一光 輝瑛
「あら,お帰りなさい。早かったじゃない」
「ああ」
ほいと差し出したカバンを,自然な流れで妻が受け取る。アパートの3階,
優しい光があふれる部屋からは,空腹を誘うよい匂いがあふれ出ていた。
結婚して3ヶ月,それまで無機質な寮の一部屋に巣食っていた僕にとっては,
このときがまさしく生活の激変を感じられる一瞬であった。暑苦しく明かりも無い部屋への帰宅,
あの頃から考えるとまるで天国に来たかのような錯覚に陥る。
…そして,そこには天使が待っている。
「あ,今日ね,洋服タンス買ってきたから」
「え?」
「前から欲しいって言ってたやつ。スーツ入れるところが狭かったでしょう」
「ああ,そうだけど」
「どうしたの?,そんなに不思議そうに」
「おいおい,そりゃそうだろう。普通,いきなりタンスなんて買うか?,平日に」
「だって,博史君も欲しいって言ってたじゃない」
…妻は,昔から僕を博史君と呼んでいる。
「でもさ,タンスなんてでかいもの,どうやって買ってきたんだ?通信販売か?」
「馬鹿ねぇ,そんなにものすごいもの買ってないわよ」
「でも,タンスだろう」
「これよ,これ」
妻が指差した方向,部屋の端には,80センチ四方くらいで,
比較的薄いダンボールの箱が置いてある。
「これなら,私にでも持って帰れるわよ」
「…これは」
僕は,そのダンボールをじっとみつめる。表には,大きなゴシック体で“ビニールクローゼット”の
文字。そして,モノクロの写真が組立後の形を表現していた。
「よくあるでしょう。簡単な骨組みにビニールのカバーがついてるやつ。
これなら簡単に置けるし,結構たくさん掛けられそうだから」
「ああ,これかぁ。確かにこれなら一人でも買って帰れるよな」
僕は,妻がワゴンRの荷台にダンボールを入れているところを想像する。
おそらく,ホームセンターにでも行ったのだろう。
「いやぁ,清美がタンスだなんて言うからさぁ」
…清美というのが妻の名前である。
「あら,桐の箪笥でも買ってくれば良かったかしら」
「はは,あの3段買ったらもう3段ついてくるやつか?」
「いえいえ,最近はもう一つ,桐の収納ケースまでおまけでつくのよ」
日常会話が弾むと,無邪気な笑顔が映えてくる。
…最近の僕は,この笑顔を見るために仕事をしているのだ。
温かい夕食が終わると,“洋服タンス”の組立が始まった。『そのくらい自分でやっておけよ』と
言ってやろうかとも思ったが,それでも真新しい,新品の匂いがする箱を開くのは悪い気がしなかった。
「おい,ちょっとドライバーを取ってくれ」
「え,」
「たしか,押入れに工具セットがあっただろう」
「あ,ねじ回しね」
妻は手際よく押入れを開く間に,僕はダンボールを豪快に開く。黒く塗装された骨組みと,
思ったよりかさばる感のあるペタンとしたビニールカバー。
「これって,わざわざ工具が要るほどのものなのかしら」
ケースに入った“万能工具セット”が手渡される。確か,昔何かの粗品で手に入れたものだ。
「やっぱり要るんだろう。組立式だからな」
箱の残骸に組立図が印刷してある。3段階くらいの妙に簡単な組みたて図だが,
仮にも身長と同じくらいの高さのものを組み立てるのだ,そんなに簡単な訳は無いだろう。
「結構ちゃちなつくりなのね。もっとしっかりしたものかと思ったわ」
「まあ,こんなものだろう。洋服掛けるだけだからな」
「小物くらい載せれるわよね」
妻が,相変わらず興味深そうに覗き込む。
「この骨組みじゃぁ,ちょっと心配だな」
僕の目の前には,徐々に洋服タンスの形が見え始めていた。支柱を差し込んで,土台の方をつくる。
次にカバーを4本の柱に通し,底板を入れる。
「底には何か置けるかしら」
「おいおい,そんなに置くものがあるのか」
「あら,収納は主婦の命なのよ」
「まあ,物が増えてきたらな」
はめ込んだ底板は,そこに物を載せるにはあまりにも貧弱に思える薄さだった。
上に乗れば,すぐ踏み抜いてしまいそうな…
「!」
「博史君,何度言ったらわかるの。この中に入っちゃいけないって,あれほど言ったじゃない」
「ごめんなさぃ,だって,隠れるところ無かったんだもの」
どこかで見たようなデザインのビニール製洋服タンスがある。ちょっとだけ怒った表情の母が,
目の前に立っている。そして怒られているのは…
「博史君,かくれんぼだからと言って,この中に隠れちゃあだめじゃない。
博史君も重くなったんだから,タンスが壊れちゃうわよ」
「だって,洋平君が,先に隠れたんだ。でも,そのときはすぐに見つけて,今度は僕が中に入って,
中からチャックを閉めて…」
「だめでしょう,これ見てみなさい」
母が指差す方向,洋服タンスの底の部分は無様に折れ曲がっている。
心なしか,全体も傾いて見える。
「今度入ったら,本当に壊れちゃうわよ。絶対入ったらだめよ」
「はぁい」
返事をしながらも,僕にはわかっていた。次にかくれんぼをするときにも,
やっぱりそこに隠れるんだろう。僕か,洋平君か。
さっきまで僕が乗っていた底板は,くっきりとした折れ筋をつけて完全に曲がっている。
母が何とか直そうとしているが…
「…」
「どうしたの,博史君,ぼおっとしちゃって…」
「…,あ,いや,なんでもない」
「変なの」
「あ,まあ,ちょっとな」
目の前では,違うデザインの洋服タンスが出来上がろうとしていた。完成した骨組みの上に,
カバーをしっかりとかける。大きく開いたファスナーを,しっかりと閉めると,遂に出来上がりだ。
「さあ,できたぞ」
「ふ〜ん,結構簡単だったわね。これなら私でもできたかしら」
「おいおい,終わってから言うなよ」
「それにしても…」
妻は,全体を揺すってみせる。
「想像以上に軽い造りね。なんだか倒れちゃいそうだわ」
「こら,本当に倒すなよ」
全体を大きく横に傾かせた妻の動作に,一瞬慌ててしまう。
「やっぱり,これじゃあ本当に洋服掛けるだけよね」
「そりゃそうだ。上に物を載せたりするのだったら,もっとしっかりしたタンスを買わないと」
「やっぱりそうよね…」
妻は,ふと横を見る。僕は,散らかされたダンボールを片付けにかかる。
「あれ,結局これ要らなかったのかしら」
妻が,放置された工具セットを持ち上げる。
「ああ,結局,全部差し込み式だったからな」
「なぁんだ。探すだけ損しちゃった」
「仕方ないだろう。普通,組立式って書いてあったら,ドライバーくらいは用意するよ」
「そうなのかしら。缶詰でも缶切りの要らない時代よ」
「…」
妻は,なんだかんだいいながらも,工具セットを再び元の場所に戻そうとして,
手際よく押入れを開く。
「!」
「え?」
「…いや,なんでもない」
「いやぁね,何よいったい」
「…いや,何でも…」
振り向いた妻の後姿,その背中が,どこか丸く大きく見えたのは,本当に気のせいだったのか,
それとも…
以上 PN 一光輝瑛
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