記憶

 

 

                       一光 輝瑛

 

 

「…何だよ,これ…」

 それは,私の正直な感想だった。

いや,むしろ,押さえ気味に発された言葉といった方が良かったかもしれなかった。

 私の目の前には,まさに“気味の悪い”物体が,天井からつるされるように存在していた。

薄いピンク色,やや灰色がかった“その物体”は,見ただけで伝わってくるぶよぶよした質感,

そして表面はじっとりと湿っていた。それでいて,たくさんのコードが差し込まれているそれは,

末期医療で機械的に生かされた人間,それを連想させた。

「これが,以前の君の質問に対する,ひとつの答えさ」

 

 

「答え…」

「そうだ。はは,君はもう忘れてしまったかもしれないがね」

 

 

 …

「人は,どうして年老いて行くんだろう…」

「ん」

 どうして,そんな問いを発してしまったのか,そのことについてはよく覚えていない。

だが,そこまでの,少なくとも数時間分の自分の見たものが,私に対して

その質問を自然に言わせたに違いない。…いくら田宮が優秀な研究者だからといって,

答えが出るなどとはとても思えないのに。

「生物学的には,いくつかの答えが用意されている」

「…」

「専門外だから,詳しくは知らないが,たとえば,そうだな…」

 田宮の表情はことのほか真剣だった。私は,まるで立ち入ってはいけない領域に踏み込んだ,

そんな雰囲気を感じた。

「たとえば草花が春に芽を出し,秋に花をつけ,冬までには枯れてしまうだろう。

あれについてはさまざまな要因からそうなっていて,たとえば日照時間の変化,

気温の変化等の外的要因にかなり影響を受けている」

「…ああ」

「しかし,それだけじゃない。たとえば,ビニールハウスで,ずっと夏のような状況を

作りつづけたとしても,一年で枯れてしまう草花がいつまでも夏の姿で生き続けるわけではない。

いつまでも夏だとしても,やはり時期がくれば枯れてしまうものだ」

「…」

「これは,植物の遺伝子に,あらかじめプログラムされた成長過程が,

最終的には発動されるからだと言われている」

「それで…」

「そのライフサイクルのプログラムというのは,別に植物に限られたものではなくて,動物,

そして,人類にもインプットされている。そのせいで,人間はある時期まで成長して,

ある時期にある大きさに定まり,そして,“歳相応”に老いてゆく。

これが,人間が老いてゆくプログラムだと,一説には言われている。

もっとも,細胞分裂時の不完全さの蓄積がその要因であるという説も否定できないから,

実際はその相互作用で老いてゆくのだろうがね」

「…」

「しかし,君が僕に対してその質問を投げかけたということは,もちろん,

僕なりのほかの答えを期待してのことだろう」

「…」

 私は,本当にそんなものを期待していたのだろうか…

 …

 

 

「有機物質を使用しているから,見た目はかなり気味悪い,それは否定しないがね」

「ああ,確かに気持ちの良いものではないが,これが…」

「この物質が,君の疑問を解く突破口になってくれるものと信じている。少なくとも,

そのひとつの方法としてね」

 ガチャリ

 田宮は,なれた手つきでキーボードを叩く。かすかな電子音が鳴り,

「!」

 その“物体”が,かすかに波打つのが感じられた。

「これは,有機物質を使った,いわば記憶装置だ。これまでに開発された,どんな記憶媒体,

たとえばテープやディスクなどよりも,はるかにたくさんの情報を収納できる。

有機的なものだから,安定性を確立するのに苦労したが,

それでもこの形にできたのはまさに科学の勝利,バイオテクノロジーの大きな成果だな」

 

