一光 輝瑛
「『お前らは気合が入ってない。もっと気合を入れて働け!』,だそうだ」
「え!?」
課長の突然の一言に,のほほんと机に向かっていた営業所の面々は,いっせいに怪訝そうな顔をする。
「気合,ですか…」
島の中心部といっても,片側一車線の道路がかろうじて走るのどかな場所。
人々の喧騒よりも波の音の方が響く平和な場所に,本島営業所は位置していた。
近くの漁港も,島に数軒しかない商店も,児童が激減している小学校も,すべてお客様,
つまり商売相手ではあったのだが,いずれにしても年寄り相手がメインののんきな商売であるには
違いなかった。
「課長,いきなりそんなこと…」
「あ,俺が言ったのじゃ無いからな。これは,今度来た所長のお言葉だ」
「所長,あの,本店の部長から飛ばされてきた所長ですか?」
「馬鹿,声が大きい。めったなこと…」
「でも,本店で部長までやった人が,同じ職位とは言ってもうちの所長になるというのは,
やっぱり左遷ですよね」
会話に参加してきた真田さんは,30ちょっとすぎのややインテリ風の社員。
そう言う彼も3年前飛ばされてきた口だ。
「まあ,とにかくだ。部長の言葉によれば,我々は,『気合が入っていない』らしい」
「気合って,言われても…」
最若手の伊野さんは,椅子の回転機能を駆使してくるりと振り返る。
「…確かにそうかもしれませんが…」
「で,どうしろというんでしょうかね?」
黒ぶちめがねの山井さんが,異星人でも見るかのような表情で続く。
どうでもいいことだが,もう三日間同じネクタイを締めている。
「『本店の営業課では,毎日かなり残業しているのに,
この営業所ではほとんど5時に帰っている』だそうだ」
「!,そんなこと言っても,うちだって残業はありますよね,」
「…6時までくらいならな」
「『女性社員ならともかく,男性営業マンが5時に帰宅して,それで満足しているのはおかしい。
私が若い時には,ひたすらがむしゃらに昼夜無く働いていた』だそうだ」
「そんなこと言っても,やることはしっかりやっているんですから…」
課長は,ひたすらに部長の意思を部下達に伝達する口ぶりであったが,そんな課長の口元にも,
しっかりと困惑がにじみ出ていた。
「つまり,残業すれば良いってことですかね」
「…なんだか,時代錯誤ですよね。最近の時短の流れに逆行して,がむしゃらに働く。
そんなこと求めて,いったいどうするつもりなのでしょうか?」
「とにかく,『すべてを投げ打ってでも仕事に専念する姿勢が大切』なのだそうだ」
「確かに,所長が若い頃はそうだったのかもしれませんが…」
「確かに,所長はかつて凄腕営業マンとして活躍し,それで部長にまでなった人だからな」
「…それを,うちの営業所のメンバーにもやらせようって言うわけですかね?」
伊野さんは,もう一度くるりと振り向く。
「…無理なような気がしますが…」
「ともかく,」
割り込んできた久田さんは,この営業所の平営業マンの中ではリーダー的な存在で,
課長にも高く信頼されていたが,やはり2年前に他の中核営業所から転勤してきた人だ。
「所長がそう言うなら,しばらく意識的に残業するようにしましょう。
そうすることで,所長が満足するならそれで良いじゃないですか」
「…所長の自己満足,ね」
「どうせしばらくすれば,所長も実態がわかるでしょう。それまで覚悟して,しっかり残業しましょう。
私なら,6時でも7時でもお付き合いしますよ,課長」
「それがな…」
課長は,ますます困惑した表情になって,部下達の顔を見る。
「『営業所の人間は,11時まで働くのが常識』なのだそうだ」
「とにかく,今日からしばらくは,11時まで残業する。みんなも,その覚悟で準備してくれ」
「…」「…」「…」
営業所の面々は,突然のことにやや放心状態になってたたずんでいた。
急にしんとなった職場に,遠くの船の汽笛が響く。
「残業の準備,ですか…」
「課長,帰りのバスがありません。どうすればよいでしょうか?」
「仕方ない,今日のところはタクシーに相乗りして,明日からは自転車で来るようにしよう」
「課長,今日予定していた,所内釣大会は中止ですかね」
「あたりまえだ。それどころじゃないだろう」
「…参ったな,餌買い込んでいたのに…」
「あ,例のドラマ録画しておかないと。…女房のやつ,操作できるかな…」
「課長,夜食用のおにぎり買いこんできました。飲み物はお茶でよかったですかね」
「きちんと人数分確保しておいてくれよ。まあ,場合によっては合間に食いに出ても良いんだが」
「あ,倉庫から毛布出しといてくれ。…場合によっては仮眠しながら働くことになるかもしれない」
「全館冷房は何時に切りましょうか。…経費節減運動中ですが…」
「少なくとも,所長が帰るまでは消すわけにはゆかないだろうな」
「…所長も帰らないのですかね」
「監視するらしい。まあ,所長が帰ったら俺達も帰る,そんな流れになるだろう」
「しまった,靴下の替えを持ってきてない。11時まで履いてたら,臭ってくるかな」
「参ったなぁ,例の雑誌,今日発売なのに,11時過ぎには本屋開いてないよなぁ」
「シェーバー持って来ておけばよかったな。あまり遅くまで働くと,ひげ面になってしまうよ」
遠くで,サイレンの音が響いた。子供達の帰宅を促す5時のサイレンは,
普段はこの営業所員の帰宅も促していたが,今日はまるで宣戦布告のラッパのようにも聴こえた。
「さあ,ここからが勝負だ」
課長が,誰に告げるともなくつぶやく。周囲の営業マンもビクリと反応するが,
すぐに無関心な表情に戻る。ちなみに,所長は二階の所長室にこもっていた。
靴音が高く響く下り階段が鳴るときには,今度こそ所員の神経が高まる瞬間になるかもしれなかった。
「……」
伊野さんは注意深く周囲を眺める。何人かと目が合うが,張り詰めた雰囲気の中,言葉は出てこない。
「あのぉ…」
夕方6時。普段ならすでに無人になっているはずの営業所に,引き続き,
数人の男達の無言の闘いがあった。そして,その沈黙を破るかのように密かに立ち上がり,
足音を殺して課長席に近づいたのは,やはり最若手の伊野さんであった。
「課長さん,すみませんが」
「あ,なんだ」
課長は,半分ぼぉ〜っとした表情で,怪訝そうに伊野さんを見る。
伊野さんは少し気まずそうに,それでも真剣な視線で課長を見ていた。
「すみません,今日は11時まで残業ということですが…」
伊野さんは,ますます気まずそうに小声になる。課長も,
まるで一日の疲れに覆われているかのようにけだるそうに対応している。
「何だ,伊野君。不服かね」
「いえ,別に残業するのはいいのですが…」
伊野さんは,もう一度周囲を見回す。
「11時まで,いったい何の仕事をして過ごせば良いですかね?」
「!」
困ったような表情の伊野さん。課長は,慌てて所内を見回す。
「…」
あるものは,暇そうにパソコンの画面を眺めている。
あるものは,暇そうに新聞を開いている。
あるものは,暇そうに電卓をぱちぱちいわせている。
あるものは,暇そうに書類を弄くっている。
あるものは…
「こら,お前ら何をやっているんだ。あれほど言っておいただろう,今日は11時まで残業だ,
しっかり準備しておけと。
…どうして,昼間のうちに肝心の仕事の方を準備しておかなかったんだ!」
以上 PN 一光輝瑛
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