肌身はなさず
一光 輝瑛
「いいか,このカードは情報金庫に入るためのIDカードだ。とても重要なものだから,
絶対になくしたりしないように」
普段から課長の声を聞くとかしこまってしまう村田君であったが,今日は特にその印象が強い。
崎田課長は右手に青いカード,キャッシュカードと同じようなカードだったが,それを持って,
いつになく厳しい表情をしていた。
今年新入社員として入ってきた村田君は,4月一ヶ月間,本店で研修を受け,連休明けから
晴れて営業店に配属されたところだった。まるで学校の延長かと思ってしまうような
研修の日々から開放され,ようやく本格的な社会人生活がスタートするところではあったのだが,
今はとにかく戸惑いばかりが先行していた。
5月ももう半ば過ぎ,汗ばむような陽射しのそんな日だった。
「いいか,情報倉庫というのは,最初に案内したと思うが,情報を扱うわが社にとって,
何よりも大切な場所だ。お客様に関する重要な情報が,すべて入っている。
わが社にとっては,情報は現金や宝石なんかよりもはるかに大切なものだ。
万が一,これが流出したり悪用されたりした場合,わが社はすべての信用を失うことになる。
だから,本来は情報倉庫にはむやみに出入りしないようにしたいところだが,
それでは仕事にならないから,その出入りの管理を厳密にして,責任の所在を明らかにしよう,
それが,このIDカードを使う理由だ」
「…」
「まあ,最初はこの重要性はよくわからないかもしれんが,どちらにしても
君もわが社で働いていく以上,情報倉庫に頻繁に出入りすることになるだろう。
その出入りに必要な鍵だと思ってもらえばいい。いずれにしても,非常に重要なものだから,
決してなくしたりしないように」
崎田課長は,村田君にその青いカードを手渡した。村田君は,さらにかしこまってしまって,
おそるおそる両手で受け取る。
「もう一度言うが,きちんと管理するようにな。使い方は,吉野から聞いてくれ」
吉野というのは,村田君の先輩で,指導担当になっている人であった。
「この読み取り機にカードを通すと…」
そう言って,吉野は自分の青いカードを使った。カチッと音がして,赤いランプが青色に変わる。
吉野はノブを引いて,その重々しいドアをゆっくりと開く。
「ええっと,この倉庫は案内したよな」
「はい…」
ドアの向こうには,キャビネットが所狭しと並んだ,“収納スペース”が見えていた。
村田君も何度か案内されていたし,現に今与えられていた仕事の資料も,
この部屋から取り出されたものであった。キャビネットの中には,分厚いファイルや,
多くのディスクが詰まっているのだ。
「村田君もちょっとやってみるか」
吉野が扉を閉めると,ガチャンと音がして,再び赤いランプが灯る。
村田君は自分のカードを取り出し,おそるおそるカードリーダーに通す。
「!」
ドアのノブを引くが,びくともしない。そういえば,音がしなかった。
「きちんとまっすぐ通さないと,読みとってくれないんだ。ほら,こうするんだ」
吉野は,読み取り機の村田君のカードをなれた手つきでもう一度走らせる。
カチャ,と音がして,ドアのロックが外れる。ちょっと感心したような目つきになる村田君。
「ここに通すことで,誰が,何時何分にこの金庫に入ったかということが,すべて記録される。
しかも,中には監視カメラもついているから,つまり厳重に管理されてるということだ。
…まあ,慣れてしまえばどうってことないんだが」
吉野は,今通したばかりのカードを,村田君に返す。
「くれぐれも,ドアのところに放置したりしないようにな。各個人の責任の所在を
明らかにするためのカードだから,他人に悪用された場合たいへんなことになるからな」
「…はい」
不安そうな目つきでカードを受け取った村田君は,再びロックされた扉を背に,
その青いカードを胸ポケットに入れる。
「おい,何やってんだ」
「…え」
「え,じゃないだろう。そんなところに入れて,落ちたらどうするんだ。
特に,シャツの胸ポケットは危ない。ちょっとかがんだだけで,すぐに落ちるぞ」
そう言って,吉野は自分が前かがみになって見せる。すると,彼のシャツの胸ポケットから
ボールペンが床に落ちる。
「ほら,こうなるだろう」
吉野は,すばやくボールペンを拾い上げ,軽く埃を払う動作をする。
「重要なカードなんだから,落しでもしたらたいへんなことになる。
せめて,背広の懐に入れるようにしたほうがいいぞ」
「…はい」
再び,戸惑ったような返事の村田君であった。
数分起きに背広の内ポケットを確認する村田君の姿があった。正直言って,
情報金庫の重要性はよくわからなかったのだが,とにかくこのカードが大切で,
なくしてはいけない物だという事は確かであった。新入社員ということで,
書類の入ったダンボールの持ち運びなどの肉体作業もあったのだが,ひと段落するたびに,
落してないか懐を確認した。省エネモードに設定されたエアコンのせいで,
