森のくまさん
一光 輝瑛
「…なんだね,戸田君。このくずかごは」
しかめっ面した,見るからに不機嫌そうな奥井課長の声が,人数の割にだだっ広いオフィスに響いた。
「どうしてこんな…」
それでも比較的有名なメーカー,炎天精密器機の,総務部門があるフロアである。
「まさか,さっき頼んだくずかごが,これかね」
「はい,そうですよ,課長さん」
一方,怒鳴りつけられたはずの戸田さんはけろっとした顔をしている。
「しかし,こんなもの置いていては,わが社の品位を疑われるだろう。どういうつもりだ」
「でも課長,ゴミ箱はゴミ箱ですわよ」
「そういう問題ではないだろう。なんだね,このデザインは」
「かわいいでしょう」
「馬鹿者,こんな子供みたいな…」
「あれ,課長さんご存知ないんですか。これは今はやりの“ミニミニ・ベア”といって,
凄い人気なんですよ」
「…」
奥井課長は,再び頭を抱えるポーズを取る。
「しかしだな,戸田君。いくらなんでも職場に置くにはふざけたデザインじゃないか。
おもちゃを置いているわけではないんだ」
「ああ,でも課長さん。もう全部買ってきてしまいましたわ」
「…!」
奥井課長は,軽く目を見開いてあたりを見廻す。確かに,
そのくまがデザインされた同じ絵柄のゴミ箱が,あちらこちらに置いてある。
「課長さんがおっしゃいました通り,20個,きっちりと揃えました」
「…このデザインでかね」
「はい」
戸田さんのいっそう元気の良い返事に,奥井課長はますます眉間のしわを深める。
「戸田君,君ね…」
「いったい,どうしたんだ」
背後からいっそう貫禄のある,ダークスーツの男が歩いてくる。神埼部長,
つまり奥井課長の上司であった。
「どうしたんだ,奥井君。騒がしい」
「…いや,実はですね」
「つまり,資源ゴミを分別するための,新しいくずかごを買いに行かせたら,
戸田君がこれを買ってきたわけだな」
「はい,そういうことでして」
一通り説明を終えた奥井課長は,ちょっとほっとした表情になって神崎部長を見る。
一方,神崎部長は,つまみ上げるように話題の“ミニミニ・ベア”のゴミ箱を持ち上げる。
「まあ,確かにくずかごには違いないが」
神埼部長は,ちょっと困ったような表情を見せるが,その目は優しいままであった。
「普通のゴミ箱もあったんですが,ありふれていたので。この“ミニミニ・ベア”のデザインのものも
同じ値段だったものですから,どうせならかわいい方がいいかと思いまして」
戸田さんは,ちょっと泣きそうな表情を見せているが,
それでも自分の言いたいことははっきりと言う。
「で,奥井君は,どんなくずかごを買うか,きちんと指示をしていたのかね」
「…いえ,ただ,常識の範囲で」
「ひどいですわ,そんな,常識がないなんて」
戸田さんは,さらに声に泣きそうな雰囲気を加える。
「しかし…」
奥井課長はすっかり困った表情。
神崎部長は,腫れ物に触るように戸田さんを見た後,再び奥井課長の方を向く。
「まあ,いずれにしても買ってしまったものはしかたあるまい。デザイン的にはちょっと
変わっているが,目先も変わって良いだろう。同じ値段だったのなら,経費的にも問題はないし…」
神崎部長。まるで自分に言い聞かせるような口ぶりであった。
「戸田君,これはなんだね,いったい」
二日後,再び奥井課長の声が響く。
「え,ボールペンですが。先ほどおっしゃられていた…」
何食わぬ顔で応対する戸田さん。
「…」
奥井課長はさらに困ったように,手もとの“ボールペン”を見る。
「なんだね,これは…」
「上のマスコットを押せば,芯が出てきますわ」
カチッ
言われたとおりにする奥井課長。しかし,眉間のしわは深まる。
「だから,なんでこんなおもちゃみたいな」
「とんでもない。きちんと文房具屋さんで買いましたから,ボールペンには違いありませんわ」
「しかし…」
奥井課長の右手には,確かにおもちゃに見えるものが乗っていた。細長くて,カラフルで。
そして,一番上にはどこかで見たような,愛くるしいくまの顔がついていた。
「この前と同じ,“ミニミニ・ベア”です。かわいいでしょう」
「大馬鹿者,どうしてこんなものを職場に持ち込むんだ。遊んでるんじゃないんだぞ」
