一光 輝瑛
エレベーターのドアが開くと,そこには驚くほど静かな,そして薄暗い空間が広がっていた。
「あのぉ…」
舟木さんが恐る恐る声を掛けるが,カウンターの向こうには誰も立っていない。
本社ビルの11階は,その直下までの喧騒や,書類に埋もれた倦怠感からはまるで無縁の,
ある意味こぎれいな世界であった。
「すみませんがぁ…」
「はい」
奥からようやく女性の声がして,舟木さんはちょっとほっとする。
営業所勤務が長かった舟木さんだが,それでも本社勤務になってはや半年,だが,
それでもこの11階,“社内診療所”に来るのははじめてであった。
いや,存在を知らなかったわけではない。が,つつがなく仕事をしている舟木さんにとって,
社内診療所とは,市中の病院以上に無縁な場所であったのも事実だ。
「ええっと,こちらの受付簿に名前と,社員番号を書いてもらえますか」
「はい」
見ると,確かに病院の番取り紙のような紙が,バインダーに挟まれていた。
紙上では,先客が3人ほどいることになっていたが,すでに用が済んで帰った後らしく,
このスペースに他の気配は無かった。
「ええっと,舟木さんは今日は…」
「いえ,実は先日の集団健診の時,出張中だったものですから…」
部下達と同じ制服を来た女性が,あたかも病院の受付のごとくしゃべるのには,
舟木さんは強烈に違和感を覚えた。が,それ以上の拒絶を見せることも無く,無造作に続ける。
「課で私だけ健診が受けれていないものですから,受診するように指示がありまして…」
「あ,左様でございますか。…それでしたらしばらくお待ちください…」
社員姿のその女性は,左側の棚からファイルを取り出すと,慣れた手つきでめくり始める。
どうやら,全社員の健康上のデータは,ここでファイリングされているらしい,
「あ,営業企画部の舟木さんですね」
「はい,そうです」
「確かに,集団健診未受診になっていますね。…今日すぐに受けられますか?」
「はぁ,できれば。…そのつもりで来たのですが」
舟木さんは,ちょっと不安そうな表情になって,その女性社員の顔を見る。
「ええっと,舟木さんは…」
女性は,舟木さんの体の方にちょっと目を向け,もう一度ファイルに目を戻す。
「ちなみに,舟木さんは,今朝,食事をとられましたか?」
「そりゃあ,もお。きちんと食べてきました」
舟木さんは,元気そのものの表情で,自信を持って答えた。
「…そうですか」
「…」
「あのぉ,舟木さん。実は血液検査をしなければいけないんですが,明日にしませんか」
「え?」
「いや,実は,血液検査というのが,朝食を抜いた方がいいんですよ。
できれば,今日は問診だけにして,明日は朝食を抜いてから来ていただいて,
それで血液を採りましょう」
「はぁ」
「そのほうが良いですよ」
「朝食を抜いた方が,健康にはいいのですか?」
舟木さんは,ますます怪訝そうな顔になって,女性を覗き込む。
「いえ,朝もきちんと食べた方が健康には良いのですが,健康診断,特に血液検査の時には,
朝は抜いた方が良いですよ」
「それは…」
「まあ,最近のことですから,朝食を抜いた方が,血糖値などが低く出るんですよ。その方が…」
「…」
舟木さんは,自分のおなかを覗き込むように眺める。確かに,恰幅はずいぶん良い。
Yシャツの上からでも,腹の出ているのが良くわかる。
そういえば,例年の健康診断でも,『コレステロール』とか『中性脂肪』とかいうコメントが
ずらずらと並んでいた。
「ですから,やはり血液検査は明日にしましょう。その方が良い結果が出ますよ」
「…」
舟木さんは,ちょっと困ったような表情で,それでも異論を唱える気配は無い。
「何か間違っているような気はしますが…」
「すみません…」
舟木さんは,昨日よりもちょっとだけ慣れた雰囲気で呼びかけるが,
それでも場違いな雰囲気は否めなかった。
「はい」
「あの,昨日来た…」
「あ,舟木さんですね。今日は採血をする日でしたね」
1回来ただけで顔が覚えられている,というのは,よっぽどここは暇な場所なのだろうか。
今日も名前と社員番号を書いたが,自分の上には二つしか名前が無かった。
「どうですか,舟木さん。今日は朝食を抜いてきましたか?」
「はは,そりゃあもぉ」
舟木さんは,妙に自信のある雰囲気で女性に話し掛ける。
「今朝は朝食どころじゃなかったですよ」
「?」
「いやはや,昨日は企画会議がありましてね。その後の打ち上げでビアホールに行ったら
盛り上がって盛り上がって」
「!」
「その後街に繰り出したら,結局3次会までつづきましてねぇ。
終わったのが2時,帰ったら3時でしたね」
「……」
「昨晩,いや,もう今日になりますが,あそこまで飲んだら,もう起きてからも胃がむかむかして。
…とても朝食どころじゃなかったですよ。まあ,おかげで朝食はきちんと抜けましたがね」
「…」
「あのぉ…,何か間違ってませんか?」
以上 PN 一光輝瑛
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