プライベート鮮魚
一光 輝瑛
ステレオから流れるかすかなショパンの調べが,暖かい朝の心地よさを増していた。
家事がひとだんらくした午前11時,小谷夫人がもっとも安らぎをおぼえる時間である。
夫はいつも通り,近くの病院に出勤している。仕事は忙しいそうだが,若き日の勤務医時代に
比べれば天国と地獄だ。“医師夫人”という言葉が実感できるようになったのは,やはり5年前に
開業してからだろうか。収入も予想以上に安定していて,まさに,独身時代に夢見ていた生活が
実現しようとしていた。
小谷夫人は,ガラステーブルの上に置いてある新聞に手を伸ばす。が,思いとどまってその横の
折り込みチラシを手に取る。やたら目をひくけばけばしいチラシが大半であったが,中に一枚,
小谷夫人の注意をひく広告があった。
『シティーフィッシュ青葉台店,近日開店。完全会員制。新規会員募集中』
まるで宣伝することに興味が無いような地味な構成であったが,そのわりに使われている紙は
上質のものであるように思えた。
小谷夫人はもう一度そのチラシに目を落とし,そして手帳を開く。午後のスケジュールに
記入が無いのを見て,ゆっくりと立ちあがる。
「ようこそ,シティーフィッシュへ」
若いセールスマン風の男に,うやうやしく案内されて応接室に入る。中心街の某ビルの7階,
“シティーフィッシュ青葉台店企画準備室”の看板が小さく取り付けられていた。
「はじめまして,小谷さん。ご主人のご高名はうかがっております」
「いえ,いえ…」
想像以上に大切に扱われて,小谷夫人は一瞬戸惑うが,その営業マンは続ける。
「当シティーフィッシュはお得意さまを限定した,完全会員制の営業を行なっておりますから,
お医者様とのおつきあいも多くなっておりまして」
営業マンはそう言って笑みをこぼす。嫌味の無い,心地よい笑顔だ。
「当社は首都圏を中心にすでに30店を出店し,ハイグレードな海産物の販売店として,
高い評価をいただいております。…当社のお話を聞かれたことはありますか」
「…はい,噂では聞いたことがあります」
「それはよかった。まあ,噂ではない真実の姿を聞いていただきたいとは思いますが,
基本的にはこのたびの“青葉台店”もこれまでの我々のスタンスを踏襲した店となります」
営業マンはゆっくりとパンフレットのようなものを取り出す。小谷夫人の目も自然とそちらに向く。
「当社はこれまでの“魚屋”とはまったく違う活動を行なっております。販売するものは主に海産物。
生のものから加工品まで,多岐にわたります。もちろん品揃えはこれまでの一般的な
“魚屋さん”よりも良いものを,より多く取り揃えております。これだけでも十分に皆様に
お勧めできるものですが,我々の最大のセールスポイントはほかにあります」
営業マンは,ゆっくりとパンフレットのページをめくる。紙の匂いが伝わってきそうな高級感の
あるその冊子。華やかなデザインは“魚屋”の紹介とはどうしても思えないものであった。
「我々シティーフィッシュは,お客様の食生活のトータルコーディネーターを目指しています。
魚屋は魚を売れば良いという発想では,これからの大競争時代は決して乗り切れません。
お客様に,どうすれば満足のゆく食生活をおくっていただけるか,そのプランを立てるのが
我々の最大の責務であると考えています」
営業マンは満足そうな表情で一息置く。小谷夫人はすっかり話にのめり込んでしまっている。
「ご近所のいわゆる魚屋さんのことを考えてみてください。彼らは『安いよ』『買ってください』
なんてことしか言わないでしょう」
小谷夫人は近所のスーパーの一階にある魚屋を連想していた。
「…そうですね…」
「そんなことでは,販売店としての責任を果たしていないと我々は考えます。今自分が
売っているものの特徴が何で,どうやって食べたらおいしいのか。何と食べ合わせれば良いのか
…もちろん,栄養面も含めてですが,そこまで説明してはじめて当然の水準に達するわけです」
営業マンの説明には力が入ってきたが,まったく不自然なところはなかった。
「我々はさらに,お客様一人一人に,そしてご家族の一人一人まで考慮させていただいた上での,
食生活プランも提供させていただきます。お客様が,いつ,どんなものを,どのくらいの量
買われたか,そのすべてのデータを管理させていただいた上で,決してパターン化してしまわない
個別の,オリジナルの食生活計画をご提案いたします。そのためには,魚を無理やり買ってもらう
ような強引なセールスはいっさい行ないません。肉を食べるべき時には肉を買うべきです。
野菜もしかり。その時には,うちにない商品をお勧めさせていただくことも当然いたします。
うちは,うちにある商品の範囲内でご購入いただければ結構でございます。これが,
当社の進めますトータルプランニングというものです。必ずご満足いただけると思いますよ」
おそろしいほどの説得力に,小谷夫人は圧倒されていたが,その内容には十分満足感を得ていた。
「それでは,会員になるにための手続きをご紹介いたします…」
小谷夫人が帰った後の応接室。後から入ってきた中年の,風格のある男と,先ほどの営業マンが
話し始めた。
「…それにしてもいいお客様がついたものだな」