「いったいどうしたのかね」
背後から,再びより年配の男が歩いてくる。やはり,神崎部長であった。
「どうしたんだ,奥井君。騒がしい」
「いや,実は…」
「つまり,ボールペンを買って来いと言ったら,戸田君がこれを買ってきた,と」
「はい…」
あきれたような表情で説明を終えた奥井課長は,チラリと戸田さんの方を見る。
再びちょっと泣きそうな表情になっているのが,奥井課長の不安を誘う。
「でも,きちんと文房具屋さんで買ったんです。いつも買っているものではありふれているかと
思いまして。…同じ値段だったんです。どうせならかわいい方が…」
戸田さんの手許には,おそらく10本入りだろうか,同じ“ミニミニ・ベア”のデザインの
ボールペンの箱が,三つほど置かれている。
「で,まとめ買いしたと…」
奥井課長は完全に困った表情になっている。
「はい,30本で1350円。普通の事務用ボールペンと同じ値段ですわ」
「しかしそれにしても…」
「まあ,良いじゃないか,奥井君。買ってしまったものは仕方ない。デザイン的には多少問題が
あるかもしれないが,書けることには違いないし,同じ値段なら経費的にも問題はない」
神崎部長,再び自らに言い聞かせるような口ぶりであった。
「戸田君,なんだね,これは」
さらに翌週。再び奥井課長の声が響く。
「作業服ですわ。先日注文したものです」
「…これが,例の作業服かね…」
奥井課長は,完全に困惑した表情で,戸田さん,そしてテーブルに置かれたその“作業服”を見る。
「また,どうしてこんなふざけた…」
「いえ,ふざけてなんかいませんわ。きちんといつもの業者に発注しましたし,
カタログに載っているデザインなのですから」
「しかし,戸田君,君ね」
「かわいいと思いませんか。いつも同じ作業服ではありふれているかと思いまして,
ちょっとかわいらしいデザインがあったものですから」
「…」
奥井課長は,再び手もとの“作業服”を持ち上げる。確かに素材の感じはいつもの作業服と
何ら変わりがなかったが,全体的にピンクを基調とした色,そして,胸と腕のところに,
どこかで見たようなくまのマスコットがくっついている。
「どうです,こんなところにも“ミニミニ・ベア”があったんです。凄い人気でしょう」
「馬鹿野郎。いったい何を…」
「どうしたんだ,奥井君」
今日も,神崎部長が良いタイミングで歩いてくる。一瞬,戸田さんが安心したような表情に変わるが,
すぐにちょっと泣きそうな,いつもの表情に戻る。
「いったいどうしたんだ,奥井君。騒がしい」
「いや,実は…」
「つまり,作業服を発注させたら,一般的なデザインではなく,このデザインのものを注文した
わけだな」
「はい,そういうことでして…」
一通り説明を終えた奥井課長であったが,それでも不安そうな表情がぬぐえない。
一方,戸田さんの表情に多少余裕が感じられるのは気のせいか。
「しかし,変わった作業服もあるものだな」
神崎部長は,同じようにその“作業服”を持ち上げ,ながめる。
「同じようなデザインばかりでありふれているかと思いまして,同じ値段だったものですから…」
再び,戸田さんの必死の説明。
「だが,こればかりは作業の妨げにはならないかな。特に,このぶら下がった人形は,
作業の邪魔になりそうだが」
「いえ,安全性は問題ないそうですから。それに部長さん,実際は作業で着る事はありませんわ」
「ん,戸田君,それはどういうことかね」
戸田さんと神崎部長の対等な会話が続く。奥井課長は,恐れたような表情でじっと見ている。
「今回注文した作業着は,管理職の方々が工場を視察する時の作業着ですから,
実際の作業にはあまり関係がありませんわ」
「…管理職,だって」
「はい,社長さんや,専務さんや…」
「!…」
神崎部長はすっかり驚いた表情に変わる。
「それに,もちろん部長さんにも着ていただきますわ」
何事もなかったように続ける戸田さん。しかし,神崎部長の目はますます見開かれる。
そして
「〇×▽※∞■▲□…」
以上 PN 一光輝瑛
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