矢田 匠(Takumi Yada)

O型(よくA型やAB型と言われてしまいます・・・・)

●Profile

1975年4月13日の日曜日にこの世に生まれる。

いきなり、小耳症という先天性の病気を持ってしまう。この時点で、僕の音の世界はステレオではなくモノラルになってしまう。(簡単にいえば、片耳の聴力がほぼゼロってことです。)

生まれて2年間は函館で過ごす・・・・なぜか、2才の記憶がまだあります・・・・断片的だけど。今は存在しない函館市赤川町に住んでました。(現在のイト−ヨ−カド−の裏あたりです・・・)

自宅が完成した為、亀田郡七飯町に移住。自宅の工事中、2才にして初めてトラックを運転する!!(厳密に言うと、トラックの運転席で遊んでいて、誤ってサイドブレーキを外してしまったらしく、坂道を惰性で下ってたところ・・・・行き止まりの数メートル手前で、間一髪で父に助けられたらしい・・・・。父がスポーツ好きで足が速く無ければ、この時点で僕の一生は終わってたかもしれませぬ・・・・)

父の車好きの影響か・・・・行き交う車の名前をすべて言えるくらい車が好きになる。

七飯マリア幼稚園に入園。2年間お世話になる。その日教わった歌をピアノとか習ってもいないのに、オルガンで弾いていたらしく、先生達から「神の耳」と言われていたらしい・・・・カトリック系の幼稚園らしいネーミングだよね・・・・。この幼稚園でやっていた音楽スクールに入りたくて、うらやましく指加えて見てたのを今でも覚えてます。

この頃からスキーを始める。嫌で嫌で仕方が無かったのか・・・・いつも泣いて・・・・スキーもしないで、ロッジで美味しそうに並べられてた「アメリカンドック」を指をくわえて見てたのを今でもおぼえてます。忘れもしない・・・今は無き大沼スキー場。よしの山ね・・・・・。(駐車場からリフト乗り場までが遠くて辛かったよ・・・・七飯スキー場が出来るか出来ないかくらいに・・・・確か無くなったような・・・・・)

七飯町立大中山小学校入学と同時にピアノをようやく習わせてもらう。このくらいから、自分は人とは違って片耳が聞こえない事を自覚する・・・・と、同時にいじめが始まる・・・・がきって言う事が容赦ないから結構凹む日が多かった。音楽やる上では、最強にハンデになるピアノを頑張ってみる。3年の時に、スパルタな女のベテラン先生が担任になる。教室内で孤立する程の問題に巻き込まれ、いじめピーク。しかし自分のピアノを認めてくれたのもこの先生。4年から、先生の鏡ともいえるベテランの男の先生が担任になる。学校内で一番の僕の理解者になってくれるほど、お世話になりました。この年から耳の手術をする。北大附属病院形成外科に入院。「耳の窓口」とも言われるすばらしいドクターにオペを受ける。このドクターに憧れてしまい、医者になりたいと本気で思う。大学に入った暁には・・・・ドクターの家に下宿する事まで約束してしまう・・・・・(さー・・・・大変だ・・・・)。3年から夏はサッカー、冬はアルペンスキーを本格的に始める。サッカーのポジションは、ピアノやってるのになぜかキーパー・・・・突き指しながらピアノのレッスンに通った事多々。なぜか他校の選手に「女キーパー」とあだ名をつけられる・・・・・(実際、高校まで女性と間違われた事が度々・・・・)。アルペンスキーのほうは、闘争心ってものが無いのか・・・・あまり成績はぱっとしませんでしたが・・・・・最高成績が、全道大会の大回転で7位かな。スラロームが比較的得意でした。

七飯町立大中山中学校に入学。無謀にも医者を目指していた俺・・・・ラサール高校に行きたいと夢膨らませ、調子に乗って勉強したら・・・・・学年トップになってしまった・・・・。「あ、俺って頭いいんだぁ」って小躍りしてたらどんどん成績さがりました・・・・・・(;・∀・)。その内、ラサールなんて恥ずかしくて言えない状況にまでなってしまいましたとさ。部活はサッカー部、ポジションが特殊なキーパーだったので、1年からユニホーム着れて、かなり調子にのってました・・・・。放送局に入局し機材のおもしろさにはまる・・・・結構今の仕事の原点だったりします。

