おばあちゃんのお金
一光 輝瑛
夜になると電話がかかることが多いが,その日の電話のベルは,僕になにか嫌なものを
連想させた。…ちょうど,あの日の電話のように。
「信之,おばあちゃんがね,あなたの名前で貯金をしてくれていたみたいよ」
母からの電話は突然だった。特に予定もなく,雑な自炊の夕食をとり終えた時間,
ちょうどテレビ番組が終わって,退屈だが刺激的なCMがはじまったころだった。
「今日ね,おばあちゃんの荷物を整理していたらね,信之の名前の預金通帳が出てきたの。
博志くんや碧ちゃんの名前のもあったんだけど…
ちなみに,博志と碧は僕のいとこの名前だ。
「母さんもしらなかったんだけど,どうも孫名義で通帳を作って,少しずつためていた
らしいのよね」
その言葉を聞いても,僕はなにも驚かなかった。あのおばあちゃんならそのくらいのことは
やってくれたかもしれない。
「それでね,遺産のことはまだどうこうなってはないんだけど,これはあなた達の名前の
お金だからね,あなた達に渡すように話をしたの。…幸彦おじさんとね」
幸彦というのは僕の伯父さん,母の兄である。
「それでね,どうする,このお金。通帳のままにしておこうか」
「ああ,振り込んでおいてよ」
僕は親元を離れ,東京で一人暮しをしている大学生だ。いつも仕送りを振り込んで
もらっていたから,その感覚だった。
「いつもの仕送りの口座でいい?」
「う〜ん,やっぱりちょっと違う口座にしとこうかな。ええっと,番号は…」
このやりとりから,すべてがはじまったのだ…
僕のおばあちゃんが死んだのは,3ヶ月ほど前の話だ。以前から病院にかかる事が多く,
そんな日が来るかもしれないとは感じていたのだが,それでもその日は突然だった。
枕もとの電話が鳴る。まだ夜もあけきらない,“真夜中”の範疇に属する時間帯だった。
遠いまどろみの中,その瞬間がやってきた。鳴った瞬間に,なぜか全身を寒気のようなものが
突き抜けた。あれは,何かの予感だったのだろうか,それとも…
「あのね…,おばあちゃんがね,…さっきね…」
涙ぐんだ母の言葉は,そこまでですべてを告げていた。
75だから,決して早すぎるわけではなかったが,それでも僕にとっては早すぎる死だった。
いや,それまで身内の死を体験したことがなかった僕が,ある意味幸せだったのかも
しれなかったが,その時はショックだった。
やさしいおばあちゃんだった。小さい頃から近くに住んでいたこともあって,なにかにつけて
おばあちゃんのところに行っていた。特に何をしてくれたのかといえば,答えに困るが,とにかく
いつもやさしい笑顔で,僕のことを見てくれて,僕のことを助けてくれるおばあちゃんだった。
そんなおばあちゃんが,死んでしまったのだ…
飛び乗った新幹線のみちのりは,耐えきれないほど苦痛だった。そして,胸が締めつけられた。
でも,最後に見たおばあちゃんの顔は,とても,とても安らかだった。小さいガラス越しに,
いつものおばあちゃんのやさしい顔があった。…目が開くことは,もう,なかったが…
正直言って,その預金通帳を取り出したのは久しぶりだった。住菱銀行の通帳は,昔の
バイト先の指定で作ったものだったが,そこをやめて以来,引出しの奥で眠っていた。
いつも生活費の口座で使っている,かえで銀行の通帳に振り込んでもらえばよかったのかも
しれないが,なんとなく他の通帳にしてみたかったから,再登場となったのだ。
駅前のキャッシュコーナーで,通帳記入の手続きをしたのは,電話の次の日の夕方。まあ,
夕方なら振り込みもできているだろう。ちなみに,長いこと使わなかったこともあって,
現在の残高は629円なり。
「…!」
ATMから出てきたその通帳の数字は,僕に衝撃を与えた。
…三百万!,突然それだけの金額が,僕の口座に飛び込んできていたのだ。
…三百万,正直言って,僕にとって夢のような数字だったし,そんな数字の入った通帳を
見るなど,僕にとっては生まれてはじめての経験だった。
…おばあちゃんが,ためていてくれたお金…
通帳の残高は,3,000,629円。ちょこんとくっついているような,629円が
妙に悲しかった。だが,上に冠のように付いている,途方もなく大きな数字は,もっと悲しかった。
こんな数字よりも,おばあちゃんが生きているほうがいい,いいに決まっている…
その夜の僕は,困惑の絶頂にあった。いったい,これほどまでに高額のお金,
どうすれば良いのだろう…
車でも買うか。
いや,それってただの無駄遣いか。車なんか買っても,その車の寿命がくれば,
なにも残らない。それに,置くところも,乗る機会もないだろう…
思いきって,旅行にでも行くか。
いや,それこそ無駄遣いだ。行って帰ったら終わりの旅行だなんてとんでもない。
おばあちゃんがもし生きていたら,このお金をどうしてもらいたかっただろうか?