 今日の田宮の表情には,ある意味恐ろしいものを感じていた。何かをやり遂げた時の科学者の顔,

そういってしまえば聴こえは良いが,むしろ,対岸に渡ってしまった,

知らない境地を知ってしまった,そんな危うさが彼の表情を支配していた。

「人間が年老いて行く過程をある切り口から見れば,それは記憶の蓄積に他ならない」

「記憶…」

「そうだ。人間が数十年を生きていって,残るものは何だろうか。それを考えると,

肉体的な変化を所与のものと仮定すれば,ほかには記憶くらいしか思いつかない」

「…」

「人間は,長く生きれば,その分記憶を蓄積して行く。

…もっとも,思い出す能力には決定的な個人差があるがね」

「記憶の蓄積こそ人生。そう言うのか」

「ある意味そうだな。もちろん,外的な影響,逆にその発信をすべて別にしての,

生物学的な変化に対する議論だから,哲学的に考えれば異論は限りなく出るだろうが,

一つの仮定としては成り立っていると思う」

「記憶…」

「人間が生きて行く上で,好むと好まざるとにかかわらず,蓄積されて行く記憶。

それは,君にも,もちろん僕にもある」

「…」

「これが老化に他ならないとしたら,どうだろうか」

「そんな馬鹿な。記憶の蓄積が…」

「成長と老化は表裏一体。質を無視したとして,子供と大人の,脳細胞の違いは何だ」

「…それぞれの有機的な結合」

「そう,それが記憶をもたらし,高度な知識をもたらし,」

「だが,それこそが老化だとしたら…」

「コンピューターのハードディスク,はじめから持っている容量に対し

どこまで食い込んでいるかは,システム自体の安定性に大きな影響を及ぼす」

「それが人間にも当てはまる,と…」

「一つの仮定だがね」

 

 

「この記憶媒介は」

 田宮が指差した方には,相変わらずグロテスクなその“有機物質”があった。

「蓄積された人間の記憶を置き換えて保存できる許容量がある」

「まさか…」

「そういうことだ。人間の脳の記憶を,こちらの保存器官に置き換え,

歳とともに増大する“記憶の保管庫”としての義務から,人間の脳を開放する」

「しかし,それでは…」

「ほかの媒体と同じさ。必要に応じて,脳本体に再度読み込むことは常時可能だ」

「記憶をここで,こんなもので管理するのか…」

「不安定な部分もあるが,それは人間の脳だって同じだ。

むしろ,こちらの方が科学に支えられている分,安定するはずだ」

「それで…」

「脳を,不要な記憶を保管する無意味な倉庫としての責務から開放してやれば,

人間の思考能力は格段に向上する。まさに,若く柔軟な頭脳を,もう一度手にすることができる。

そういうことだ」

「そんなことが…」

「科学は時に残酷な結論をもたらす。いくら精神的な哲学を信奉しても,

人間がそれ自体物質に他ならない以上,その真実を超越することはできない。

それを,具体的に体現したのが,このシステムってことさ」

 田宮はもう一度,“あの物質”を指差す。ほのかに波打つその有機物質は,

電子の光を受けてじとじとと光っていた。

 

 

「さて,山口。決断してはもらえないだろうか」

「…」

「ここには,君が欲しがった,老化に対する答えがある。

そして,若く明晰な自分を取り戻すための,一つの突破口がある。

その扉を開くかどうかは,もちろん君の自由さ。

だが,君はきっとその先に進んでくれるだろう。私はそれを信じているよ」

「…」

 私は,田宮の顔をじっと見る。

「田宮。僕は,君の科学者としての手腕については,全面的な信頼を置いている。

その君が作った研究の成果だ。間違いは無いだろう。

そして,君の議論に異論をはさむつもりも無い」

「…」

「だが,そこに足を踏み入れる前に,もう一つだけ,答えて欲しい質問がある」

「…それは,何だ…」

 田宮の顔は,やはり真剣なものであった。その背後には,“あの物質”がある。

 

「あの物質に僕の記憶を移したとして,その物質,あそこにあるあの物質は,

僕にとって,いったい何なんだ,何になるんだ…」

 

 田宮の表情は動かなかった。そして,

 

「×○□▽§※∧…」

 

 

 以上 PN 一光輝瑛

 

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