重要な契約

 

               一光 輝瑛

 

「杉山様でございますね。本日はわざわざご契約にご来店いただきまして,まことにありがとう

ございます。わたくしは,お電話で何度かお話をさせていただきました当完璧生命保険相互会社

中央通支店の窓口営業担当をいたしております,山科と申します。こちらがわたくしの名刺で

ございます。,どうぞどうぞ」

 異常に丁寧に名刺を差し出す営業マン。杉山氏も自分の懐に手を突っ込んだが,すぐに自分が

「お客様」であったことを思い出し,そのまま名刺を受け取る。

 

 とある平日,生命保険会社での風景である。窓口のローカウンターを挟んで,二人の男が

向かい合っていた。保険会社の立場から見てこちら側,つまりカウンターの中にいるのは

比較的若い,きっちりとしたスーツに身を包んだ男。そして向こう側にいる「お客様」も

背広にネクタイ。ただ,オフィシャルな感じはやや抑えられている。ちょっと着くずした様子と,

色のついたカッターシャツのせいだろうか。年齢は40歳を超えたくらいだろうか,ずいぶん

落ち着いてみえる。

「今日は先日お話させていただきました当社の新商品へのお申し込みをいただけるということで,

まことにありがとうございます。しかもお忙しい中わざわざご来店いただきまして。本来であれば

当店の支店長よりお礼申し上げるところでございますが,あいにく不在で。…ああ,これは失礼

いたしました。どうぞおかけ下さい」

 この言葉でようやく杉山氏はカウンターの椅子にこしかける。挨拶にちょっと戸惑っている

ようだが,まんざらでもない様子である。

 

「このたびは,当社の新商品新型自転車安全総合保険“ナイスサイクル”にご加入いただける

とのことでしたが,その内容に先立ちまして,まずはこの商品の基本理念からご説明させて

いただきたいと思います。…はい,これはお客様に本契約を理解いただく上で必須の内容と

なるかと思われますので,若干お時間の方をいただきまして。 そもそもこの商品の発想は,

生活のより身近なところに,気軽で利用しやすい保障を,との思いから来ております。従来の

生命保険はご存知の通り,疾病対策と死亡時保障に重点がおかれておりまして,日常生活とはあまり

関連のないもの,いわば生活とはまた別の話としての保険でございました。もちろん個々の危険に

対しては損保会社さんの方でいろいろと商品をご用意されていたようなのですが,あちらさまも

自動車や住宅の保険がメインですから,あまり細かい保険に対してはお力を入れておられなかった

ように拝見しております。一部の保障,たとえば特定のイベントに対するものだとか,ゴルフ等の

スポーツ関連の保障などは当社ではたちうちができないような良い商品をたくさん開発されて

らっしゃいますし,その他総合的な一般傷害保険などもかなり手がけておられます。ただ,

今回手前どもで開発いたしました商品は自転車による通勤通学に対する事故保障,疾病保障を

メインに据えながらも,その他自転車に対する破損・盗難保障,万一他の方を傷つけてしまった

場合の保障,長期継続をされた場合の追加的な疾病保障,関連する優遇タイプの年金,さらには

緊急時の医療サポートやパンクなどに対する出張サポートまでセットになった魅力的な商品に

仕上がりました。これさえ加入しておけば,もう自転車に関して困ることはないものと手前どもは

自負しております」

「はあ,」

 杉山氏は幾分困ったような表情で営業マンの顔を見つめる。

「もっともご好評いただいておりますのがやはり出張型の“サイクルサポート”でしょうか。

当社の誇る店舗網とネットワークの新しい使い方です。…おっと,前置きが長くなりすぎました

でしょうか。この新商品の特徴と理念はご理解いただけたものかと思いますが…」

 営業マンは手許に置いてあった封筒を大事そうに取り出し,杉山氏の前に置き直した。

「さて,それでは本題のご契約の説明にうつりたいと思います。こちらの“ご説明書”にそって

ご契約をしてゆきたいと思います」

 

