真実の書

 

                   一光 輝瑛

 

 

「あれ,遠藤先輩,何をやってるんですか」

「…ああ,これか」

 まるで何も考えていないかの様な無邪気な笑顔。それが東田君の最大の武器であったのだが,

そんなところから発せられた質問。一方,遠藤はまるであらかじめ回答を用意していたかのような

含み顔。

「これはな…」

 

 相変わらずジリジリとした暑さが全身にけだるさをもたらしていたが,それでも風は

確実に次の季節の訪れを感じさせる,そんな時期であった。8月21日。

夏休みの断末魔がきこえてきそうな日々。運動部の連中は秋大会に向けての練習に

ますます拍車をかけていた。そんなこんなでグランドは活気が出ていたが,

一歩室内に入ってここ美術室も決して負けてはいない状況であった。

 

「自分の絵の記録をとっているんだ」

 遠藤が手にしていたのは,黒い絵の具に浸した水彩の筆。真っ白い画用紙に向かってすべるように

走らせている光景からは,この男の非凡な才能が見て取れた。

「記録,ですか…」

 そうこう言っている間にも,黒と白の濃紺からなる一風不思議な世界が創り出されていた。

が,東田君の不思議そうな表情は相変わらずだ。

「わざわざ,そんな面倒なことをするんですか」

 

 遠藤の前には,キャンバスに塗りこまれた,鮮やかな色彩の風景画が置かれていた。

雪を冠した山,そして流れ落ちる滝,近くの緑を描いたその絵は,季節を超越した涼しさを

見るものにもたらすようであったが,もちろん東田君が不思議に感じたのはこの絵ではない。

遠藤の手もとの画用紙には,黒いだけの絵の具,いや,絵の具と水を混ぜたものによって,

同じ構図のもう一つの世界が展開されようとしていた。

「絵の,複写,ですか」

「ああ,そんなところだ」

 確かに“複写”であったか。色彩以外の構図はほとんど一致していた。

「凄いですね…」

 多少舌に何か含ました感じの賞賛の声。それは絵に向けられたものか,それとも…

「今回の大会用の絵もやっと描けたからな。出品する前に,記録をとっておくんだ」

「へぇ〜,ずいぶんと凝っていますね」

「まあな。せっかく必死に描いた絵も,出品してしまえば自分の所に帰ってこないことも多い。

それなら,せめてその記録なりとっておかないと」

「忘れてしまいますか」

「忘れはしないが,それでも自分の絵がどんなものだったか,その断片すら残っていないなんて

嫌じゃないか。こうしておけば,良い思い出にもなる」

「確かにそうですよね…」

 確かにそうであった。夏休みの前から美術部の面々は作品にとりかかり,それぞれ

キャンバスや画用紙,はたまた土や木に向かいあって時間の結晶を作り上げてきた。

現に24日の締め切り直前になった今でも,数人の部員がこの暑苦しい美術室で

一心不乱に作品に取り組んでいたのだ。

「俺はこの部に入って以来,自分の描いた絵は全部このかたちで記録をとるようにしている。

まあ,面倒には違いないが,良い思い出になっているよ。あとから見返しても,

その絵を書いたときの自分が蘇ってくる」

「凄いですね…」

 さらに感心した様子の東田君。そして筆を走らせる遠藤。

 

「まあ,こんなものだろう」

 満足げな表情の遠藤。しばらく横から見ていた東田君も,同じに安心した表情に変わる。

絵筆を水入れに突っ込んで,パンパンと手をはたく遠藤。

「これで,完璧だ。これで大会に応募できる。一安心だ」

 遠藤の目は油彩画の方を向いていた。

「この夏の集大成だ。これまでにない完璧な作品なんだが…」

「入賞するといいですね」

「ああ」

 やや自信のなさそうな答えであったが,それでも遠藤の表情には

どこか自負心のようなものが漂っていた。

 

「ああ,悪いけど,東田君」

「はい」

「悪いんだけどな,この絵を先生に渡しておいてくれないかな。コンテストの作品だと言えば

わかってもらえると思うけど。…いや,俺はちょっと夏季講習があって,

先生に会えそうにないんだ。締め切りは24日だし,そろそろ出しとけば大丈夫だろう」

「…はい,わかりました」

 

 

