「ごっ・・・」
バスのシートに腰を沈めた瞬間、保田は叫び声をあげそうになった。
「ゴホッゴホッ!」
喉まで出かかったその名前を慌てて飲み込み、むせ返る。
その原因は、右斜め前に座っている―――先ほどまで隣りに自分が座っていた―――若いカップルたち。
長めの背もたれの座席に、だらしなく座っている後藤の姿がそこにあった。
それはアイドルだった時代に、楽屋でお菓子をムシャムシャむさぼりながらテーブルにうつ伏せになってのんびりと寝ていた頃と、どこか印象が重なる。
ただひとつ、違和感があるのは、隣りに座っているどこか幼さの残る碧眼・金髪の男性の肩に頬を寄せていること。
マフラーと深く被った帽子に素顔をうずくめている保田は、いきなり目の前に飛び込んできた光景に何をしていいのかわからなかった。不自然にならないように、その二人をチラチラと観察する。
背が高いその男性が何かを後藤の耳元で囁くたびに、彼女は曖昧な笑顔を返す。
保田は知っている。
その曖昧な笑顔こそが、後藤が本当に心の許せる人だけに見せる表情だということを。かつてはそれが吉澤だったり、保田だったりした。
保田はその表情を見て、飛行機の中で精一杯考えた、会ったらどんなことを話すかといったシミュレーションが全部吹っ飛ぶのを感じた。
自分の知っている後藤はもういない。
でも今の後藤は、保田の知っているどの後藤よりも幸せそうだ。
次のバス停で降りた保田は、そのバスがゆっくりとアパートの方角に向かって上り坂の向こう側に消えて行くのを見届けると、全身がフワっと軽くなったような気がした。
自分の思い描いていた再会とは違ったが、サンフランシスコまで遠路はるばる来たかいがあったと保田は感じていた。
会わなければならない。
もう一度、あの時の仲間に会わなければならない。
そのためには怪我を完全に直さなければならない。
認められるよう歌い続けていかなければならない。
様々な人に生きる力を貰った。
それを恩返しできるようになって初めて、保田にとってのモーニング娘。が完結するのだ。
遥か異国の地でそう誓ってから4年の月日が経過した。
犬神音子(いぬがみねこ)。
それが今の保田に与えられた名前である。
アメリカで学んだトーク技術や音楽の知識を発揮すべく、地元FMラジオのDJとして再起をかけた。モーニング娘。時代の身分は明かさずに、新人として音楽活動も始めた。保田の復活に賭ける気迫に押された元娘。マネージャーの和田が、ここ数年の間に地道に業界に手回ししておいたのだった。
元モーニング娘。ということはラジオのスタッフは一応知っているものの、地方局を回っていて自分が元アイドルだということに気付く人はごく稀だった。
ビジュアルを一切明かさない正体不明の新人DIVAとして、地味ながらも着実に保田の歌声は浸透しはじめた。
デビュー曲は長期間にわたりオリコンチャートの100位内に留まり続け、累計枚数は無名の新人としては異例の売り上げを記録した。
その期待を受け発表したセカンドは、意外にもポップでキャッチなナンバー。
歌姫として売り出したかったレコード会社の反対を強引に押し切って、犬神(保田)はこの曲をA面にもってきた。
曲名は「ナカマダチ」。
かつての仲間でもあり友達でもあったメンバーに捧げる、輝いていたあの頃を思い出して作った曲だった。
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