら,机に紙を張る。
『2月9日 本日休暇
よろしくお願いいたします。
TEL 03−○○○○―○○○○
携帯 090−○○○○―○○○○』
2月8日夜,野本課長の“有給休暇”の始まりであった。
「有給休暇の消化率が低すぎる。特に,課長クラスが休みを取ってないな」
部長のそんな一言が,すべての始まりであった。いつもは業績の低さを厳しく追及する部長が,
突然言い始めた別の話。
『いまさら何を…』
と思った野本課長であったが,あれよあれよと言う間に,突然の休暇が決定していた。
「いいか,お取引先には全部連絡してあるし,もともと忙しくない日だ。大丈夫だと思うが…」
「はい…」
不安そうな顔で,引継ぎ書を手渡す課長に対し,半分無関心な様子の市山係長であった。
「とにかく,大事なことが起きたら,遠慮せずに連絡してくれよ。トラブルにしたくないからな」
「はい。…ところで,休暇は一日だけですよね」
「ああ。丸一日,全部休ませてもらうことになっている。
だが,遠出はしないから,困ったことがあればいつでも出てくるから」
「…そうですか」
市山係長は,相変わらず無関心な様子。
リリリリリリ……
目覚まし時計のけたたましい音は,すでに野本課長の潜在意識にインプットされている。
いつも通り6時に起床。
「あれ,今日は休みじゃ…」
「ああ…」
妻の一言にも,野本課長は顔色を変えない。
あくまでも,自分のペースを崩すつもりは無い,そんな様子である。
「いつでも出られるようにしとかないとな」
妻はパートに出かけた。居間に,ただ一人残された野本課長は,
いつもよりじっくりと経済新聞を見ているが,どことなく落ち着きが無い。
「7時か…」
いつもは家を出る時刻。背中を押すいつものテレビ番組も始まったが,
それでも野本課長はそのままだ。
「……」
コタツの上には,早くも電源の入った携帯電話が登場した。
いつもは営業の途中で発信に使うことが多いアイテムだが,
今日は野本課長と会社をつなぐ道具になっていた。
「!」
ちょっと不安になった野本課長は,携帯のディスプレイを見る。
「大丈夫だな…」
充電はしてある。そして,受信アンテナのシグナルも十分に圏内であることを示していた。
ブチッ
大画面テレビが音をたてて切れる。見慣れないワイドショーにしびれをきらした野本課長の手には,
リモコンが握られている。
「……」
時間は8時30分。いつもなら,すでに出社して,仕事をはじめている時間。
ちょうど,朝のミーティングの頃だろうか。
「本でも読むか…」
野本課長は,寝室の本棚から数日前に買ったハードカバーを持ち出す。
その短い移動距離の間にも,携帯はしっかりと携帯されていた。
「……」
本を読み進んでいるつもりだが,ページは不思議と進まない。
時には,同じ行を何度も読んでしまっているような気がする。
「かかってこないな…」
携帯電話は,いつまでたっても沈黙を守ったままだ。ディスプレイを確認するが,
機械自体に異常は無い。
「ふう」
パタンと音をたて,ハードカバーが閉じられる。
「飯でも食いに行くか」
車に乗って出かける。実は,家のドアを開けること自体抵抗がある。
もし,近所の人に見られてしまったら,
『いやぁ,今日は珍しく休暇で…』などと説明する必要がある。
「…」
ある意味緊張しながら,車を発進させる。が,幸い誰にも会わない。
「ふぅ」
一つため息をつく。助手席には,ちょこんと携帯電話が置かれている。
ここなら,いつかかってきても手が伸ばせる。
「…」
漠然と車に乗って出かけたが,さて,何を食うか。別に食べたいものも無く,
行きたいところも無い。正直言って,腹が減っているわけでもない。
「…」
気が付くと,行きつけの喫茶店に入っていた。
『あら,今日は私服なんですね』
『いやぁ,実は休暇で…』
そんな会話を頭の中で反芻するが,残念ながら無関心の海があるだけで,実現しない。
「もしもし…あ,休暇中の野本ですが。はい,お疲れです。…ええっと,市山君は…」
今日はじめての携帯電話。食後のコーヒーを前にして,残念ながら,
野本課長の方からダイヤルしたのであった。
「ああ,市山か。どうだ,様子は」
野本課長は,どこかぎこちないが,それでもなぜか活き活きして見える。
「どうだ,変わったことはあったか。…え,何も無い,そうか。…他はどうだ。
例のプロジェクトの件はどうだ。…え,順調か。それは良かった。特に連絡は無いか。
宇野商事からは何か言ってきたか。…そうか,何も無いか。それは良かった…」
野本課長は,どこか残念そうに首をかしげる。
「はい,何も異常ありません。…はい,どうですかお休みは。…はい,そうですか。
それではどうぞ,ごゆっくり…」
市山係長は,ゆっくりと受話器を置く。そして,いつもの仕事を再開する。
「そうか,何も無いか…」
食事を終え,いつもよりのんびり立ち上がった野本課長は,ゆっくりと出口へ向かう。
『何もありません』
市山係長の,淡々とした声が,もう一度頭にこだまする。
「そうか,何も無いか…」
左手の中には,引き続き携帯電話が存在している。
「何も無いか…」
支払いに至って,ようやく喫茶店のマスターが野本課長の様子に気づく。
「あれ,今日はどうされたんですか」
野本課長は,にこっと笑い,そしてもったいぶるように続ける。
「実は,今日は特別でね…」
『今日は特別でね…』
自分の言葉が,頭の中で反芻される。
「ふっ」
右手に持っていた自動車のキーを,軽く投げ上げる。くっついている鈴が,軽妙な音を響かせる。
そして,がっちりとつかみ直す。
「さあ,今日は休暇なんだ」
野本課長は,もう一度左手の中の携帯を見る。ディスプレイは引き続き圏内にあることを示している。
が,かまわず,電源スイッチを長押しする。
『See You Again!』
機械的な表示が出て,ディスプレイが消える。
「さあ,行くぞ!」
軽いエンジン音を残し,野本課長の車は走り去った。どこに向かっているのか,
おそらく課長本人にもわからなかったに違いない。
だが,
透き通るような,嘘のような青空が,その道の向こうにまっすぐ広がっていた。
以上 PN 一光輝瑛
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