一光 輝瑛
黒田が,促されるままに冷蔵庫のドアを開けると,そこには缶ビールの山があった。
「ひゃー,すごいな,こりゃ」
中山のアパートで,三人の男が酒盛りをはじめようとしていた。どうしてはじまったのかは
まるっきり不明であったが,とりあえずビールで乾杯という運びらしい。
「つまみはこんなもんでいいだろう」
コンビニの袋から,池内がスナック菓子をいくつか取り出す。
「ああ,それだけあれば十分だろう」
おもむろにテレビのスイッチを入れる中山。かなり遅い時間の番組が始まっているが,
誰も意に介さない。次の日の予定をまったく無視できるのも,大学生の特権であった。
「しかし,すごいな,このビールの数」
とりあえず3本を取り出した黒田が,残り二人に手渡した後,さっそく缶を開ける。
プシュー
心地よい開栓音が響く。そしてまた一つ。
「しっかし珍しいな。“毘沙門ビール”か」
池内が,珍しそうに缶を眺めながら,中山に話しかける。
「はは。別に珍しくはないだろうけど」
「でも,ちょっと高いやつだよな。確か20円か30円」
「ああ」
「しかも,あまりディスカウントにならないから,実際はもっと高い」
黒田も話に参加する。
「でも,その分うまいからな」
「俺はビールなら何でもいいけどな」
「そうかな,“トナカイビール”と“サンライズ”ではずいぶん違うぞ。
やっぱりサンライズの方が切れ味があっていいな」
「ビールの違いなんてそんなにわかるもんじゃないって。よく売っている外国産のビールでも,
そんなに国産のものと変わらないと思うぞ」
「そうかなぁ」
「そうだって。もともと日本人の味覚に合うものを選んで輸入しているわけだから,
十分うまいって」
「でもやっぱりサンライズの“スーパーシャープ”がいいけどな」
黒田と池内のビール談義を聞きながら,中山が再び“毘沙門ビール”を一口飲む。
「おまえら,わかってないな…」
「やっぱりビールは“毘沙門”のもんさ。トナカイやサンライズの大衆向けビールとは
ぜんぜん違うよ。特に,じっくり飲みたいときにはその違いがはっきりする。一杯めより二杯め,
そして三杯め。どんどん味わいが増してゆくんだ。そして,心地よいのどごし,切れ味。
大量生産用の普通のビールとはぜんぜん違う。高いだけのことはある」
「高いったって,そんなには変わらないだろう」
「いやいや,値段以上に実力の差ははっきりしているさ。とにかくビールといえば,
“毘沙門ビール”のものさ。
この味を知ってしまったら,もう他のビールは飲めないな」
野口は器用にナイフを操り,あっという間にコルクを引き抜くと,
三島に見えるようにテーブルに置いた。
「…」
思わぬ展開に言葉を失う三島,しかし,満足そうな笑みを浮かべた野口は,
ガラス製の器を取り出すと,その内壁に沿わせる様にワインを注いでゆく。デキャンタか。
「久しぶりだからな。とっておきのものだ」
野口は,冷蔵蔵からチーズを取り出し,手際よく切る。
「やっぱり,ワインにはチーズだよな」
「しっかし,ひさしぶりだよな」
ちょっと暗めのライトが,大きめのワイングラスに反射してキラキラ光る。
「ああ,とんでもない偶然だよな」
大学時代の同級生,この二人は,駅前でばったりと出くわした。お互い,
同じ町に住んでいることすら自覚していなかった二人だ。最初は,『どこかで見た男だ』
くらいにしか思わなかったかもしれない。が,そこはかつての友人。すぐに旧交をあたため,
結局野口の家で飲もうという話になったのだ。
「やっぱり,赤ワインが一番だな」
野口はさりげなくつぶやく。
三島は,その大きいグラスをもてあますように,それでいていいピッチで飲んでいた。
「ワインというのはな,ビールとは違う。注ぐときには,グラスは持たずに置くもんだ」
グラスを両手で持ち上げようとした三島を制し,野口はそのテーブルの上のグラスに,
ゆっくりとデキャンタの液体を注ぐ。
「比較的若いビンテージだけどな」
野口は,さきほどの瓶をもう一度手に取り,そしてラベルが三島に見えるように,
テーブルの上に置く。
「1992年ものだ」
「…」
「一般的には古いものほどいいのだが,俺はこのビンテージが好きだな。まあ,
最終的にはそれぞれの好みだがな」
三島は,再びグラスから一口飲んで,そしてそれをテーブルに置き直す。
気取った雰囲気ではあるが,やはりグラスの扱いに慣れていないのが実体か?
