猛虎の平穏

 

 

                  一光 輝瑛

 

 

 それは―

 《異相》であった。

 新入社員の川口君の表情は,“それ”を見て完全に硬直した。春うららかな昼下がり,

昼食を終え,もとのオフィスに戻るための長い廊下。

はじめて見る“それ”は,川口君の前方に出現した。

「!」

 

 

「あのぉ…」

「,あ,あれか。営業課の石田さんだ」

「…」

「まあ,石田さんは外勤だからあまり出会うことはないかもしれないが,

まあ君もそのうち営業に行けばお世話になるだろう」

 川口君の指導担当である白井先輩が,ちょっとかしこまった口調になって説明する。

「…今日,何かあるんですか?」

「え,何かって」

「だって…」

 そうこう言っているうちに,二人は廊下をどんどん進んで行く。

“石田さん”も他の誰かと話しながら,ゆっくりとこちらに向かってくる。

「いや,別に今日は何も無いよ。普通の日だ。…どうかしたのか」

「…どうして,覆面なんかかぶって歩いている人がいるんですか?」

 

 

 “石田さん”は,呆然として見送る川口君の横を,何事も無かったかのようにゆっくり通り過ぎる。

「…」

 すれ違う直前,交わった視線の先には,凛々と輝く大きな目があった。

首から下は,ごくごくまじめなダークスーツで,ビジネスマンらしく完璧な着こなしを見せていた。

が,首から上は…

「…」

 思わず振り返る川口君。石田さんは一向に意に介さぬ様子で,そのまま通り過ぎてゆく。

後頭部にはふさふさの毛が見えたが,金色に輝くそれは,とても人間のものとは思えなかった。

ぴんと立った耳。うなじを見るが,金色の下にすぐスーツの襟元が目立った。

「……」

 反対側に去ってゆく石田さんの背中を,川口君はじっと見送っていた。

白井先輩は数歩前に出たが,ちょっと引き返してまた話しかける。

「まあ,はじめて見るのだから驚いても仕方が無い。だが,すぐに慣れるさ」

「…虎の覆面,ですか。会社の中で見ると妙に不釣合いですね」

 川口君は,ようやく現実に回帰したような表情になり,再び前方を向く。

が,気の毒そうな白井先輩の声が,追い討ちをかける。

「あれはな,実は覆面じゃないんだ」

 

 

「地顔,ですか!,あれが…」

 自分の席に戻り,午後の仕事に入る体制の川口君と白井先輩。

だが,川口君の中ではそれどころではなかった。

「冗談でしょう。…いくらなんでもだまされませんよ」

「いや,冗談じゃないんだ」

「そんなわけ無いじゃないですか。まるっきり虎ですよ,あれじゃあ。

確かに,妙にリアルな覆面だとは思いましたが,本物だなんて誰も信じませんよ」

「はじめての人は,誰も信じないさ。俺もそうだった。だが,本当なんだから仕方が無い」

「…」

「どういう事情があるのかは知らないが,石田さんは生まれつき,虎の頭で生まれてきたらしい。

そりゃあ,苦労は尽きなかったと思うが,今では立派な社会人,うちの社の社員だ」

「化け物…」

「違う。れっきとした人間だ。首から下は完全な人間だし,頭の中身も,しゃべる言葉も全部人間だ。

頭が虎の形をしている,それだけの話だ」

「…それだけって…」

「まあ,そのうち君も石田さんと話す機会があるだろう。立派な人だ。はじめは俺も信じなかった。

だが,あの虎にしか見えない頭は間違いなく本物で,かぶりものではなくきちんとあの首と

つながっている。そして,言うこと考えること,石田さんはれっきとした人間だ。

虎じゃない,まして,化け物なんかじゃない」

「…」

「毎年新入社員は石田さんのことを化け物扱いする。だが,すぐにわかる。

石田さんを化け物扱いすることが,どんなに馬鹿げたことかということが」

 

 

「それにしても,信じられません。こんなことがあるなんて…」

「まあ,特殊なケースではある。だが,現実に存在しているのだから,否定することはできない」

「しかし…」

「まあ,世の中にはいろんな人がいる。背の高い人低い人,太った人やせた人,頭の良い人悪い人,…」

「そして,虎の頭の人…」

「そういうことだ。少なくともうちの社ではそう考えて,石田さんを自然に受け入れている。

別に異端扱いもせず,特別扱いもせずにね」

「…」

「その意味では,うちの社は理想の形なのかもしれない。

完全なノーマライゼーションが実現した,分け隔ての無い職場だ」

「差別の無い…」

「あ,誤解するなよ。石田さんの虎頭は,別に支障が出るものじゃない。むしろ頭は明晰なくらいだ。

言葉も普通,食事も普通。見た目が違うだけだ」

「…」

「受け入れるとか,溶け込むとか,そんな言葉も必要ない。つまり,“普通”ってことかな」

 

 

 仕事もそつなくこなし,帰途につく川口君と白井先輩。正面玄関まで来たところで,

再び石田さんを見かける。昼と同じ,何ら変わりない様子でまっすぐに帰ってくる。

営業カバンを持っているから,どうやら外回りの帰りらしい。

横にはこれも営業課の社員だろうか,同じカバンを持った男が話しながら歩いている。

どうやら仕事はうまくいったらしく,その男の笑い声が響いてくる。

石田さんの“虎顔”も,どことなく微笑んで見えるが,不慣れな川口君にとっては定かではない。

「石田さんは,営業課のエースなんだ」

「…そうなんですか」

「ここ数年,石田さんの成績は営業課の中でもトップクラスらしい。

…近々昇進するなんていう噂もあるくらいだ」

「すごいですね」

「しっかり稼いでいるってことさ。まあ,もっとも…」

 白井先輩は川口君の方を向いて,ちょっと意地悪い表情を作ってみせる。

「…本当は“タイガーマスク”として興行した方が,もっと稼げると思うがね」

「!」

 近くにも届かないような小声のセリフを残して,白井先輩はすたすたと歩いて行く。

しばし面食らった表情になって立ちつくす川口君。

そんな彼の横を,何事も無かったように“石田さん”が通り過ぎて行く。

 

 

 以上  PN 一光輝瑛

 

 

 ご感想等,メールはこちらまで。

  E-mail  kiei_ichi@geocities.co.jp

 

 この作品は,あくまでもフィクションです。

 この作品の著作権は,作者に帰属します。

 

    一光輝瑛のページ に 戻る

    一光輝瑛のホームページ に 戻る