濁流と静寂と

 

                  一光 輝瑛

 

 

 休日の醍醐味は朝にある。きっとそうだと思う。

 

 仕事の日とそうでない日,どう数えても前者のほうが多いが,なぜか身体は後者を基準に廻っている。

少なくとも,僕の場合はそうだと思う。

 目覚し時計は,すべての機械仕掛けの中で,最も有意義なものかもしれない。が,

同時にトップクラスの無慈悲さを内包している。暑くけだるい日も,寒く凍える日も,

同じ正確さをもって耳を劈く。理不尽な音色,奪いさるほどの力強さ。

真の原因はほかにある,それは心の奥底でよくわかっている。むしろ感謝している,が,

直接の脅迫であることには違いない。

 だが,休日はそんな雷撃から僕を解放する。

 

「…ん,んん…」

 声にならない。が,それでも声に出す朝のつぶやき。

「ああ,こんな時間か…」

 カーテンの向こうからはかすかな光。確かに朝のおとずれを告げているが,

灼熱の光には程遠い,優しい…

「雨か…」

 天井を叩くかすかな雨音は,しんしんと続いて空気の基礎に化けていた。

カーテンをゆっくり開くと,見なれた光景,そして灰色の雰囲気。軽く眩んだ目もすぐに慣れる。

時間をど返しした,そして静かな世界。

「雨が多いな…」

 わざと憂鬱そうにつぶやくが,心のそこでは落ちつきを感じている,それも,

自分がいちばんよく知っているだろう…

 

「もうこんな時間か…」

 まるで確認するかのようにつぶやくと,8時過ぎをさす時計が目に映る。軽い空腹感。

そして車の音。2時間遅れの一日は,ほのかなけだるさと共にはじまった。

 

 

「確か,台風が近づいていたはずじゃぁ…」

 もう一度レースのカーテンを開き,吸い付くようにガラス越しの風景を見る。

透き通るような細い雨,かすかな音。

「あれ,確かに…」

 昨夜の轟音は,まず身体で覚えている。軽いまどろみを打ち壊す,天井も破りそうなまでの打刻音。

「…夢じゃないよな…」

 

 

 トゥルルルル,トゥルルルル……

 突然の電子音が僕を現実に引き戻す。リビング,調度の上,点滅するグリーンの光。

「はい,橋本です…」

 ちょっと過剰に演出したかのようなけだるい声。それでも,なんとなく相手はわかっていた。

[おい,大丈夫だったか]

「ん,何がだよ」

[雨だよ,雨。すげぇ降ったじゃないか]

「え」

[なんだよお前,大丈夫か?]

「ああ」

 寝起きの僕には,今朝の片岡の声はトーンが高すぎた。

[しかしたいへんだったな。大丈夫だったのか]

「え」

[そっちも被害が出たんじゃないのか。いやぁ,テレビ見てびっくりしたよ]

「…」

 コードレスの受話器を持ったまま,僕はリモコンに手を伸ばす。

 バチッ

 首をすくめたくなるような嫌な音。静電気への空想が背中を走る。

「え!」

 タイミングがよかったのか,テレビは今の僕が望むもの,そしてはじめて見るもの,

実は見なれたものを映し出した。

「これって…」

[すげぇよな。今テレビに映ってるやつって,お前の家の近くだろう。派手にいったものだなぁ]

《今朝5時15分,〇〇県□□市▲▲地区の75世帯に対して避難勧告発令》

《6時10分,※※県……》

 繰り返されるテロップは,台風による雨の凄まじさを伝え続けていた。

そして,画面に映るダム,おそらくヘリコプターから撮影されたそれは,明らかに“近所”,

いや,少なくとも“近く”のそれだった。

[怖いよなぁ,あのあふれそうなダム,お前の家から近いんだろう。決壊でもしたらたいへんだよ。

避難はしてないのか]

「ああ…」

[それで,雨はどうなんだ,ひどいのか]

「いや,もう止みそうだ」

[そうか,それはよかった]

「…」

 もう一度流れたテロップは,やはり▲▲地区の避難勧告を告げている。

「!」

 ▲▲地区といえば,決して遠くない。地図上では我が家のある地区と隣接した地区だ。

テレビの様子から察するに,幸い犠牲者は出ていないようだが,その他の被害は甚大らしい。

[おい,避難勧告が出たんじゃないのか。お前のところは大丈夫だったか?]

「…あ,ああ」

[おい,本当に大丈夫なのか。浸水とかしてるんじゃないだろうな]

「いや,大丈夫だ。何も起きてない」

[でも▲▲って,お前の家の近くだよなぁ]

「ああ。そうだ」

[お前のところも危険だったんじゃないのか。避難勧告とかは聞かなかったのか?]

「大丈夫だ。この辺りには出ていないようだ。…というか,何も聞いてない」

[…そうか。それはよかった。でも,それにしてもたいへんだったよなぁ…]

 

「…そうかな。とても快適だったけどな…」

 

 

 以上   PN 一光輝瑛

 

 

 この作品はあくまでもフィクションです。

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