「はい。小谷医院といえば,優良病院ですからね」
「長くおつきあいいただければ,我々にもたいへんな利益が上がる。君もついているな。大切にするんだぞ」
「はい。わかっております」
つけっぱなしのテレビからは,ワイドショーのありふれた会話が流れていた。大山夫人は
ポテトチップスをつまみながら,無造作に日本茶をすすった。
午後2時。“一般的な”サラリーマンの妻であり,専業主婦である大山夫人は,にぎやかな
子供達が帰ってくるまでの間,退屈な時間を謳歌していた。
「『シティーフィッシュ』,そう言えば隣の星野さんが言ってたわね…」
危うくみかんの皮入れに加工されかけたそのチラシが,大山夫人の目にとまる。
「ちょっと寄ってみようかしら…」
そう言って,大山夫人は,いつもの夕方の買い物に向けて準備をはじめた,…といっても,
財布を準備するだけなのだが…」
「ようこそシティーフィッシュへ」
若いセールスマン風の男にすすめられるまま,指定された椅子に座る。見るからに“会議室用の”
テーブルと,それぞれの前にパイプ椅子が置いてある。大きめの部屋に同様のセットが十ほど
用意されていて,そのいくつかでは客と営業マンらしい組合せで,話が進んでいるようだった。
「当社の活動は,一般的な小売店とは異なっておりまして,完全会員制によります高度な
サービス提供をさせていただいております」
若い営業マンが大山夫人の前に座り,少々事務的な口調で説明をはじめる。
「会員になるかどうかはお客様に選択していただくようになりますが,質の高いサービスの維持のため,
当方としましても,会員になるための,お客様についての基準を設けさせていただいております」
「基準,ですか」
「はい。具体的には,当店での月間お買い上げ金額が10万円以上であること,これが条件になります」
「え,」
「当店で,ひと月に10万円以上お買い物をしていただくことになります」
「…10万円も…」
「はい。当方も,サービスの維持にはしかるべき費用がかかるものですから。もし,この条件を
満たしていただけない場合には,毎月1万円の会員手数料をいただくことになっております」
「1万円!,ずいぶん高いわね…」
「いえいえ,1万円をお支払いいただくのは,あくまでも例外的なケースです。万が一,
当店でのお買い上げが基準を満たさなかった場合のみですので…」
「それにしても…」
「ただ,当社といたしましては,仮にそれだけ手数料をお支払いいただいたとしても,
十分にご満足いただけるサービスをご提供させていただいております。具体的なサービスの
内容といたしましては…」
「…10万円も魚なんて…」
「,当社といたしましては,100円の魚を1000匹買ってくれと申し上げているわけでは
ありません。当社のすべての商品,例えば,一般的な魚から,海産物,もちろん乾物も含みますが,
そのほか,加工食品としての惣菜,寿司等もすべて含んでの金額でございます。もちろん,
お客様のお買い上げにつきましては,当方で責任を持ちまして管理徹底をさせていただきます」
「…10万円よね…」
「一世帯での数字です。これが無理だとおっしゃられて,かつ,手数料にもご抵抗が
おありのようでしたら,たいへん残念ではございますが,会員のお申し込みは難しいかと思われます。
当社は従来あるような安売り店ではございませんので,節約を追求されるお客様には不向きかと
考えます。まことに残念ではございますが…」
大山夫人が帰っていった後,担当した営業マンは,人目をはばかるように奥の部屋に入り,
直属の上司にあたる中年の男と話し始めた。
「…やはり,お客の選別というのはたいへんですね」
「まあ,仕方のないことだ。もし,無差別にうちのサービスを提供する制度にしたら,うちは
間違いなく倒産するよ。それを防ぐためには,相手の生活水準,ステータス等を早めに見分け,
それ相応の対応をすることが大切だ」
「しかし,それにしても,最前線でお客を選定するというのは…」
「…まだまだ,君も庶民の発想が抜けていないようだな。うちはあくまでも高額購入者,つまり
上流階級の相手をするための会社なんだ。一般顧客は,スーパーにでも行ってもらおうじゃないか。
うちは,うちに対して収益をもたらしてくれる階層に,特化してサービスを提供する。
このスタンスだ」
中年の男は,近くに灰皿があるのを確認すると,胸ポケットからタバコとライターを取り出す。
「どちらにせよ,我々の給料,つまり,わが社の収益の大半は,一部の高額購入者によって
もたらされている。そこで,そこに特化したということ。ごく自然な動きだ」
「…自然な…」
「最近はどうも勘違いをしたやつが多くて困る。うちが高品質のサービスをうち出したとたん,
猫も杓子もうちにたかってきて,平気でサービスの内容を聞いてくる。
…日頃はたいした買い物もしないくせに」
「…」
「まあ,身の程しらずということかな」
その中年の男は,大きく息をして,そしてタバコの煙を大きく吐き出す。
「まあ,君もずっとうちの社で働くのなら,覚えておいた方がいいぞ。
…しょせん,貧乏人は貧乏人。あまり相手にしないことだ」
以上 PN 一光輝瑛
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