「まあ,今ブームだからな」
「ブーム!?,ああ,確かにそうだがな」
野口はちょっと馬鹿にしたような口ぶりだ。「結局,ブームなんて関係ないさ。
俺が本気でワインを飲み始めた頃には,まだブームなんて来ていなかったさ」
グラスを手に取り,鼻を近づけてその香りをかぐ。しかし,口はつけずに
そのままグラスを戻す。
「いいものはいい。ブームなんて関係ないさ」
「最近では,チリだ,アルゼンチンだといろいろ言われているが,結局は,
本場のフランスが一番だな」
野口はグラスのワインを光に透かすように持ち上げる。
「そして,やはり一番はボルドーだな。この色合い,香り,そして口当たり。
最高の品質と味わいがここにある」
「…」
野口の目の輝きに,三島はもはやついてゆけない。
「このワインを知ってからは,もうほかのものは飲めないな」
「そろそろ日本酒でいこうか」
「ああ」
金曜日の夜の居酒屋。賑わう店内のカウンター,先ほどから,同じ会社の二人のおやじ,
船木と古賀が座っていた。すでにビールの中ジョッキは空になろうとしていた。
注文を取りにきた,見るからにアルバイトの女の子は,注文書の小さなバインダーを持ち,
二人の指定を待つ。
「冷酒を一本,いや,二本だ。グラスは二つ。銘柄は,“白菊鶴光錦梅”で」
「冷酒か。相変わらずだな。熱燗でなくてもいいのか」
「ああ。冷酒だ。こういうところでは,冷酒に限る」
「居酒屋で熱燗を頼むと,どんな銘柄が出てくるかわからない。
だが,冷酒ならたいてい銘柄を指定できるからな」
「ふ〜ん,日本酒なんてどれも同じような味だが」
「とんでもない。辛口,甘口,切れ味の違い,水の違い。これほど違いの出るものはない」
そのうち,冷酒の瓶と,ガラスのグラスが到着する。さっそく,船木と古賀は
それを酌み交わし始める。
「う〜ん,やはり“白菊鶴光錦梅”に限るな。この味わい。う〜ん」
「…」
古賀は一瞬言葉を失うが,それでもグラスの酒を飲み干すと,さらに手酌でもう一杯注ぐ。
「ああ,確かにうまいが…」
「酒は…」
船木は,もう一口煽るように飲むと,古賀の目をじっと見て続ける。
「酒は,水,米,腕,微妙な温度,そして天候等で微妙に変わってくる。
まさにその時その時の偶然が創り出す芸術品だ。しかし,そんな中でも,
本当に旨い酒をつくるのはいくつかの酒屋に限られてきているのが事実だと思う」
「…」
古賀は最初船木の目を見返したが,すぐにそらす。
「全国的に有名なメーカーもあって,確かにそいつらはうまい酒を作る。
が,あまりメジャーなのは俺は嫌いだな。大量生産にかまけて作りが雑になってくる。
まあ,宿命かもしれないがな」
「ああ,確かにそんな風に言われるが…」
「俺は,この銘柄が好きだな。“白菊鶴光錦梅”に限る」
「これって,確か地元の銘柄だよな」
「ああ。この近くのつくり酒屋だ。全国的にはまだ無名だが,それでも全国コンテストで
金賞を取ったこともあるそうだ」
「金賞!」
「まあ,全国で一位ということではないが,それでも高い評価は受けている。地域の誇りだな」
「地元か,」
「確かにうまい。このうまさは本物だよ。特に冷酒で飲むとその実力がはっきりとわかる。
同じ地域に生まれて,俺たちも幸せだよ」
「…」
船木はもう一度グラスを傾け,満足そうな表情で飲み干す。
「飲むほどに味わいが出てくる。最高だよ」
古賀は,再び船木のグラスに酒を注ぐ。船木はもう一度口をつけ,そして丁寧にグラスを置く。
「やはり,この酒の味を知ってしまうと,もうほかの酒は飲めないな」
以上 1999.03.27 PN 一光輝瑛
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