衰弱と日常

 

 

                    一光 輝瑛

 

 

「わしももう年だ。すっかり弱っちまってなぁ」

「はは…」

 “おっちゃん”の動きは,確かにのろのろしていた。ごそごそと動くその背中は,

服の上からでも骨ばっていることが見え,そして曲がっていた。

「…まあ,そう言わず元気出してよ」

「ああ。そうしたいのだがな…」

 おっちゃんは,奥からお盆に載せた湯飲みを持ってくる。

僕は,昔からの掘りごたつに恐る恐る足を入れながら,そんなおっちゃんを見守っていた。

 

 “おっちゃん”に会ったのは,本当に久しぶりだった。近所に住んでいるおっちゃんで,

子供の頃から家に上がりこんでは遊んでもらっていた。

別に親戚ではないし,今となってみればずいぶんあつかましい関係ではあったが,

それでも子供時代を振り返るのに,このおっちゃんの家で遊んだことは,

無くてはならない要素だった。

「それにしても久しぶりだな。元気にやっているのか」

「まあね」

 高校,大学と,実家から飛び出してしまった僕にとっては,

そのとき以来近所での時計は止まってしまっている。久しぶりの休みで帰っていたところ,

近所の“おっちゃん”に呼び止められたのだ。

「…」

 古めかしい掛け時計のコチコチとした音が,薄暗い部屋にかすかに響いていた。

染み付いた匂いは,決して快適なものではなかったが,なぜか昔と変らない安心感を伝えていた。

「おっちゃんはどうなの?,ちょっと元気なさそうだけど」

「…まあ,仕方ないさ。年が年だ」

「はは,またそんなことを…」

 冗談めかして笑って見せたが,それにしても,

おっちゃんがすっかり老け込んでしまっているのははっきりしていた。

「まあ,茶でも飲めや」

 

 おっちゃんも,ゆっくりとした動きで掘りごたつに入ってくる。

懐かしい,古びた湯呑みのお茶をすすると,

どこか世の中の流れがすべて止まってしまった錯覚にとらわれる。

「懐かしいよ。あの頃のままだね」

「…ここにあるものはな。あれもこれも,もう何十年も使っているものばかりだ」

 おっちゃんは,どこか寂しそうにあたりを見回す。

「何もかも古びてしまった。このわしも含めてな」

「はは。そう言っている人に限って,いつまでも元気なんだよ」

「…それならいいんだがな」

 おっちゃんは,寂しそうな目になって,部屋の一角を指差す。

「あれを見てみろ。わしはもうだめだ」

「?…」

 

 そこには,なにやら奇妙な機械があった。最初入ってきたときから,

この部屋に不釣合いな見慣れぬ機械だと気づいていたが,それがいったい何であるのかわからなかった。

空気清浄機か電気ファンヒーターの類に見えたが,それにしてはサイズが少し大きく,

やや不格好にも見えた。

「いったいこれは何?」

「これがな…」

 おっちゃんは,のそのそと動いて機械のレバーをひねった。かすかに機械が動き出す音。

そして,おっちゃんは,機械から伸びた細い透明の管を手繰り寄せた。

「ここを見ろ」

「!…」

 おっちゃんがその管の先を示す。奇妙な形になった管の途中に小さい穴が開いていて,

なにやら突起が出ている。

「この機械で作った酸素が,ここの穴から出てくるんだ」

「酸素?」

 おっちゃんは,その管の穴を僕の手に近づける。かすかではあるが,

そこから空気の流れが出ているのを感じる。

「…」

「こんなものを使わなくちゃならないんだから,わしももうだめだな」

「!」

 おっちゃんは,その管をくるりと巻いたかと思うと,顔の周りに装着してみせる。

その管の二つの突起が,ちょうど鼻の穴に来て固定される。

どうやら,そこから出る酸素を,鼻から吸い込む,そういう仕掛らしい。

「人工呼吸器…」

「いや,それとはまた違うんだがな。要は,酸素補給器ってとこだ」

「そんなものが要るの…」

「長年タバコを吸ってきたツケだ。肺が弱っているから,酸素を補給しないと,

疲れるのが異常に早いんだ」

「…」

「どうしようも無いだろう。こうなってしまっては,もう不便で不便で。

この管の届くところで生活していないと,元気が出ない。

まあ,まるで鎖につながれた犬みたいなものだな」

「…確かに不便だよねぇ…」

 

「それじゃあ外出するときは困るよねぇ…」

「いや,それがなかなか便利で」

「?」

「携帯用の酸素ボンベがあってな」

 おっちゃんは,戸棚を開けてみせる。そこには,“医療用酸素”と記されたボンベが,

数本並んでいる。

「これを持ち歩けば,外出でも大丈夫だ」

「…じゃあ,途中で酸素が切れたら…」

「そのときは,電話一本で届けてもらえるサービスもある。たとえば,新幹線に乗って,

降りた駅で酸素ボンベを受け取る,なんてサービスもあるんだ。僻地にでも行かない限り,

困ることは無い。便利な世の中だ」

「…確かにね…」

 

「しっかし,これを持ち歩くって,結構たいへんだよね」

 僕は,ちょっと酸素ボンベを持ち上げてみる。そんなに重いものでもないが,

それにしても持ち歩きたい類のものではないことは確かだ。

「背負って歩くの?」

「はは,たいていは手押し車に載せて歩くんだ。これを見てみろ」

「!」

 お年よりがよく押しているような,手押し車が置いてあった。

「これにボンベを載せて,歩くんだ。これなら,そんなに疲れない」

 おっちゃんは,なぜかちょっと得意そうに手押し車を押してみせる。

だが,その姿はますますおっちゃんの“老い”を際立たせているように思えた。

「そして,電車に乗るときはこれだ」

 その横には,ちょっと角張ったスポーツバッグのようなものがある。

「これは,旅行かばんのように持ち歩けるから,乗り物でも大丈夫だ。コロもついているから,

そんなに不便でもないし」

「はあ,いろいろあるんだね…」

 

 手押し車,スポーツバッグと並んでいるその次に,奇妙なものがあった。

僕の目は,すでにそちらに移っていた。例の酸素ボンベが取り付けたままになっていたから,

どうやら同じシリーズらしかったが,みるからに奇妙であった。

まるで,サーフボードのような物体に,金具と管が取り付けてある。

「おっちゃん,これは何?,まるでサーフィンみたいだけど」

「ああ,それか」

 おっちゃんは,ますます得意そうな顔になって,その物体に近づく。

「これは見ての通り,サーフィン,サーフボードさ」

「サーフボードだって!?」

「はは。すっかり弱ってしまってな。サーフィンするときにまで,酸素が要るんだ」

「!」

「でもなぁ,わしも若い頃からずっとサーフィンに凝っているんだ。

いくら年取っても,いくら肺が弱っても,

やっぱりタバコとサーフィンだけは止められないんだよなぁ」

 おっちゃんは,楽しそうに,その“サーフボード”をなでてみせる。

 

「…安心したよ,元気そうで…」

 

 

 以上  PN 一光輝瑛

 

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