第12話グラデ左 グラデ右石川

「ののぉ、生きていたんだね・・・」
 深い薮をかき分けながら、山の斜面を一心不乱に駆け登る。
「ねえ、何で逃げるの・・? 私のこと忘れたの・・・?」
 スカートから覗く華奢な足に、容赦なく自然の厳しさが切りつける。

 洋館(つんく邸)の裏山で死んだはずの辻の姿を見つけた石川は最初、自分の目がおかしくなったのではと思った。
 しかし気が付いたときにはもう、何もかもを忘れて無我夢中でその場所めがけて突っ走っていた。
 石川が迫ってくるのを見て、辻に似た少女は山奥へと走り出す。
 深い深い緑の闇へと。

 それでも石川は構わず追い続けた。
 辻が生きてさえいてくれれば。

 いつの間にか目の前の木々がぼやけている。石川の瞳に、とめどなく溢れてきた涙のせいだ。
 ふらふらになりながらも走る石川だったが、不安定な地面に足をとられ森の深い茂みに身を沈めた。
 瑞々しい草の匂いの中に全身を委ね、目を閉じる。
 あの日のことが鮮明に蘇ってきた。

 日本武道館爆破事件では、石川も地獄の苦しみを味わったのである。

T E N

 ファイナルライブ。
 ラストソング。
 武道館の中央ステップを降りきったところで、悪夢の第一幕があけた。
 後ろから突然大きくて熱い手で、背中を張り手されたような衝撃。
 辻や加護に比べて爆心から遠かったとはいえ、石川は一瞬でステージ下まで転がり落ちる。
 身体のあちこちを床や機材に打ちつけて、うぐぐ、とうめき声を上げる。


  どこ? よっすぃーは? ののは? あいぼんは? 保田さんは?
  ねえ? みんなどこ? 歌おうよ。
  まだ歌は終わってないよ。
  歌は。

  私は保田さんとかに比べたら、そんなに上手くは歌えないけれど。
  でも私なりに頑張ってきた。
  歌うのがとってもツラい時期もあった。
  でも、今は一人でも多くの人にこの歌をきいてほしいの。
  この曲の最後は、私の娘。としての最後の見せ場でもあるんだから。
  ねえ、歌を続けてよ。続けさせてよ。

 なにが起こったかわけが分からないまま、周囲を見渡すとサカナの目をした男たちに取り囲まれていた。
 どの男も同じ顔をしている。
 目を精一杯見開いて、口は半開き。その口の端がかすかに、つり上がった。

 石川は右手に持っているマイクを口に近づけさせようとしたが、その腕に何か上からずしり、と重石のようなものが乗せられた。
 腕だけではない。
 足も身体も何から何まで、黒い影が覆い被さっていて身動きできない。
 首をじたばた振ったが、その首でさえ大きくてゴツゴツした岩石のような手で押さえつけられた。口にはマイクの代わりに、分厚い唇があてがわれた。
 キラキラとしたステージ衣装が、野蛮な男たちの手によって次々と剥がされてゆく。

「いやああああああああああ!!!!」
 石川の悲痛な叫びが武道館内にこだまする。
 スピーカーからの、けたたましいハウリング音。
 くすぶっている炎。スポットライトが、火花を散らして砕ける音。
 逃げる者、邪魔する者と、その闘いに敗れた者。誰もが冷静さを失っている。
 会場を包んでいるのは、本性をむき出しにした獣たちの咆吼。
 悲劇のオーケストラは第二幕を迎えた。

 だが、石川が一糸まとわぬ姿を―――先ほどまで感動を共有していたはずの―――男たちにむき出しにしたこの期に及んでもまだ、右手に握りしめたマイクを離そうとしない。

 身体中が熱い。
 殴られて、
 舐められ、
 貫かれて、
 そのあらゆる陵辱を受け入れざるを得ない絶望的な状況下でもなお、石川は思考を停止しようとはしなかった。
 どれほど楽だろうか。
 自分の置かれた状況をすべて放棄してしまえば、狂気から正面から向き合うことを止めてしまえば、悪い夢でも見たと諦めてしまえば―――

  ・・・しかし、まだコンサートは続いている。
  ここで自分だけ逃避するわけにはいかない。

 他のメンバーが歌っている姿が、石川の目の裏に焼き付いている。
 精一杯練習した自分のソロパートを、何度も何度も頭の中でくり返した。

 どれたけの時が過ぎていっただろう。
 混乱の中駆けつけた機動隊と狼たちとの決着がようやくついた。

 ある隊員が発見した時、石川は観客席の影に生まれたままの姿で仰向けで大の字になっていた。
 痛々しい切り傷とアザ、白と赤の液体が全身を包んでいる―――ほんの1時間ほど前まで、ステージ上でスポットライトと喝采を浴びていたはずの国民的アイドルの―――その姿を見て、隊員は思わず口を手で覆った。

 石川は武道館の直線的な天井をうつろな目で見つめながら、ぶつぶつなにか呟いている。
 そして、そんな姿になりながらもまだ―――右手にはマイクが握られていた。

T E N

  あんなことさえなければ、辻は今も笑顔で私に話しかけてきただろう。
  あんなことさえなければ、加護は自分の足で元気に走り回れただろう。
  あんなことさえなければ―――私は普通の女として生きていただろう。

  何かが、完全に狂ってしまったあの瞬間。
  辻さえ生きていれば、すべて夢であったと忘れられそうな気がするのに。


「りかちゃーん!」
 石川ははるか遠くから聞こえてきた耳慣れた声に、ハッと目が醒めた。
「なんでそんなところにいるのォ〜!?」
「あいぼん・・・」
 石川がさっきまでいた裏庭の石畳の上に、車椅子から飛び出さんばかり に身を乗り出して手を振っている少女が、豆粒のような大きさだけど見える。
(いつの間にこんな高いところまで登ったんだろう・・・?)
 無邪気なその姿を見て、石川はさっきから背中にずしりとのしかかっていた 黒くてドロドロしたものが、少し、ほんの少しだけど取り払われたような気が した。

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