 営業マンは封筒から何通かの書類を取り出し,一番上の書類を開く。ぎっちりと字の詰まった

書類を見て,杉山氏は一瞬たじろぐ。

「これがもっとも重要な基本約款,契約の主幹を成すものです。契約にあたってお客様に守って

いただく条項,それに対して当社がお客様に対して取らせていただく基本姿勢が記されています。

まずは口頭で説明するものなにですから,一通り目を通していただきますか。もしもご不明の点が

あればその都度聴いていただければすぐにご回答させていただきます」

 営業マンに促されて,杉山氏はその基本約款に目を移す。しかし,字を見てもいかにも頭に

入ってこない様子で,すぐに営業マンの方を見る。

「いけませんお客様。しっかりと目を通していただかないと。…いえ,もちろんお客様にとって

特段不都合なことは書いてないはずですが,いかんせん長い契約になるかと思います。しっかりと

把握してください」

 杉山氏はよっぽど『じゃあ読んで聴かせてくれ』と言いたい気分であったが,読んで聴かされる

のもそれはそれで気分が悪くなりそうであったので,仕方なく無言で行を追う。

「さて,基本約款には目を通していただきましたでしょうか…」

 営業マンが再び語り始めると,杉山氏はほっとした面持ちで息をつく。

「それでは,基本約款にご納得いただいたところで,ご確認の意味もこめまして,こちらに

ご署名の方をお願いしたいと思います」

 営業マンが(指で)示した場所には,ご丁寧に“ご署名”と記載してあり,さらにはその横に

いかにも印鑑を押すための丸い点線の枠がある。

「契約につきましてはあくまでもお客様のご意思でございますから,お客様のご署名,直筆での

ご署名をもちましてご契約の意思確認とさせていただきます。ご納得いただいた場合のみ,確認の

ご署名をお願いいたします」

 ここまで来て,拒否する理由などない。杉山氏は素直に署名をしようと,ポケットからペンを

取り出す。すると,即座に営業マンが反応する。

「お客様,それは黒のボールペンで間違いございませんか」

「…はい」

「油性のインクで間違いございませんね」

「…それはよくわかりませんが…」

「確認させていただきます」

 営業マンは手近にあったメモ用紙(完璧生命のロゴと,かわいいキャラクターが印刷されている)

を持ち出して,二・三行ひいてみる。

「間違いございませんね。さあ,どうぞ」

 杉山氏はなにか狐につつまれた様な表情で自らの名前を記す。

「名前の横にご印鑑をいただきたいと思います。本日,お届けのご印鑑はお持ちでございましょうか」

 いまさら無いなんて言えない。杉山氏は先ほどから鞄より出して待機させてあった印鑑を持ち上げる。

「まことに失礼ですが,ご確認をとらせていただきます」

 そう言って,おもむろに先程のメモ用紙に杉山氏の印鑑を押すと,視界から消える。ふと見ると

後ろに下がって,何か機械と向き合っている。どうやら印鑑が届出のものと同じであるかどうか,

確認しているらしい。何度も見直した後で,営業マンは顔をあげる。

「はい,確かにこの印鑑で間違いないですね。確認させていただきました。それではまことに

失礼かとは思いますが,印鑑はこちらで押させていただきます」

 営業マンは急に手際良くなって,杉山氏の印鑑を彼の名前の横に押印した。

 

 その時おもむろに営業マンの右横に置いてある電話が鳴り始める。

「岡田さん,電話お願いします。わたくしはご契約中ですから」

 横で岡田と呼ばれた女性がその受話器を取る。

「山科さん,本社の白鷺部長からお電話ですが」

「すいません。今お客様で手が離せません」

 岡田さんはあきらめて部長の説得に入る。

『確かに手が離せないだろうな』

 杉山氏はふと思う。

 

「続きましては,本契約のまさに魅力的な部分となっておりますいくつかの特約について

ご説明させていただきたいと思います。この冊子をご覧下さい」

 営業マンは先程の冊子を一番下にまわし,二番目にあった冊子を開く。こちらにも字がいっぱいに

詰まっていて,杉山氏をのけぞらせる。

「特約についてはあくまでも付属的なものにはなりますが,一方内容はより複雑になりますから

ご注意下さい。まずは,事故保障の部分から参りましょう…」

 杉山氏は再びたくさんの文字に目を通し,そして心のこもっていない署名を行った。

 

