走る男

 

 

                一光 輝瑛

 

 

 男の視線は,何も捕らえないまま宙を泳ぎ,定まることも無く時折左右に揺れていた。

チームで統一した“誇り高き”ジャージも,いつになく着こなしが乱れて無残によじれていた。

右手にもったスポーツドリンクのボトルも,握られたまま動かず,時折水滴がたれていた。

「…」

 男は,ふと気づいたように顔を上げる。控え室に一つだけある時計は,

前回見たときからほとんど動いていないようにも思える。が,確かに秒針は回転している。

「畜生…」

 男は,もだえるように身を震わす。横にいる男達,いわば,ライバル達が

ちょっと驚いたように振り向くが,すぐに,それぞれ自分の世界に戻って行く。

後ろの方からしきりに話し合う声が聞こえるが,どこの国の言葉か,その判別もできない。

「…」

 男は,スポーツドリンクを軽くあおって,そして,今度は両手を握り締める。

,そして,もう一度時計を見る。…号砲まで,あと10分をきっている。

「!」

 会場と控え室を隔てるガラス張りの扉は,防音の役目を果たして一服の静けさをもたらしていたが,

それでも観衆のざわめきは遠耳に届いてくる。

『あと少し,あと少しで終わるんだ…』

 

 

『俺は,いったい,何のために走るんだろう…』

 ウォーミングアップも完璧に仕上げ,男にとっては,試合前の集中に身を投じる,

そんな時間であった。《脅威の集中力》,かつてマスコミは,スプリンターとしての彼をそう賞賛した。

そして,確かにそうであった。だが,今日の彼はどこか違っていた。

『俺は,本当に何のために走るんだろうか』

 レース直前,スタジアムには独特のどよめきが渦巻き,そして,

競技場内にはピアノ線を張り巡らしたような逼迫感があった。

『…』

 スタジアムには,男の母も,妻も,来ていた。母は,冬に死んだ父の写真を持ってきているのだろう。

マスコミは,《亡き父に捧げる金メダル》などと勝手に書きたてたが,男には父のために走った

記憶などどこにもなかった。そして,母のためでも,妻のためでもなかった。

《金メダル有力》確か,いつかの新聞にはそんな見出しが躍っていて,彼自身の表情がそこにあった。

ここに来るまで,いや,ここにたどり着くまで,数多くの群集が祈るように彼の名前を呼んだ。

そして,今日もメインスタンドには見慣れた国旗が踊っている。

『!』

 聴こえるはずの無い,スタジアムの歓声が耳に飛び込んできたような気がして,男は顔を起こす。

が,そこには,彼と,そしてライバル達の荒い呼吸だけが響いていた。

『俺の名を呼ぶのは誰だ,俺は俺だ,お前は,お前達は,いったい何者だ』

 

 

『畜生…』

 いつもと違うことは,男自信が一番良く知っていた。普段,こんなとき,脳裏には自分の走る姿,

そして,その先のゴールのイメージだけが見えていた。

大都市で行われたイベント競技会でも,恐ろしいほどの賞金がかかったレースでも,

過酷を極めた国内選考会でも,それはいつも同じ,彼自身のペースであった。

が,今日はどうしてもそこに戻れなかった。

『畜生…』

 うつむいて,床を見る。すぐに嫌になって,今度はパンパンと太ももを叩く。

そこには,彼自身をここまで押し上げた,無敵の筋肉が確かに存在する。

強風が彼を襲っても,雨が横殴りに降っても,この筋肉だけは彼を裏切った事が無かった。

すぐ痛むガラスのような存在でありながら,いつもここ一番の時には,

脳からの命令をすぐに活動に変換し,彼自身の体を一直線にゴールに運ぶ,

そんな恐るべきパワーを秘めた筋肉。

だが,それに手を伸ばしても,なぜかいつもの落ち着きは取り戻せなかった。

『…』

 彼の脳裏に,再び新聞紙面が戻ってくる。大きな写真が踊る紙面で,

100メートルの記録のランキングが伝えられていたが,彼の名前は堂々と筆頭に飾られ,

丁寧に太字で強調されていた。

《金メダル,最有力》,それ自体,彼の筋肉がもたらした成果に違いなく,

確かに彼の名は頂点にまで押し上げられていた。

『…』

 ふとライバルの視線が気になる。どこかで見たような,異国の戦士達。

時折彼を見ては,再び自分の集中に戻る。

『記録なんて,出すんじゃなかった…』

 だが,彼が今ここにいられるのも,その成果があってこそには違いなかった。

 

