人がいてあたりまえの空間に,ただ一人ぽつんといる一人の男。

立派な背もたれのついた椅子も,幅の広いデスクも,一人でいると逆にむなしさを誘う。

「…」

 いつでもお茶が飲めるよう,横の席にはポットが用意されていたが,

そんなにお茶なんて飲めるものではない。

「…」

 手元に引き寄せられた電話機も,もう2時間も使われていない。

パソコンは鈍い音を放っていたが,奇妙なスクリーンセーバーにももう飽きた。

「何も無い,か…」

 そう,何も無かったのだ。

 

 

 Y2K異常なし

 

                 一光 輝瑛

 

 

 真っ赤な懐中電灯が,5つも並べられている。横にある箱は,ろうそくの箱。

中身は大晦日のうちにチェックしておいた。横にあるライター,

ダンボールに入ったミネラルウォーター,…すべては万全で,それは今でも変っていない。

「テレビでも出しておけばよかったかな…」

 だが,言ってみるだけで,食堂からテレビを引っ張ってくるほどの活動力は,水島課長には無かった。

 

 彼がふと思い返すのは,去年の同じ日,1999年の元旦のことであった。

もう何年前から同じ正月を過ごしていたのだろうか。食卓にはデパートで買ってきたおせち,

テレビをつければ見慣れた芸能人の表情。座椅子つきのコタツにもぐりこめば,

とりあえず怖いものは何も無い。

 

「すべては万全,か…」

 水島課長の手元には,“2000年問題対策マニュアル”と書かれた,妙に分厚い冊子。

年末に渡されて,『記載のとおりの対応でお願いします。いえいえ,大丈夫です。

先日のテストを書面にしてあるだけですから』と言われた時には,正直気の遠くなる思いをした。

が,そのテストも小一時間ほどで終わってしまい,今は,機械的に待機しているパソコンと,

電話機と,そして一人の責任者。当直を言いつけた小生意気なシステム担当の男は,

本店のシステム部で待機しているらしいが,朝の電話の後は一切かかわることが無い。

12月の慌しい折にやったテストでは,数々の手違いがあってやたら時間がかかり,

気づいたら夜中から朝の範疇に移行していた。…それほどまでだったのだが,

手馴れてしまったというべきか,今ではどちらが深刻な問題であったのかも判断できない。

 

 ブラインド越しに並ぶビルを見れば,所々に蛍光灯が灯り,人の気配がする。

見慣れた景色のはずだが,今日は寂しさばかりが伝わってくる。

風の気配はもう真冬,道路の人影も気味悪いくらいまばらであった。

 

「…」

 寒気を感じて,軽く震える。室内の暖房は動いていたが,なぜか暖かさを感じなかった。

日ごろはむしろ暑いくらいで,上着を椅子にかけて働いているくらいであったが,

今日は,上着が手放せそうに無い。

「!」

 背広のボタンまできっちりとしめていることに気づき,慌ててはずす。

そういえば,朝,誰もいない室内に入るとき,無意識のうちにしめてそれきりだったらしい。

 エアコンの温度を調節しようと思うが,電子パネルの操作方法がまるでわからない。

そういえば,場所は知っていたが,操作などしたことは無かった。

「電気ストーブでも持ってくればよかったかな…」

 誰にでもなくつぶやく水島課長。

確かに,全館対応のエアコンは,一人きりのオフィスの暖房には不向きだ。

だが,緊急対策グッズの中に,電気ストーブは入っていなかった。

「家に電話でもするか…」

 とりあえず受話器を持つ水島課長ではあったが,電話をかけるつもりは無かった。

そういえば,しばらく家に電話をしたことは無かった。

 

 バタン

「!」

 突然開いたドアの音に,水島課長は断末魔のごとく驚く。

「課長,弁当を持ってきました!」

 入ってきたのは,ひとまわり以上も若い男。同じ課の杉田君であった。

 

「どうですか,状況は」

「ああ,見てのとおりだ」

「…」

 杉田君は,ゆっくりとあたりを見回すが,見慣れた,しかし寂しげなオフィスがあるだけだ。

「本店の方も,問題ないらしいです」

「あたりまえだ。あれだけテストをしたんだ。問題なんてあるものか」

「まあ,ご無事で何よりです」

「無事,ああ,確かに気味悪いほど無事さ」

 日ごろは寡黙な水島課長であったが,今は久しぶり(?)に部下を見て,

いきなり元気を取り戻していた。

「しかしとんでもない貧乏くじだったな」

「はは,元旦からですからね」

「ばかやろう,笑い事じゃないんだ」

「でも,隣の社では全員出勤だったそうですから,うちはまだましな方です」

「全員か,その方がにぎやかで良かったかもしれないな」

「え?」

「とにかく,いつまでここにいなくちゃいけないんだ。もう疲れたぞ」

「…確かに疲れますね,ある意味」

「5時だったかな」

「はい,定時退社,残業は無しです」

 水島課長は,慣れたしぐさで腕時計を見る。

「あと5時間,か。はるかな5時間だな」

「会議とどちらが楽ですか」

「…うぅん,会議かな…」

 水島課長の表情は,相変わらず疲れきった中年のそれであった。

 

「まあ,弁当を食いましょう」

「おお,おせちか」

「いえ,さすがにおせちではない様です」

「…何だ,がっかりだな」

 水島課長の表情からは,まさに“食うことくらいしか楽しみが無い”

そんな思いがひしひしと伝わってきた。

「でも,課長さんの好きなカツ丼です」

「おいおい,元旦からカツ丼か」

「しかもひれカツです」

「おお,それは豪華だな」

 杉田君は,明らかに無理してテンションを上げていた。それは,水島課長にもわかっていたが,

それがベストの行動であるということは,暗黙の了解でもあった。

「よし,今お茶を入れるからな」

「あ,ポットは無事に作動しますか」

「もちろんだ。最優先でチェックしてある」

 

 弁当屋の袋を開く,この動作ほどむなしいものはあるだろうか。しかも,元旦である。

だが,杉田君は何も無かったかのように,てきぱきとこなす。

中年男がお茶を入れる動作も妙に寂しいが,水島課長の動作は妙にてきぱきしている。

「さあ,カツ丼食うぞ!」

「まあ,慌てずにゆっくり食いましょう」

「ばかやろう,がっついてこそのカツ丼だ」

 水島課長は奪い取るようにカツ丼弁当を手に取る。杉田君もそれに続く。

 

「!」

 

 水島課長が突然立ち上がる。杉田君もつられて立ち上がるが…

「!」

「おい,見ろ,杉田!」

「え?」

「大変なことが発生した,これは重大事件だ!」

「…え…」

「これを見ろ,杉田,よく見るんだ」

「!」

「どうだ,大変なことだろう」

「はい,これは大変です,2000年問題が勃発しました」

「さあ,緊急態勢だ。どこにどうするんだ」

「課長さん,落ち着いて,とにかく,慌てないことが大切です」

「これが慌てずにいられるか!,俺はこのために今日来ているんだ!」

 

 水島課長は,勢いよく,“カツ丼弁当”をデスクの上に戻す。

 ラップで包装されたその弁当には,“ヒレカツ丼”というシールが貼ってある。そして,

 

『1900年1月1日午前9時製造』と記載されていた。

 

 

 以上 PN 一光輝瑛

 

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