経済新聞の読み方
一光 輝瑛
「ええ〜,皆さんも社会人になられたわけですが,昨今の情勢から思うに,少なくとも
中央経済新聞を読んで,内容を理解できるくらいの知識は身につけておかないと,
一流のビジネスマンとしてはやってゆけないと思います…」
研修所の朝は,掃除,ラジオ体操,食事,そして会議室に移っての講義。こんな感じで流れていた。
業種を問わない,新入社員の集まる研修,ということで,会社から派遣されたのは良いものの,
さて,いったい何をやらせるのだろうと思っていたら,やれ“新社会人としての心構え”
“会社人としての姿勢”はたまた“いざというときの態度と発言”などなど,一般的な精神論が
先に立って,やはり実際の“仕事”というイメージとは程遠かった。やたらに怒鳴る教官がいたり,
実地と銘打って街頭でのロールプレイングもあったりと,それはそれでかなりきついものでは
あったのだが,学生時代に体育会に属していた上田君にとっては,むしろ楽ともいえるような
日々であった。
そんな中で,一番“ビジネス”という雰囲気がする講義が,この朝の『中央経済新聞』を使った
講義であった。
「学生時代には,あまり読む機会のなかった新聞かも知れませんが…」
一部の参加者は,いかにも「そんなことはない」とでも言いたいようなそぶりであったから,
おそらく学生の時分から経済新聞を読むような生意気なやつらなのだろう。だが,上田君は
もっぱら朝売新聞が専門であり,しかもスポーツ欄愛好者。確かに中央経済新聞などとは
縁もゆかりもない男であった。
「皆さんには是非,この“中経”を購読していただき,日々読んでいただきたいと思います」
『お前は新聞社のまわし者か!』
とでも言いたいそぶりの上田君。うがった見方をするのは彼の悪い癖とも言えた。
「さて,実際に今日の“中経”を読みながら話しましょう。今日の注目すべき記事と,
その読み方ですが…」
見るからに気弱そうな,年配の担当者であった。一部の聴講生はすでに興味を失ったようで,
配布された新聞の,自分勝手な欄に目を移していた。
「一面トップは企業年金に関する統計結果の記事ですね。これを読むに当たっては,まず現在の
日本の年金がどのような状況に置かれているか,そのあたりの予備知識が必要になりますね。
まあ,一般常識の範囲内なのですが…」
窓からふと外を見ると,驚くくらいの青空が広がっている。『ああ,ついこの前までは
あの空の下で,自由に遊びまわっていたのだよな…』
「…ですから,高齢化社会に向けて,確定拠出型への注目が高まっているのは周知の事実であり…」
『ああ,そうか。大学にいるときは,こんな時間に起きることはなかったか
…だいたい10時ごろ起きだせばまだ早い方で…』
「…根本原因としては,人口構造の変化があげられるわけですが,さらに突き詰めてゆけば,
終身雇用を前提とした個別企業型の年金に対する過度の…」
『たとえ起きたとしても,昼頃まではテレビを見ながら,いや見るでもなくぼぉっとして…』
「…細かい用語の説明は一枚めくっていただいて左下の方に“今日のキーワード”の欄があって…」
バサバサッと音がして,他の聴講生達が新聞をめくる。慌てて追いかけるように上田君も続く。
「…重要な言葉については,この欄を読む習慣をつけておけば理解してゆけると思います。
が,それでも追いかけきれない専門用語も多いですから,是非新聞を読むときには
横に経済辞典を置いておくことをお勧めします…」
『経済辞典!そう言えば,経済学部だったから,1年生の4月に買ったよな。
あれ,どこにしまったかな…,買ったきり,開いてもないや…』
「…とにかく,注目記事だけでも日々読みつづけることが大切でありますから,
是非習慣づけていただいて…」
上田君はもう一度手もとの“中経”を見る。見るからに面白くなさそうな,無味乾燥の紙面。
狭くて見にくいスポーツ欄…
「おはようございます」
無事に会社に帰った上田君は,数日後の朝,行きの電車で見なれた先輩に出くわすことになった。
同じ課の山口先輩であった。
「あれ,“中経”ですね。さすがじゃないですか…」
山口先輩は,年もそんなに離れていないこともあって,上田君から見て話しやすい先輩ではあった。
その山口先輩のかばんから,新聞,それも“中経”がはみ出しているのを上田君は見逃さなかった。
「ああ,これか」
山口先輩は,その新聞を無造作に引出し,ゆっくりと広げる。
「すごいですね,先輩。やはり毎朝読まれるのですか?」
「…」
山口先輩は,口元に笑みを浮かべ,何か企むような目つきだ。
「いいか,上田君。“中経”を読むときのこつは…」
「営業をしていて,“中経”を読んでいる男だと思わせることは,それだけで
やり手のイメージを与えるから,絶対にプラスになる。だから,持ち歩くかばんの,
あえて良く見えるところに,“中経”を差しこむ」
山口先輩は,自分のかばんを指差してみせる。
「これが何よりの基本だ。本当に中身を読んで,それを相手に悟らせるのはたいへんだが,
こうしてさりげなく“中経”をちらつかせて,それとなくアピールする。
ただし,間違ってもこちらから切り出してはいけない。相手が話題にしたときに受けるだけだ」
「それにしても,やっぱり“中経”を読むのってすごいですよね」
「そう思うだろう。でもな,実のところを言うと,俺も購読しているだけでほとんど読んでいない。
新聞と言えば,産日新聞専門だ。そりゃそうだろう。こんなに面白くない新聞があるものか」
「…」
「だから,読まないくせに,あたかも読んでいるかのように見せかける努力,これが
何よりも大事になる」
山口は,くるり,と新聞を裏返す。
「基本中の基本は,“中経”は裏から読むってことだ」
「…でも,テレビ欄ないですよね」
