日本のサッカーの歴史


1873年、英国海軍少佐ダグラスによってサッカーが日本に上陸。その後は東京高等師範学校を卒業した教師たちによって全国に広まる。

1904年には東京高師と横浜外人チームとの間で日本初の国際試合が行われた。1918年、大阪、名古屋、東京の各地で蹴球大会が催された。 これが外国通信社により「全日本選手権の予選開催」と誤解される。これの報をうけたイングランド・フットボール協会(FA)は日本に純銀製のカップを寄贈することを決定。 翌、1919年3月、2ヶ月の船旅を経てFA杯が到着した。

1920〜: FAカップの宛先は日本サッカー協会であったが、当時の日本には国内のサッカーを統括する組織は存在してなかった。 そこで時の大日本体育協会会長・嘉納治五郎の命により、カップ到着から2年後の1921年9月10日に、大日本蹴球協会が設立された。

1930〜:サッカー日本代表が初めて五輪に出場したのは1936年ベルリン大会。参加国は16各国で、日本は予選なしで出場。 初戦、優勝候補スウェーデンを相手に2点のビハインドを跳ね返して、歴史的な勝利を収めた。しかし、2回戦のイタリアに0−8と敗れ去った。

1950 〜:w杯予選に初挑戦した日本の韓国との初対決を迎えた。1954年W杯大会のアジア枠は、中国の棄権により、日韓の間で争われたからである。 ホーム&アウェー方式の予選は、朝鮮戦争終結後間もないこと、反日感情のことなどから、2試合とも東京で行われた。 第1試合は1954年3月7日、神宮競技場。雪で泥田のようになったピッチで韓国が5−1で勝利。第2試合は2−2で引き分けたため、韓国が初出場した。

1960 〜:1960年代の日本サッカーはデットマール・クラマーに始まると言えるだろう。 1960年10月に西独から来日したクラマー・コーチは4年後の東京五輪で日本をベスト8へと導く。 レベルアップにはリーグ戦形式の大会が必要という彼の提言で、1965年6月、8つの実業団チームにより、日本サッカーリーグがはじまる。 そして、1968年メキシコ五輪で、釜本邦茂、杉山隆一らを擁した日本代表は銅メダルを確保した。

1970〜:1977年10月3日、奥寺康彦(当時25歳、古川電工所属)のFCケルン入りが発表される。日本人プロ第一号の誕生だった。 1977年の夏、日本代表の合宿でケルンに滞在中の奥寺のプレーが名将バイスバイラー監督の目に留まったのがきっかけだった。 奥寺はケルンに3年間在籍した後、レルタ・ベルリンを経て、ヴェルダー・ブレーメンに移籍。9年間西独(当時)でプレーして235試合25得点の記録を残した。

1980〜:1980年代、ジョージ与那城、ラモスらが創り出す読売クラブの「驚き」に満ちたサッカーは多くのファンの支持を得た。 また、「ジュニアから選手を育成」というクラブの方針は当時の日本では画期的なものだった。 日産自動車も木村和司、金田善稔、水沼貴史らのタレントを擁し、読売クラブと人気を二分していた。 「読売vs.日産」・・・・日本のサッカーが詰まらないと言われる中、このカードだけは特別だった。

1990〜:W杯初出場1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルのラーキン・スタジアム。日本は、延長後半、岡野の劇的なゴールデンゴールでフランスW杯を決めた。 1954年のスイスから通算12度目の挑戦だった。大会の結果は残
念ながら3戦全敗だったが、過去8回出場しているスコットランドも決勝トーナメントに進出していない。これがW杯の厳しさだ。

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