五里霧の困惑

 

 

                                             一光 輝瑛

 

 

 

「!」

 アタッシュケースを重そうに持って,紺色のスーツをびしっときめた男,倉本は,

通用口のドアを開いて絶句した。

「…」

 ひんやりとした感触,そして雨の匂いが飛び込んでくる。が,それ以上に…

「おい,どうしたんだ,そんなところに突っ立って」

「…」

 背後から来たのは,倉本の直接の上司である日浦課長であった。

彼もまた外出らしく,倉本と同じようなサイズのカバンを持っている。

「…」

 通用口のドアは,音も無くゆっくりと閉まりかけていた。

慌てて倉本が手を伸ばし,閉じる寸前で止める。

「どうしたんだ,傘がないのか」

「いえ,傘はあるのですが」

 ガタン

 倉本がもう一度めいっぱいドアを開くと,聞き慣れた鈍い金属音が響いた。が,

「!」

 再び飛び込んできた雨の匂い。そして,日浦課長は一瞬たじろぐ。

「何だ,これは…」

 

 

 倉本の所属する営業課は,いわゆる外回りというやつで,10人ほどの社員が

新規契約の締結を目指し一日中駆け回っていた。倉本の担当は比較的遠方のエリアの法人客であり,

日々カバンと名刺を武器に,乗りなれた軽四輪でオフィス街を闊歩する,そんな毎日であった。

 

「これはひどいな…」

 営業車が停めてある駐車場まで来たが,日浦課長の顔はますます曇っていた。

「雨だとは聞いていたがなぁ」

「はい,でも,これは…」

 二人の男は,それぞれもっともらしい黒いコウモリ傘を差していたが,

あたりの風景はそんな二人を超越して展開していた。

「俺も長いことこの職場で働いているが,こんなひどい霧は見たことがないな…」

 

 

「本当,これはひどいですよね」

「ああ,これじゃ何も見えないぞ。それに,」

 ビュウゥー

 降り続く細かい雨は,音も無く白い街を濡らしていた。そして,吹きつづける風,

その中でも時折吹く突風にあおられ,急角度をもって男達に降り注がれた。

「この風もひどいな。ほら,」

 日浦課長が指した方向には,これから倉本が乗ろうとしている営業車があったが,

風にあおられて大きく振動していた。

「これは,飛ばされそうだな」

「はい,さっきから…」

 再び強く吹いた風に対し,倉本は懸命に傘を押さえる。すでに彼の足元は無残に濡れそぼっている。

「それにしても,悲惨な天気だな。朝来るときには,曇っているだけだったのに」

「はい。まあ雨は予定通りとしても,この霧と風は…」

「確かに強い低気圧が通るとは言っていたが,これではまさに直撃ってことだな。

早朝でもないのに,この霧だ。これでは,視界は何メートルだ,10メートルも無いだろう」

「これじゃぁ,まるで雪山の景色ですよ。本当に見えない…」

「これでは,車の運転は危ないな。,おい,倉本,一旦引き返すぞ」

「え,出ないのですか,課長」

「あたりまえだ。こんな真っ白な中,営業なんかできるものか」

「しかし,私は,11時からA社との契約ですよ」

 倉本は,カバンを落とさないよう,傘を飛ばさないよう気をつけながら,腕時計を見る。

デジタルの表示板は,音も無く秒を告げている。

10時10分過ぎ,これからA社に向かえばちょうど良い時間だ。

「出るのは無理だって。こんな霧の中車運転してみろ,すぐに事故ってしまうぞ」

「しかし,あんなに苦労して,やっと契約になるのですよ,せっかく…」

「すぐに電話して,明日にしてもらうんだな。なぁに,こんなひどい霧だ。向こうもわかってくれるさ」

「しかし,A社はライバルも多くて…」

「だから,それもわかるが,それでもたどり着けないものは仕方無いだろう。

今日のところは外出は無理なんだから,先方に日延べをお願いするしかないって」

「しかし…」

 キキキィィィィ

「!」

 道路の方向から,耳を劈くような,車のブレーキ音が飛び込んでくる。

「…」

「ほら,やっぱりそうだ。こんな猛烈な霧の日に,車で出るなんて自殺行為だよ。

…さあ,今日のところはおとなしくデスクワークでもしておこうじゃないか」

「…」

 明らかに諦めきれないような倉本の表情,だが,再び吹いた強烈な風の前に,必死の形相に変る。

 

 

「さあ,電話しなくちゃ…」

 建物に戻った二人の男。倉本は,慌ててカバンから携帯端末を取り出して,画面を押している。

それを横目に見ながら,日浦課長はゆっくりと傘をたたむ。

「しかし,皮肉なものだな」

「え?」

「最新鋭の機械でスケジュールを管理して,秒まできっちりあわせた時計を持っても,

結局,強烈な霧が出てしまうと出かけることもできないわけだ。

大自然は偉大で,人間なんて小さなものだ」

「…」

 倉本は冷静になって携帯端末の画面を見る。確かに,11時のA社,昼食時はB社,午後はC社,

D社と,分単位のスケジュールがしっかりと埋まっている。

が,何日も前から必死に組み立ててきたスケジュールも,ともかく今日は役立ちそうにない。

「モバイルだ何だって言っても,結局足がふさがれてしまうと,何もできないわけだ」

「確かにそうですね,寂しくなります」

 倉本は,もう一度情報端末を見て,そして,今度は携帯電話を取り出す。

「とにかく,今日の訪問アポ先に,片っ端から電話しないと…」

 

「あれ,2人とも,まだここにいたんですか。てっきりもう出られているものかと…」

 背後の廊下から,井出が声をかける。彼もまた,見るからに外勤社員といったカバンを持っているが,

まさしく日浦課長の部下で,営業課の構成員であった。ちなみに,倉本とは同期である。

「おお,井出か。出かけるつもりか」

「はい課長。…もちろんですが」

「悪いことは言わない,今日はやめておくんだな」

「え?」

「まあ,ドアを開けてみろって」

「…!」

 

 

「しかし参ったなぁ,出られないなんて」

「お前も,大切な仕事があったのか」

 課長は一足先にオフィスに戻り,続いて倉本と井出が並んで,話しながら廊下を歩いていた。

「いや,仕事的にはたいしたことは無いんだがな」

「…ほかに何か大切なことでもあるのか」

「いや,ちょうど今日は街に繰り出すことになっていてな。

この前買ったばかりの新品のネクタイを締めてきたんだ」

「…」

「ああ,せっかく奮発して買ったネクタイなのに,こんな霧じゃ誰にも注目されないよなぁ,

あ〜あ,もったいない。よりによってこんな霧の日にはじめて締めてしまうなんて…」

 

「…お前って,平和な男だよなぁ」

 

 

「あれ,今日は珍しいな。倉本も井出も,おとなしくデスクワークか」

 営業課の机に近づいてきたのは,これも同期,システム課の石坂であった。

「別に好きでデスクワークをしているわけじゃないさ。どうにもこうにも,

ひどい霧で,外に出られないんだ」

「え,霧だって?」

「おい,知らないのか。すぐ外の霧だぜ」

「そんなにすごいのか?」

「あたりまえだろう。今日の霧は,すごいなんてものじゃないさ。,お前,見てないのか?」

「そりゃぁ,見てないさ。見るわけ無いじゃないか。

俺達は,朝から晩まで,パソコン画面ばかり見てるからな。

外を見るのは,出社の時と,退社の時だけだ。

そう言えば,休み以外で太陽を見ることも無いな」

 

「お前もやっぱり,平和な男だよなぁ…」

 

 

 以上  PN 一光輝瑛

 

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