「これが追加的年金特約に関する特約条項でございます。多くのお客様の間で,一番問題に

なりやすいのがこの条項でございます。特にご注意下さい」

 何が“特に”であるのかすでに不明になっている杉山氏は,同じように理解するふりをする。

人間がだまされるとすればこのようなときであろうとふと思ったりもする。

 

「これが本契約のまさにセールスポイントでありますサイクルサポートに関する条項でございます。

お客様にとって非常にお役にたつ部分でございますので,特にご注意の上,ご覧下さい」

 

 印鑑がこんなに簡単に押されていくのを見るのはある意味こっけいであろうか。杉山氏自身

ですら,あまり連続で押したことが無い印鑑を,営業マンは何事もなかったかのように

押印してゆく。

 

「さあ,これで全ての印鑑をいただきました。失礼ですが,しばしお時間をいただいて,

もう一度ご確認の方をとらせていただきたいと思います」

 ご確認ではない。ただの確認であろうか。営業マンが形相を変えて,今まで自らが押印した

印影の数を数える。

「はい,これで全てのご契約が終わりました。長い時間お疲れ様でございました」

 本当に疲れたのは誰であろうか。杉山氏は自ら息をつきながら,それ以上にほっとしている

営業マンを逆に気遣う。

 

「失礼ですが,もう一点,お客様のご確認をさせていただきます。本日,免許証等,写真付の

身分証明書はお持ちでしょうか」

 あらかじめ電話で聴いていたせいもあって,杉山氏の免許証はすでに胸ポケットに待機

させてある。営業マンはじろじろとその免許証と杉山氏の顔を眺め回した後,

「失礼ですが確認のため,コピーをとらせていただきます」

と言ってどこかに消えた。

『免許証がそんなにたいしたものだとははじめて知った』

…杉山氏の感想であった。

 

「最後になりましたが,こちらが契約に対する一般的な注意事項と,今後の連絡先を示した冊子に

なります。ぜひ一度目を通していただいて,お手許に置いていただければ幸いでございます」

 いまさら冊子などもらっても,絶対に読むものかとも思いながらも,杉山氏はさらにその冊子を

受け取り,先程の封筒に無理やり挿入する。

「この機会でございますので,何かご不明の点などございましたら,お伺いいたしますが…」

『もうあるものか…』

 

 それでは本日のご契約はこれで終了でございます。今後とも当社をよろしくごひいきのほど,

よろしくお願いいたします。もし,今後何かご不明の点でもございましたら,遠慮無く当店,

わたくしの方にでもお電話いただければ,すぐにご回答させていただきます」

 

 杉山氏は人生の全てをやり終えた人でもあるかの様に,重い足取りで店頭をあとにした。

 その直後,もらった契約書類に印鑑もれや署名もれがないかを必死に再確認する営業マンの

姿があった。

 

「山科君。今日の契約は万全だったかね」

 先程から背後でその様子を見ていた課長から声が飛ぶ。

「はい,いただくべきものは全ていただいている,…はずです」

「それは当然の事だと思ってくれよ,山科君。確かに今回の“ナイスサイクル”では書類の量も

増えてしまったし,わかりにくい条項も多くなったが,われわれの主目的は契約の締結ではない。

それを頭にいれておいてくれ」

「はい…」

「ところで,契約内容の説明はうまく出来たかな,山科君。我々生保の契約に携わる者にとっては,

契約内容の確実な説明は極めて重要なものだ。一つの説明もれでも,後々にわたって大きな禍根を

残すことになりかねない。

お客様の『そんな説明は聞いていない』の一言があれば,すぐに我々はその責任を問われる時代

だからな。たとえ疎まれても,契約をする以上はむしろ過剰なくらいのご説明と,後々に証拠として

残る意思確認が重要だ。

その辺のところをようく自覚してもらわないと困るよ…」

「はい,わかりました」

 その言葉と共に,営業マンは先程の契約書に自らの文字で追記して行く。

『○年○月25日,午前11時。当店店頭にて本人直筆確認。契約意思を確認す』

 

 一方,杉山氏はしっかりと渡された“契約書類”を小わきに抱えて,その保険会社を後にする。

「なんだか,ものすごいことをやってしまった様な気がする……」

 

 以上   1998.10.25   PN 一光輝瑛

 

 

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