快適の条件

 

                一光 輝瑛

 

 

「おぉい,小島,ちょっとそこの取ってくれよ」

 先に脱衣場に上がった僕に,川村が声をかける。

「え,何?」

「一番右の上から三番目に,俺のかごがあるからさぁ,そこからマットを取ってくれないか」

「え,…これか」

「ああ,そうそう。その中に白いマットが二枚入っているだろう,それをちょっと渡してくれ」

 

 この歳でサウナなんて,なんてじじくさいんだ!,などと思っていたのだが,

一度“はまって”しまうと,これほど快適なものはない。

 木製の扉をくぐると,そこには灼熱の世界がある。裸の男達が,宙を見つめるように座っている。

その光景は嫌いなのだが,一度席についてしまうと気にならなくなる。

「ふう」

 大きく息をつくと,鼻からも高温を感じてしまう。温度計は

日頃見ることができないくらいの数字をさしている。気のせいか回転の遅い秒針が,

音もなく時間の経過を告げる。

 まるで身体中のすべてを搾り出すような,奇妙な快楽の時間…

 

「サウナ行こうぜ,サウナ」

「え,」

「駅前にこの前できただろう。あれが結構いいんだ」

「そうか…」

 先に誘ったのは僕の方だった。川村も嫌いではなかったらしく,時間を約束して別れる。

さすがにバスタオルは持ち歩いてないが,現地調達すると高くつくので,

一度家に帰ってから現地集合。つまり,そのくらい近いということだ。

 

「この足拭きマットのことか」

「ああ,そうだ」

 川村の脱衣かごは,服のほか,バスタオル,洗面道具等が必要以上に詰まっていたが,

その一番上に,確かに“足拭きマット”,真っ白いそれが二枚も置いてある。

「二枚ともだな」

「そうそう。頼むよ」

 一瞬,“俺は何をしているんだろうか”という不思議な違和感に包まれるが,

それでも川村の言う通り,その足拭きマット二枚を,浴室の入り口で待つ川村に手渡す。

「いったいどうするんだ」

「え,足拭きマットだぜ。こうするにきまってるじゃん」

「…そりゃぁそうだけど」

 当然のようなしぐさで,川村は足拭きマットの一枚を脱衣場に置き,その上に足を置く。

「別にそんなものまで持ってこなくても…」

 川村が置いた足拭きマットの下には,浴場備え付けの,足拭きマットが置いてあったのだ。

「俺さぁ,こういうところ来る時って,これがないとだめなんだよ」

「そうかぁ?」

 僕は,さんざんかいた汗が一気にひいたような気がして,それでもバスタオルを動かす。

「やっぱり清潔にしないとさぁ」

 川村は,ごく自然な動作で,もう一枚の白いマットを床に投げると,

まるで船から船に飛び移るようにそちらのマット上に移動し,振り返って最初のマットを回収する。

「!」

 僕の汗はさらにひいてしまう。

「清潔にするのも一苦労だよ」

 さらに足拭きマットを前方に置くと,そこだけが安全地帯とでも言わんがごとく,慎重に乗り移る。

「いったい何をやってるんだ…」

 そう思ったのは僕だけではなかったかもしれない。

浴室にいた数人の“おじさん達”の目が,自然に川村に集まっていた。

「ああ,これか。これはな…」

 そう言いながらも川村は,まるでサメの背中で海を渡るウサギのように,

同じ動作を繰り返して,遂に自分の脱衣かごのところにたどり着く。

 

「脱衣場の床って,想像以上に汚いんだ」

「そうかなぁ」

 帰りの車の中。疑問符に敷き詰められてしまった僕と,飄々とした川村の会話。

「考えてもみろよ。高温多湿,しかも不特定多数の人間が素足で出入りするんだ。

これほど汚い話があるものか」

「…おいおい,そこまで言うか」

「大事なことだぜ。自分を守るためさ」

「…」

「足って,結構細菌の感染に弱いんだ。足に菌を持っている人間なんて,たくさんいる。

それをうつされると思ってみろ。絶対にはだしであんなところは歩けないな」

「…」

「特に,あの足拭きマットが危ない。タオルと違ってみんなが一枚を共有するんだ。

しかも,べとべとに濡れて,高温。かびの培養をしているようなものさ」

「そうかなぁ」

「お前も危ない男だな。まるで意識がないときた。…まあ,はじめから菌だらけの人間なら

気にならないだろうけどな」

「…それで,わざわざ足拭きマットを自前で…」

「もちろん。清潔にしないとな」

「しかも二枚も…」

「床も汚いんだ。自分の身は自分で守る。防衛手段ってことさ」

「……」

 

 

「おい,また例のサウナに行かないか」

「え,あそこか」

「結構よかっただろう,あそこ」

「…いや,遠慮しとくよ。せめて別のところにしよう」

「え,何か気に入らなかったのか」

「ああ。この前あそこに行って以来,どうも水虫ができたようなんだ」

「!」

「…あんなに気をつけていたのに,何が悪かったんだろうな…」

 

「……」

 

 

   以上 PN 一光輝瑛

 

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