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さてその食事です 小僧さん達も私達と同じおかずです。 私今思うと変だなーと感じるんですけど、ご馳走は父が食べる物と納得していたんですね。小僧さんは早く奉公に来た人より食べ終わるのが遅いと大変なので、ご飯にお味噌汁をかけて夢中で流し込んで居ました。 仕事に関しては一寸間違ったりすると、父に箪笥を作る時使う桐の板で頭の板で頭を叩かれるんです、でも、それをジーツと我慢して奉公し手に職が付くと、その後お礼奉公と言って一年間給料無しで働き初めて、一人前の職人として巣立つ事が出来る訳です。 私は私でお小遣いが足りないと兄が金庫の傍のガラス戸を引いたり押したりして音を立てるんです。その間に私が金庫の中のお金の入っている引き出しを出すのですが、引き出しが出る時チーンと大きな音がする仕組みに成っているのですガラス戸の音でそのチーンが聞こえなければ大成功です。そんな思い出もありました。 さて前橋が空襲を受けたのは昭和二十年八月五日の夜でした。 今夜は危ないと父から逃げる様に言われ、当時病のため床に就いていた母を一緒に連れて行こうとしたのですが、母は私は此処に居るから(きっと身体がきつかったのでしょう)と言って、お前たちだけ逃げる様言われました。 どうしてそんな事が出来るでしょう。兄と私も此処で一緒に死ぬからとやっと納得して貰い、二人でリヤカーに戸板を載せその上に布団を敷いて母を寝かせました。父は最期まで残るからと言いました。 兄と私は母を載せたリヤカーを引いて嫁いでいる姉の家に向かいました。 それから広場に着いたらそこに小川が有りました。取りあえず広場の真ん中に母を乗せたリヤカーを置き、その上に上から落ちてくる焼夷弾が母に見えない様に毛布でリヤカーをスッポリ覆い、私達は小川に飛び込みました。とにかく飛行機が次から次へと焼夷弾を撒くんです。 まわりは火の海です。顔が熱くて堪りません。飛行機の音が遠ざかると夢中で母の許に声を掛け無事を確認し、又川の中〜南無阿弥陀仏という声も聞こえました。 やっと敵の攻撃も終わり、さて何処へ行こうかと又兄と母を乗せたリヤカーを引き道路に出ました。道の中央に大きなトラックがあり、私達はその影で一休みしようとした瞬間です。 周り中火の海の明るい中に黒い雨が降って来るのです。 黒い雨に濡れた私達の姿は想像に絶するものだったでしょう。 やっと街の中を(街には建物の姿は何一つ見当たらなかったと思います)抜けて、郊外にある伯父の家の無事を確認出来た時は、兄と二人ヘタヘタと座り込んだ事を今でもはっきり覚えています。 やっと母を伯父の家に寝かせる事が出来ました。 再会の喜びに浸る間も無く父と兄は焼け跡へ、私は母の看病です。 間もなく終戦 八月十五日その日に母も息を引き取りました。 母の死体は一メートル五十センチ四方の薪の上に載せられ、又その上に薪を積み重ね、ガソリンを一杯撒いて火を付けられ焼かれました。兄も私も悲しくも何とも有りません。平気?で見て居ました。 現実を捉えて感情に浸る状態ですら無かったのです。 それから私達は復こうへの毎日ですが、只与えられた食事を食べ跡形付けする魂の抜けた人間の集団でした。本当に人間という物体の感でした。 倉賀野に嫁いでいた姉は前橋の燃え盛る火を見て線路の上に座り、両親と兄弟の無事を祈り続けたそうです。 その後 私は太田へ嫁ぎ一男一女の母となり、 今蘇って来ることは黒い雨の正体です。 それは私達の周囲の激しい火災の熱が上昇し上空で冷やされ、黒い雨となって地上に戻って来たのでした。でもそれは極一部の地域に限られた様です。 後一つ、あんなに私達を愛し育んでくれ、自分たちも必死になって守った母の焼かれた時の私達の思い、何の感情も抱かず見ていられた己に不安すら感じます。 今毎日テレビで映される戦争の画面を見るに付け、私はその裏に在る諸々の悲しみ苦しみ、身に痛い程感じるこの頃です。怒り喜び悲しみ楽しみ感じる事の出来ない時に生きた私の幾ケ月は、最高に不幸だったと今更の様に心が痛みます。 |
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