函館稜北高校入学。バレー部に所属するも・・・・厳しい練習に耐えられず、辞める口実を考えていたらほんとに脚を壊してしまった・・・・。スキー同好会に転部するが、顧問のやる気のなさに唖然としフェードアウト的に消えてみる。バンドを始めてみる・・・・・さむいステージばかりで、いまいちなバンドでした・・・(;・∀・)。今思うと、ほんと恥ずかし気もなくよくやってたもんだ・・・・付き合ってくれたメンバーにはほんと申し訳ない気持ちでいっぱいです。音楽の先生にだまされて、いつの間にか合唱部に籍が・・・・・状況を飲み込めぬまま合唱の伴奏をやってました・・・・( ・ω・)なんで? 担任に「落ちこぼれ」と言われる程成績が悪かったにもかかわらず・・・進学希望する無謀な生徒でしたが、主要5科目では評定平均などとんでもない事になるので、3年間....音楽と体育だけは評価を10で乗り切る。受験でデッサンがあったため、受験直前にあわてて教えてもらう為に美術部に入部希望を申し出るが・・・・先生に「いまさら無理!!」と門前払いされるが、泣き寝入りで無理矢理入部・・・・・奇跡的に大学合格。担任に「奇跡だ!!」と泣かれる・・・・。

北海道東海大学芸術工学部建築科入学。父親が建築の仕事をしていた為、製図の仕組みはなんとなくわかってた事もあり、製図関係の学科は得意でしたが・・・・構造力学がまるでわからず・・・・現実逃避。だんだん自分は建築をやってはいけない・・・など考える・・・・と・・・・同時に、再びバンド熱に火がつく。ピアノをやっていた事もあり、パートはキーボード。準備や仕込みが大変なのにステージでは目立たない存在である事に気がつき、ドラムに転向してみるも・・・・目立とうと・・・手数だけでものを言わせて、うるさいわ・・・安定感ないわ・・・で、悪い意味で目立つ。アレンジを勉強する為に、エレキギターやベースを始めてみるが・・・・我流のたまもの!!ぜんぜん成長せず・・・・。バンド仲間にDTMの存在を教えてもらい、古いMac(SE/30)を購入して勉強をする。大学のバンド仲間から最近までメインで活動していたTackandMasakiの相方、Masakiを紹介される。ひょんなことからアコースティックユニット「TackandMasaki」が誕生★ このユニットのCDを作る為に、レコーディングの勉強をし始める。このユニットにてミュージシャンコンペ「サウンドアーケード2001」にてグランプリ受賞。旭川の月3本のレギュラーライブを中心に道内は札幌で毎月一回、函館や室蘭、苫小牧・紋別・名寄など様々な場所でライブをさせていただき、念願だった東京でも2度ほどライブに参加させていただきました。年一回ペースで開催させていただいた単独ライブでは、皆様の御協力のおかげで動員100人オーバーというライブも経験させてもらいました。CMでも、2度程このユニットの曲を採用していただきました。2007年の僕の誕生日に解散。

前後しますが・・・・大学入学まもなく、心待ちにしていた自動車免許を取得。続けてこれまた心待ちにしていた中型二輪免許取得(今の普通二輪)。そして、これまたまもなく4輪の頃お世話になった担当教官からのお誘いで、自動車学校でも大型2輪教習が条件付きで認可されるという事になったため、その条件の一つを満たす為の一員として、きっつい2輪の教習を受ける事になる。条件の一つって言うのは・・・・・その自動車学校で育てたライダーを公安委員会の限定解除の試験で一発合格を10人連続で出す・・・・っていう、とんでもない条件でして、教える側も教わる側もかなりのプレッシャーとの戦いでした。ただでさえ当時の公安委員会での限定解除は合格率がめちゃくちゃ低い検定だったわけで・・・・・運良く一発で合格をいただきましたが・・・・。その厳しい教習の中でバイクを操る楽しさにはまってしまい、全国二輪車安全運転競技会に3度出場し全道で3位という記録をまぐれで出す。その間にともに練習していた友人をバイク事故で亡くし、その意志を受け継ぎ・・・バイク仲間で、旭川では初のライディングスクールの企画運営団体を作り代表者の一人として2度スクールを開催させる。

就職するも、交通事故とも思える程の確率で難病にかかってしまい、2度ほど職をリタイアする。途方にくれながらも音楽を頑張っていたら、今の職場に拾われる。レコーディングを少しでも勉強していたのがほんとに幸運で、スタジオのChiefEngineerとしてPAやRecordingEngieerとして、最近ではMAやCM製作のエンジニア−としても頑張っている最中でございます。

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