一光 輝瑛
「ごめんください。,あ,今度,近所に引っ越してきたものです。上田と申します。
はい,茶色のアパートの3階です。…どうぞ,よろしくお願いします。
あ,これ,簡単なものですが…」
上田君にとって,まったくの知らない人と話をするのは本当に久々だったのかもしれない。
入社三年目ではじめての転勤,転居。
『引越しのときは,ご近所様へのご挨拶と手土産は絶対に欠かさないように…』
両親の口癖のような教えと,大きなダンボールにつめられた贈答用のタオルセット。
「面倒だよな…」
引越しの荷物も荷物のまま,慌しさに疲れも感じていた上田君は,
むしろ逃避して寝たい欲望に駆られていたが,
それでもとりあえず“近所”と呼べそうな範囲を回っていた。
「…」
今どきのことだから,怪訝そうな顔で見る隣人達,が,物を渡せばその瞬間は味方になる。
「あ,どうも…」
一つのドアが閉まると,一つの匂いが終わる。そして,ほっとした気分,右手の紙袋。
「…」
次に行く家は,アパートの山側5軒隣。細い道を挟んで,1軒分だけのねずみ色の瓦が見えていた。
「ごめんください…」
古びた木製の門をくぐり,茂った木々の奥。苔むした地面はずっと陰になって見えた。
そして,玄関。黒ずんでかすかに読める表札,見るからに破損した玄関チャイム,
くすんだすりガラスの引き戸,灰色の踊り場。
「ごめんください…」
すでに,『ご近所に引っ越してまいりました,よろしくお願いいたします,上田』のメモを,
ポケットから取り出し,タオルといっしょに置こうとした刹那,奥からごそごそと音。
「!」
「はぁい…」
日はすでに西に傾き,かすかに冷たい風が頬をなでる。
「…」
長い。,返事はあった,音もする。が,それから時が流れる。
ガチャガチャ
引き戸の錠前をはずす音,ぎしぎし音をたて開かれれば,骨ばった細い手首が見える。
「…はぁい…」
「あ,突然すみません。今度…」
「はぁ」
「…今度引っ越してきたもの,です。上田と…」
「ああ,そうですか…」
ようやく完全に開いた引き戸から,見えてきたその姿は,老人。それも,顔に年輪が刻まれ,
腰はへし曲がった,よろよろと…
「…」
「はあ,どちらさんで…」
「はい,ですから,今度引っ越してきたもので…」
「はあ,引越し…」
時計をひん曲げたような,間延びした時間が流れる。無精ひげ,黒ずんだ肌,
宙空を見る瞳,節々の瘤。
「よろしくお願い…」
「まあ,あがってください」
「…」
「どうぞ…」
ゆっくりと,それでもくるりと振り向いたその老人は,
まるでぎしぎしと音をたてるように奥に入って行く。
「あの…」
「…どうぞ…」
右手の紙袋が突然重くなる。が,まるで吸い寄せられるように入ってしまう上田君。
「まあ,かけてください」
「…」
薄暗い室内,擦り切れた畳の和室。みしみしと音をたてる床には,
色あせたような布が散乱していた。無造作に散った埃,隅に寄せられた汚れた食器。
「…」
「散らかしてますが,まあ,どうぞ…」
上田君は,かすかなめまいを感じながらも,まるで錘をつけたような足が自然と曲がる。
6畳の部屋,散乱する雑物を避けるように腰をおろす。極端に目線が低くなった錯覚。
「あ,今日はご挨拶だけですから…」
「まあ,お茶でも…」
老人は,先ほどから奥に消えている。ごそごそと,壁を引っ掻くような音。
「…」
再び,間延びした時間。
壁には,何かの賞状らしきものが並んでいるが,細かい字でよく読めない。
北側には,紋付を着たおばあさんの写真が飾ってあるが,枠からすれば亡き妻の遺影といったところか。
年代物の椅子,まるで家具のような茶色い箱型テレビ。ねじまがったような,茶色のたんす。
上に載ったガラスケースからは,ゴムの質感を感じさせる子供の人形が,じっとこちらを見ている。
「…」
奥ではまだごそごそと音がしているが,その間隔はどこか長い。
「あのぉ…」
呼びかけてみるが,反応は無い。
中腰になって,上田君は再び部屋を眺める。汚れがこびりついたような石油ストーブ。
黒いダイヤル電話が,くすんだ電話台に載っている。襖には山の絵があるが,
黄色く変色してしまってよく見えない。かろうじて仏壇だけが金色の光を放っていたが,
供えられた花はしおれて,むしろひからびてしまっていた。
「あのぉ…」
ちょっと大き目の声で,再び呼びかけてみる。上田君は,すでに立ち上がってしまっていた。
「…はい…」
老人は再びのそのそと姿をあらわす。綿のような白髪,黒ずんだ耳,強調される細い足。
「…お茶を…」
老人の手には,すすけたお盆が持たれているが,上には何も載っていない。
「…道具を探しとりますんで,もうちょっと,…なにせ,一人なもので…」
「…っあ,お構いなく。結構でございますので」
「…」
老人は,ぎしぎしさせながら押入れを開く。しなびた布団,古いダンボール,放り込まれたズボン。
「…探しますんで…」
「,いえ,お構いなく…」
上田君の目は,すでに出口,ささくれ立った木枠の引き戸に向いていた。
「失礼いたします。ちょっと…」
上田君は言葉を詰まらせる。きしむ床が永遠に続くように見える。
老人は,ようやく探すのを諦めたようで,ゆっくりとこちらを向く。
「…そうですか…」
「は,はい。おじゃまいたしました。失礼します…」
ようやく,引き戸にたどり着く,
ギイィィィ,
音をたててすべるその外に,庭の薄暗い茂みが見える。
「では,失礼します…」
上田君は,とにかくここから脱出することだけを考えていた。言葉のトーンは下がりきって,
口の中でかすかにこもる。
「…そうですか。まあ,またおこしください…」
老人の,がっかりしたような,うつろな視線が上田君に突き刺さる。
「…」
ギイィィィィ,ガタン,
力をこめて閉めた木戸の向こうに,かすかに動く小さい影。が,目もくれずに立ち去る,
湿ったような細道,暗い庭,門の向こうの光…
「…ここは…」
数日後,上田君は,再びあの門の前に立っていた。
「あれ,上田君じゃないか」
近づいてきたのは,アパートの大家さん。面倒見の良い人で,引っ越したばかりの上田君に,
なにかと世話を焼いてくれる。
「…ああ,この家はね,もう何年も空家だよ」
「空家?」
「昔は立派な家だったんだが,すっかり傷んでしまって…」
「…でも,おじいさんが…」
「ああ。5年くらい前までかな,長いことおじいさんが一人で住んでいたよ。
身寄りの無いおじいさんで,あまり姿を見ることも無かったけど。…上田君は知っているの?」
「…」
「おじいさんの葬式の時には,縁者の人も来ていたみたいだけれど,それから後この家は荒らし放題で,
すっかり朽ち果ててしまったな。まあ,もう5年も放っているわけだから…」
「……」
上田君は,傾いた門を一歩分け入って家を見る。庭は雑草に埋もれ,
池には水も無く落ち葉が散乱していた。屋根瓦は剥げ落ち,壁はくすみ,
所々割れたガラス戸から中が見える。
土埃,錆びた空き缶,崩れた壁,破れた障子,腐りかけた床…
以上 PN 一光輝瑛
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