「あのぉ,先生」

「ああ,東田君か。暑い中ご苦労さん。あれ,君はもう作品は完成していたのではなかったかな」

「はい。自分のは完成しましたので,先輩達の作品を見ていたところです」

「ああ,それはいいな。参考になるだろう」

「はい」

 夕方になって,顧問の藤原先生が美術室にやってきた。午前中のうちと比べて,

部員達の数はずいぶんと減ってしまっていたが,それでもかなりあせった表情で

作品の仕上げをしているのが数人。

「先生,遠藤先輩から,作品の提出を頼まれたのですが」

「ああ,遠藤君の作品も完成したか」

 東田君の指し示したキャンバスに,藤原先生は目をやる。

「ほお,なかなかの力作だが,なんとか仕上げたな。彼の作品はなかなかの有力作品だからな」

 満足げな表情の藤原先生。しかし…

 

「おや,これは」

 近くの乾燥台に無造作に置かれた画用紙に目が行く藤原先生。その目に驚きが浮かぶ。

「これはいいな。これも遠藤君の作品だろう」

 先生の持ち上げたその画用紙は,先ほどの黒と白の複製画であった。

「はい。作品の記録用だそうです」

「記録用!,とんでもない。この作品はすばらしいよ。この黒の色遣い。

そう簡単に出せるものじゃない。伝統的な墨絵の技法に近いが,それとも違う

オリジナリティーがあふれている。この水彩画は完璧だね」

「…この油彩の複写だそうですが…」

「…ああ,確かに同じ構図だな。だが,よく見てみろ。同じ構図で,油彩と色彩を比べてみると

よくわかる。確かにこの油彩画もすばらしいが,むしろ,この水彩画の方が光の感じがよく出ているし,

構図のすばらしさも強調されている。今回の大会は,こちらを出品しよう」

「えっ,遠藤先輩はこの油彩画を出すつもりなのですが」

「まあ,たまには逆をいってみるのも良いだろう。この水彩の方が個性的だし,

入賞の可能性も高いと思うな」

「…」

 

 

「えっ,どうして私の作品が残っているのですか」

 8月25日。ふらりと美術室にやってきて,自分のキャンバスがそのまま残っているのを見た

遠藤の驚きは。

「ああ,遠藤君か。君の作品なら,あの水彩画の方を出品したよ」

 幸運か不運か,その場に居合わせたのは藤原先生一人であった。

「え,水彩ですか。描いてないですが」

「あの黒一色で描かれたやつだ」

「えっ!,あの複写が…」

「あの絵はすばらしかったよ。技術的にもすばらしいし,何より斬新的だ。

あれを出品させてもらったよ」

「そんな…,あれはただの複写で…」

「いや,そんなことはない。すばらしい作品だよ」

「…」

 呆然とした遠藤。その視線の方向には,ポツリと残された色鮮やかな油彩画があった。

 

 

 深まる秋は加速度的に寂しさを増して行く。暑いさなかにはあれほどまで待ちわびた季節であり,

何をするにも理想的な季節であるはずなのに,ひとたび訪れると風の冷たさが身にしみる。

「前回の大会の審査結果が送られてきた」

 部員達を美術室に集め,顧問の藤原先生が話し始めた。そのうれしそうな笑顔。

そして,その左手に持った大きな封筒から,部員達の期待が高まる。

「今回は,うちの部にとってたいへんすばらしい結果が出た。なんと,

うちの部が始まって以来の特選作品が出た」

 おぉ〜

 部員達の興奮はいっそう高まる。皆,まるで自分の作品が受賞したかのような期待の目をしている。

「特選に入賞したのは…」

 藤原先生はもったいぶったようなそぶりで,封筒から大きな紙を取り出す。

 

「おめでとう,遠藤。君が特選だ」

 

 

「おめでとうございます,遠藤先輩。いやいや,やっぱり先輩は凄いですね」

 一直線の素直な笑顔で賞賛する東田君。それでも他の部員達の賛辞を

一通り見送ってからのことであったから,まさに後輩としての理想的な振る舞いであったかも

しれなかった。皮肉もない,悔しさもない。…が,そんな最高のひきたてに接しても,

相変わらず遠藤は宙天をみつめるような,呆然とした表情であった。

「…」

「あれぇ,うかない表情ですね,遠藤先輩。こんなにすばらしいことなのに」

「…」

「…とにかく,おめでとうございます」

 遠藤は力ない視線で東田君を見る。が,突然その目に炎のような光が煌く。

 

「ちっともめでたくないな!」

 

    以上    PN 一光輝瑛

 

 

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