 

『!』

 男のがちがちの肩に,ぽんと触れる何かがあった。

「どうした,ずいぶん煮詰まっているじゃないか」

「…」

 男の声は音にならなかった。が,近づいてきた男は構わず続ける。

「いったいどうしたんだ。お前らしくもないな」

 聞きなれたコーチの声だった。つらい練習の時には,いつも彼の声,時には罵声もそこにあった。

国内選考会で代表の座を射止めてからも,彼の遠慮のない言葉は,男の胸に常に突き刺さった。

《やる気が無いなら,田舎に帰ってしまえ!》いまさら帰ることなどできない男にとっては,

それ以上の強い言葉は無かった,が,ハイスクールでぐれる直前だった彼を見出し,

少なくとも一端の都会に導いたのは,間違いなくコーチの業績であった。

「どうした,なにびびってんだ」

「…」

「いまさら,どうもこうも無いだろう。お前は,今日のために練習もしてきたし,試合もしてきたんだ。

今になって,びびってどうするんだ」

「でも…」

 男の表情が,一気に弱気になる。コーチの表情も一瞬和むが,それでも,彼は同じ口調で続ける。

「まあ,気にするな。確かに,俺も含めて国の連中は,お前の金メダルを期待している。

まるで自分のことのように,お前の走りを,全力で見るだろう。

それが,名誉ある国旗,少なくともそれを描いたユニフォームを身にまとって走る,

お前の義務であり,必然でもある」

「…」

「まあ,気にするなと言っても無理だろうな。だが,気にしてもどうにもならないのは事実だ」

「でも…」

 コーチは,再び男の肩に手を置く。

「はじめてのことだし,もしかしたら,これ以上の舞台に立つことはもう無いかもしれないからな,

確かに無理も無い」

 コーチは,一瞬視線を泳がせるような表情になる。

「ならば,こう考えるのはどうだろうか。確かにお前が立つのは,とてつもなく大きなスタジアムだ。

観客も多いし,ライバルも桁外れだ。だが,お前が今からやろうとしていることは,

決して桁外れなことではない」

「…」

「お前の目の前には,ただ,100メートル分のセパレートコースがあるだけさ」

「…」

「しかも,セパレートコースだからな。

考えても見ろよ,右にも,左にも,完全に横と隔てる白線がある」

「白線…」

「そうだ。この白線は,右からも,左からも,お前を守ってくれている。

確か,決勝は第三コースだったな」

「はい」

「このわずかな幅のコースには,レースの間,お前以外誰も入ることは許されない。

つまり,お前だけの,お前だけのための空間が,スタートからゴールまで,

一直線に続いているんだ」

「!」

「確かに,スタジアムは巨大だ。しかも,信じられないほどの観客。

そして,画像は全世界に対して送信される。だが,誰がなんと言おうと,

お前に与えられた第三コースは,少なくともレースの間は,他の誰でもない,

お前だけに与えられた空間なんだ。誰の介入も受けない,誰の干渉も受けない」

「…」

「つまり,お前だけの世界だ。そうなんだから,何も気にするな。

自分だけの世界で,自分の好きなようにやってこい」

「!」

 コーチはもう一度,軽く男の肩に手をやると,ゆっくりと出口に向かった。

「!」

 男は,もう一度,時計を見る。号砲は間近,すでに,係員が慌しく動きはじめている。

 

 

 会場を埋め尽くした大歓声は,すべての耳を劈き,そして,すべての希望を乗せていた。

異国の言葉でけたたましく騒ぐアナウンサーは,まるで芸術のように興奮を高めた。

4年に一度のための国旗が,確かにこの場所で振られていた。

「!」

 男は,ぎゅっと両手を握り締める。そして,軽く両腿を叩く。

「!!」

 力強い筋肉の感触。そして,男の目は狩人のそれに変形していた。

「!!!」

 号砲は数秒後のうちに鳴る。そして,長さ100メートルの細い空間,

彼のためだけの空間がそこにある。

そして,その先には…

 

 

 以上  PN 一光輝瑛

 

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