「馬鹿言え。とにかく,この裏一面の記事は,かなり読みやすいし,それでいてインパクトがある。
角界の著名人が書いた文章も載っている。そして,何よりこの『私の半生記』のコーナーだ。
どこかの社長とか,政治家とか,それなりに有名な人が自分の人生を書いている。
これほど話題にしやすいコーナーはないぞ」
「…そうですか」
「そうだとも。その時に誰が連載されているかだけは頭にいれておけよ。『あんな立派な人でも,
いろんなことがあるものですよね』,この一言で,お前は立派な“中経”読者として認知してもらえる。
さらにきめ台詞が,『最初の頃に連載された,如水住宅の社長の連載,私はあれが一番好きでしたね』,
これを言えば,十年来の“中経”フリークに変身だ」
「素人に“中経”を読ませると,景気判断や,それに関する統計資料の記事ばかり読みたがるんだが,
実はこれがマイナスなんだな」
「え,そうなんですか」
「そうだとも。特に統計資料は全部読み飛ばしてもかまわない。もし,その話題になってしまったら,
『統計数字はいろいろと面白いものも出ていますが,どうでしょうか。短期的に数値の変動は
激しいものですし,統計的に見てもサンプルが少ないことも多いですよね。あの記事は,
もう少し落ちついて見た方が良いと思いますよ』,こう言っておけば,まず間違いなく
相手を納得させることができる」
「なぜかコンピューター用のメモリーの増産,減産,設備関係の記事も多い新聞なんだな,これが」
「…よくわからないですね…」
「別にかまわないさ。どうせ一部の専門者しか理解していない記事だ。そこで,この記事が
話題になったら,『俗に言うハイテク関連の部品は,やはり先が読みづらいですよね。
伸びるには違いないのでしょうが…』,と濁しておけば,それで十分だ」
「株とか,マーケットとか,このあたりの記事はどう見ればよいですか」
「…どうでもよいと思うぞ。どうせ,毎日変動するもので,いちいち覚えていられないからな」
「…でも,一番話題になりやすいですよね」
「話題に上っても,記憶に残らない話がほとんどだ。ただし,見出しだけは押えておいて,
特に金の相場が大きく動いたとき,これだけは注意しておいた方がよい」
「何か,使えるのですか」
「ああ,単刀直入に,『金の値段が激しく動いていますね』,でいい。特に値上がりしているときには,
『こんなことなら買っておけばよかったですね…』,と加える。これで,お前も立派な投機筋に変身だ」
「さて,最後は一面の左上に載る特集記事だ。これもそれなりにショッキングな記事が出るけれども,
こんなもの,いちいち読まなくてもよいぞ。見出しだけ適当に見ておけば,それなりに話を
あわせることができる。きめ台詞は,『やはり構造的な変革が大切なのでしょうが,
障害も多いですよね』,こう言っておけば,いかにも記事を理解しているかのように
見せかけることが可能だ」
「社説とかは読まなくてもいいですかね…」
「読まなくても良いさ。だいたい,新聞を読まないやつほど社説を読みたがる傾向がある。
あんなもの,タイトルでさえ読まなくて十分。もし話題に出たら,『私は“中経”の論評は
あまり信用していません。なにせ,バブル経済でフリーターが登場したころ,
“古い終身雇用の時代は終わった。これからは,新しい雇用形態の時代だ”なんて書いた
新聞ですからね。今,果たしてフリーターで生計が維持できるでしょうか』,
などと言っておけば,議題に踏みこまずにインテリぶることができるぞ」
「こんないいかげんな読み方で,本当に仕事の上で話ができるようになるのでしょうか」
「ああ,これで十分だ。少なくとも,俺はこの調子で乗り切ってきた」
心なしか,山口が胸を張っているように見える。
「確かに,これだけではなく,日々のニュースをチェックしておく必要はあるだろうが,
それはわざわざ“中経”で読む必要はない。そうだな…俺の場合,“お目覚めテレビ”で十分だ」
「え,“お目覚めテレビ”って,あの朝の…あれですか」
「そうだ」
「でもニュースというより,娯楽番組ですよね」
「ああ。ただ,逆にニュースのコーナーが短くまとめてあって,大抵のニュースは
簡単にチェックできる。説明も簡単で聞きやすい」
「でも,それにしても“お目覚めテレビ”とは…」
「ニュースなんて,事実関係自体はとても単純なものだ。要は,あったかなかったか,
それだけ把握できたら十分。朝のニュースコーナーを聞き流せば,それで十分だ。あとは,
いかにもそれを“中経”で読んだかのように見せかける。このことが大切なんだ」
「はじめまして。立国商事の上田と申します。本日はお忙しい中,どうもありがとうございます」
うやうやしく名刺を差し出す上田君。相手は,ずいぶん年上の男。地味なネクタイと
暑苦しいスーツが印象的だ。
「今日は,新商品のパンフレットをお持ちしました」
上田君はかがみこんで,かばんの中からパンフレットを取り出そうとする。
「おや,“中経”ですね。よく読まれるのですか」
自然とその大きなかばんの外ポケットに目がいったらしい。男は,軽い口調で切り出す。
が,その眼鏡の奥の目は,獲物を狙うハンターの様にも見えた。
「はい,“中経”でしたら,できる限り読むように心掛けているところです」
視線はかばんの奥を探りながらも,上田君も慣れた口調で返す。
「…そう言えば,今日も景気がどうだこうだの記事が出ていましたが,あれはどうなのでしょうかね。
どう見られますか」
男の口調は相変わらず滑らかだ。一方,上田君は驚くようでもなく,パンフレットを
かばんから取り出すと,まっすぐに男の目を見る。
「その記事でしたら…」
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