本でも買うか。
いや,三百万も本なんか買えない。それに,買っても読まない本が多い。無駄遣いだ。
勉強するなら,おばあちゃんも喜んでくれるだろう。教材でも買うか。
いや,怪しい教材でも買わされたら,それこそ無駄だ。
資格を取るための学校の授業料にしようか。
…いったいどんな資格を?おばあちゃんが喜んでくれるような…,本当に自分にできるのか,
…とってつけたように…
生活費にするか。
そんな,あんまりだ。それでは…
通帳の数字を見れば見るほど,この数字自体がおばあちゃんの形見でもあるかのような
錯覚に陥る。形見…
それではどうする。貯金でもするのか?
ピンポ〜ン
来客をしらせる合図が,僕のアパートにこだましたのは,次の日の夕方のことだった。
「ごめんください,住菱銀行の者ですが…」
「え,」
「突然おじゃまして申し訳ございません。わたくし住菱銀行の橋川と申します」
うやうやしく名刺を差し出すその若い男。と言っても,もちろん僕よりは年上の
ビジネスマンなのだが。
「今日は,黒田様のご口座にお振込みがあった件でお伺いさせていただいたのですが」
「…!」
「実は,昨日,黒田様のご通帳に大きな金額のお振込みがございまして。
…ご存知でしたでしょうか」
「…はい」
「三百万円ほどお振込みがあったものですから,もし,当面お使いのご予定がないようでしたら,
ぜひ当店の方でご預金の方をお願いできたらと思いまして,お伺いさせていただきました」
「…預金」
「はい。当店では,現在,先日発売されました“スマイル定期預金”のキャンペーンを
行なっております。ぜひ,そちらの方にご協力をお願いできたらと思うのですが」
「スマイル…定期ですか」
「はい。長くお預けいただくほど高い金利のつく自由満期型の商品で,しかも最高30万円が当たる
懸賞金の抽選権がつきます」
「懸賞金…」
「はい。たいへんお得な商品となっております。しかも,300万円以上の場合,
スーパー定期300の基準金利が適用され,ますます有利になります。黒田様,ぜひいかがでしょうか」
大きな黒いかばんを持ったその営業マンは,慣れた口ぶりで僕に語り掛けてくる。
左手に持ったあかるい色調のパンフレットが妙に目をひくが…
「大切なお金ですから,じっくり考えてから決めることにします」
ふらっとでかけたデパートでは,ショーウィンドーの中の商品,そしてその値札が妙に目をひく。
『そういえば,このブランドの服だったな,ずっと欲しかったのは…』
思い出したように,立ち寄ったコーナー。やはり数字の並んだ値札が目をひく。今までは
とても手の出る数字ではなかったのだが,今の僕は違う。住菱銀行のキャッシュカードは,
あれ以来財布に入っている。
『ああ,そういえばこのブランドのデザインも好きだな』
僕は歩いていた。だが,むしろ立ち尽くす僕の方に,流れてきているようにさえ思えた。
…華やかな商品の群集が…
あれから一ヶ月がたって,僕は再びテーブルの上に通帳を広げていた。まず,住菱銀行の通帳。
結局,残高はいまだに3,000,624円のまま。キャッシュカードは取り出されることすら
ないまま,財布の中で眠っている。
そして,かえで銀行の通帳。日頃,生活費の通帳として使っている通帳だ。
『おかしいな…』
普段はほとんど残高のないことが多い通帳が,なぜか賑わっているように思える。
実家からのありがたい仕送りの振込。バイト代の入金。育英会からの振込。出て行く方は,
家賃の引き落とし,光熱費,そして現金の出金。
『え…』
通帳をもう一度見直す。
『今月,たった3万円しかおろしてないのか…』
何度数字をおっても,一万円の出金が3回。それ以外に通帳から資金が引き出された
形跡はなかった。
『一月3万円,ということは,一日1,000円か。本当か?』
もう一度見直すが,なんらかわったところはない。
そして,住菱銀行の通帳をもう一度見る。三百万円…
『そういえば,今月,たいした買い物もしてないな…』
以上
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