それでも肩書き

 

                   一光 輝瑛

 

 

「何よこれ,名刺30ケース,ですって」

「え」

「名刺をいっぺんに30ケースよ」

「…」

「名刺の注文。印刷依頼よ。一度に30ケースまとめてよ」

「3000枚,ですよね」

「そうよ。…まったく,この経費節減のさなか,いったい何を考えているのでしょうね」

「…やっぱり,注文した人にクレームをつけるのですか,先輩」

「本当はそうしたいんだけどね。そうもいかないわよね」

「え,どうしてですか?」

「…まあ,これを見てごらんなさいよ」

 

 中央製鉄といえば,なんだかんだ言っても大企業,一流企業には違いない。その本社。

ともかく東京のど真ん中にあって,豪勢な建物が他を圧倒している。

べつに下請けを威圧するのが目的ではないのだろうが,それでもそううがってしまう,

そんなロケーションである。

 

「…総務部長,ですか」

「そうなのよ。いつもいつも経費節減って,コピーの一枚から,トイレの水まで,

狂ったように経費節減を唱えていたその張本人よ。

それがね,突然名刺を30ケースも注文だって」

「…」

「名刺って,高いのよ。みんな平気な顔で配るけど,いったい一枚いくらするのか

わかっているのかしら」

「…」

「とにかく,高いのよ。ボールペン一本は無理してでもケチるくせに,名刺をむやみに

ばらまくなんてどうかしてるわ。それも,今度は総務部長よ。経費・予算の総責任者じゃないの。

なんで名刺を一度に3000枚も注文するのよ」

 

 中央製鉄本社。その中枢にあって,なぜかひっそりしているようにすら思えるセクション,

総務部庶務課である。このセクション,本店の中で細々した業務を一手に引き受けているのであったが,

それにしても地位が低い部署ではあった。そして,その庶務課で実務の最前線にいるのがこの原田さん。

30をちょっとだけ超した女性社員。花のOLには違いなかったが,他社の同期達に比べると

悲哀を感じているのも事実であったか。

 

「とにかく何よ。今になって名刺を3000枚だなんて」

「…確か,総務部長さんは今月いっぱいでご退職でしたよね」

 

 話しかけたもう一人の女性社員は,原田さんよりはずいぶんと若く見える。後輩の今井さんである。

たしか,昨年入社したばかり。今は原田さんについて,仕事を覚える真っ最中,そんなところか。

 

「そうよ。部長は今月で辞めるの。定年よ」

「それで,…名刺を3000枚注文ですか」

「そこなのよ。なんでいまさら名刺がこんなに要るのよ。

いまさら配ったってどうしようもないじゃない」

「…後任の総務部長との引継ぎに使うのですかね」

「そりゃあ,使うかもしれないけどね,それにしても30ケースも要らないわよね」

「…じゃあ,頼んでもムダになるってことですか」

「決まってるじゃない,ムダよ,ムダ。経費のムダ使いよ。その辺わかりそうなものだけれどね,

なにせ,経費の最終決済をするひとなのよ,総務部長って」

 原田さんは,名刺と同じサイズだが色が違う“注文用紙”を指ではじく。ふわっと跳ねたその紙は,

デスクの奥に落ちる。

「いったいどういうつもりなのかしら。要りもしないものを,最後の最後に…」

 

「なあに,いつものことだ」

「…」

 庶務課長の立川は,デスクの上に置かれた書類の山に,機械的に印鑑を押している最中であった。

「いつものことだ。退職直前になると,むやみに名刺を注文する人が多い」

「…でも,3000枚ですよ,課長さん」

「前の総務部長は5000枚だった。まだ少ない方だ」

「…」

 

 原田さんは,怪訝そうな表情を全面に出し,課長の顔をみる。

「つまりだな」

 課長は,弾き飛ばされた名刺の注文用紙を拾い上げ,無造作に原田さんに返す。

「普通は,名刺なんてものは仕事上で使うもの,仕事が終わったら無用なものなのだが,

これが“総務部長”ともなるとそうでもないんだ」

「え」

 

 立川課長は,再び自分の椅子に腰掛ける。黒ぶちの仰々しい眼鏡,その奥のやさしい瞳が,

彼の特徴の一つだ。

 

「つまり,こういうことだ。退職後,名刺はそのまま家に持って帰る」

「え,家に,ですか」

「退職した役員達は,それでもジャケットの内ポケットに,名刺入れを忍ばせている」

「…それでどうするのですか」

 課長は再び立ちあがって,ちょっとおどけたように,名刺を受け渡す動作を交互にやって見せる。

「『どうも,わたくし立川と申します』

『そりゃあどうも』

『まあ,こういう者です。失礼ですが,会社にいたときの名刺しか持っていないものですから』

『そうですか。おや,中央製鉄の総務部長さんですか,たいそう御立派で』

『いえいえ,昔の肩書きですから…』」

 

「…,そういうことですか」

「そういうことだ。だから退職直前になって,今のうちにと思って名刺を大量に印刷する。

残りの一生分ってわけだ」

「でも,哀しいですよね。退職してまで昔の役名にすがるなんて」

「ああ,そうだな」

 

 

「すみません,わたくしこういうものですが」

「はい…」

 3日後。庶務課に突然の来訪者が現れる。ずいぶんかっちりした身なりだが,

どうもかなりの年齢らしく,とても一般の現役サラリーマンには見えなかった。

「…ええっと,神山さん,でいらっしゃいますね」

「はい」

「…ええっと…」

「本日,2時のお約束で立川課長にお目にかかることになっているのですが」

「はい,そうですか…」

 原田さんは,もう一度その名刺を眺める。名前と,住所・連絡先などが

細かく印刷されてあるのだが…,本来名前の上にあって欲しいものが,なぜかどこにもない。

「失礼ですが,神山様,どちらの神山様でいらっしゃいますか」

「ええっと,どちらのといわれましても」

「…」

「ああ,今はもう退職しましたが,以前は大東京スチールで営業部長をやっていました」

「はい,大東京スチールの営業部長さんですか!これは失礼いたしました」

 原田さんの対応が突然変わり,妙に丁寧になる。

「…今では退職していますが…」

 

「立川課長さん,大東京スチールの神山部長様,もと部長様がおみえになりました!」

 

 

 以上 PN 一光輝瑛

 

 

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