室内でも汗ばむような気温であったが,背広の上着を脱いで椅子にかける,
などという芸当は到底できなかった。
「…まいったな,どうしようか」
新入社員の特権,“残業免除”で一人早く帰宅した村田君であったが,
帰るなり服を着替えようとしたところで頭を抱えてしまった。
「さて,どこに置こうか,このカード…」
背広のポケットに入れたままにするのは,そのままクリーニングに出してしまいそうで
恐ろしかった。かばんに…いや,もしかばんを電車に忘れてしまったら…。
とりあえずテーブルの上にカードを置き,私服に着替えた村田君であったが,
目は再びカードの方に向いていた。
同じくテーブルの上に置いた財布に目が行く。キャッシュカードを入れているように,
財布に入れておこうか…いや,
村田君の脳裏に,大学時代,財布を落してしまって探し歩いた自分の姿がよみがえる。
「かといって,このままテーブルの上や,枕もとに置くのも物騒だしな…」
村田君は室内に目を泳がせる。
「いっそのこと,神棚にでも置くか…」
村田君の視界に,正月以来に見るような,埃をかぶった神棚が入る。
「…でも,このまま会社に持っていくのを忘れそうだしな…」
村田君の頭の中で,『確実に保管できて,明朝忘れずにすむ方法』への模索がくりかえされていた。
その背後では,カードの重要性を告げる崎田課長の声がリフレインされていた。
「そう言えば…」
村田君はふと思い出したように押入れをあける。いろんなガラクタが詰まっているようで,
とても整理されているとは言いがたかったが…
「ああ,あったよ。これだ…」
5分ほど引っ掻き回したあげく,その押入れから村田君が取り出したものは,
白いウエストポーチだった。相当以前に父親から買ってもらったものであったが,
もう何年も取り出されることもなく,すっかり色あせてしまっていた。
便利なものではあるのだが,最近では人が使っているところを見かけることも
少なくなってしまった,そんなアイテムだろうか。
「これなら大丈夫だ」
青いカードをそのウエストポーチに入れ,ベルトを調節した。家の中で
こんなものを身につけるのも滑稽だが,そんなに重要なカードであるのならそれも仕方あるまい。
「まあ,これでなくすことはないだろう」
腰におさまったポーチに手を当て,村田君は奇妙な安心感を得ていた。
パジャマにウエストポーチ,恐ろしく奇妙な取り合わせだったが,ベルトをゆるめにして我慢した。
それでも,崎田課長の声がよほど強烈な印象として残ったのか,真夜中に突然目が覚めてしまった。
「…!」
寝相のせいでちょっとずれてしまってはいたが,ポーチはしっかりとそこにあった。
そして,カードは無事。再び安心した村田君は,もう一度浅い眠りについた…
「村田君,カードはどうした!」
翌朝,出勤したての村田君を,崎田課長の強めの言葉が襲った。
「カード,ですか」
「そうだ。昨日渡したIDカードだ」
ちょっとだけ慌てて,村田君は懐に手を突っ込む。
「ええっと,ちゃんとここにありますが…」
取り出した青いカード,間違いない。しかし,崎田課長の表情はますます険しくなった。
「おい,ありますじゃないだろう。どうして朝からそれを持っているんだ」
「え…」
「いいか,村田,それはとても大切なカードなんだ。それを,家にもって帰ってどうする。
なくしたらどうするんだ」
「…」
「大切なものなんだから,帰るときには責任者に返してから帰らないと」
そう言って,崎田課長は自分の右側のキャビネットを開く。
見ると,同じようなカードが何枚も保管されていた。
「おい,吉野。きちんと指導しなくちゃだめじゃないか」
「はい」
慌てて吉野が駆け寄ってくる。
「きちんと教えなきゃだめじゃないか。いきなりカードを家に持って帰るなんて,
一歩間違えばたいへんなことになるところだったんだぞ。カードが社外に流出でもしてみろ,
いきなりクビになるかもしれんぞ…」
「…」
課長の怒りは完全に吉野の方に向き,その意味では村田君は無事であった。
が,彼の困惑の表情はさらに深まっていた…
「それでは吉野さん,お先に失礼します」
夕方5時半,定時を越え,村田君の帰宅の時間がやってきた。
吉野のデスクの上にはまだ書類が山積みで,これからの残業の長さを告げていた。
「…カードはきちんと戻したか」
「はい。課長に返しました」
「…昨日は悪かったな。言ってなかったから,わからなくて当然だ」
吉野は,かなり気まずそうに村田君に話していた。一方,村田君の表情はいたって軽かった。
「いえいえ,私もよく聞かなかったのが悪かったんですから…」
村田君は,もう一度懐に手を入れる。パスケースのほかには,何も入ってないポケット。
「おかげで,今夜はぐっすりと眠れそうです…」
以上 PN 一光輝瑛
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