第46話グラデ左 グラデ右吉澤

(うわっ、このトビラ懐かしい〜・・・)
 狭くて薄暗い階段をくぐり抜け、扉を開けると中から流れ出てきた生暖かい空気が吉澤の頬に伝わる。
 特殊なクッションのついた、防音用の分厚い扉。
 吉澤が懐かしいと感じたのは、その扉がモーニング娘。が毎回レコーディングしていたスタジオのものと同じだったからだ。
 録音室と呼ばれるその地下の一室は、電気が点いていた。
「あれ」
 一瞬、動きが止まる。
「あのー・・・、誰かいるんですかぁ?」
 静寂。
「もしもーし!」
 返事はない。
 吉澤は見た目とは裏腹に、拍子抜けするほど軽い扉を閉めて周囲を見渡す。

 モーニング娘。だった頃に、何度となく挑んできたレコーディング。
 その「現役」だったころに現場でみた機材がいくつも散在している。音楽関係の機材にはなぜ、あれほどにもボリュームみたいなツマミやあとボタンやコードが多いのだろう、とメカや楽器に今も昔も縁がない吉澤は思う。そこにあるのは、ほとんど今の生活には関係のないし興味もないものばかり。
 しかしそんな中で、部屋の一角に陣取っている、どっしりとしたデスクトップパソコンにだけピタリと目が留まる。

(たぶん「マック」ってやつだ)
 今の時代、音楽作りにコンピューターが欠かせないものになっていることぐらいは、いくら吉澤でも分かる。だが吉澤の持っている自宅のパソコンはというとメールチェックやごくたまにネットを巡回する程度で、やってる事は携帯端末とあまり変わらない。
 なにせ未だに吉澤は自分の使ってるパソコンが「ウィンドーズ何々」なのかすら、知らないのであった。それゆえに具体的にパソコンでどう音楽づくりするかということも、まったく理解できないでいた。

 クリアなガラスで仕切られた向こうの部屋にはマイクやギター、スピーカーなども置かれている。
 それにしてもこの空間。雰囲気。
 カーペットを一歩一歩踏みしめる毎に、くぐもった音が静かな室内に響く。
 実際はもっと広かったかもしれない。本当は常に音が流れていたような気がする。常にスタッフの話し声も聞こえていたような気がする。
 そして確実にいえること―――いつも仲間がすぐそばにいた。

T E N

 吉澤にとって、歌の世界から遠ざかって5年経つ。
 そんな世界に未練がないといえばウソになってしまうが、吉澤は決して今の生き方を後悔しているわけでもない。
 現在「おなべバー」を経営している吉澤には、その生き方に共感してくれた人達が何人も支えてくれている。
 ほとんどが、あの事件のあとで知り合った人たちだ。
 ある人は店の経営を管理したり、ある人はプロモーション支援を申し出てくれたりと、吉澤の足りない部分を精一杯フォローしてくれている。そのお陰で、いくつかの嫌がらせを受けたりはするものの(それも成功すればこそだが)、順調に夜の街でもその地位を固めていっている。

  運がよかったんだな。

 吉澤はそう思う。仕事が順調にいっていればいるほど、自分にはカリスマがあるだの実力があるだのと自惚れてしまうのが普通だ。実際、モーニング娘。だった頃の吉澤自身がそうだったように。あの頃は、若かった。勢いで何でも乗り切れるような気がした。
 でもあの事件で、すべてを見る目が変わった。
 自分たちが薄氷の上で、いかにつま先で絶妙なバランスをとりつつ立っていたかが分かった。
 武道館爆破事件を境に、マスコミは同情という仮面を被りながら次々とメンバーのプライバシーを暴いていく。
 怪我が完治して、その後どんな場で誰と会っても周囲の自分を見る目が以前とは全く違ってしまっていることに、吉澤は愕然としたものだ。

 今は違う。自分ひとり、の本能の赴くままに生きていたあの頃とは違い、周囲との関係性を重視する冷静な目も備わってきたと吉澤は自分なりに分析する。
 所詮人間は一人では生きていけない。ならばどう他人と接していくか。どの人間にも裏表がある。それを見極める能力は人生において重要な意味を持つが、その動物的カンが吉澤には生まれつき備わっていたのかもしれない。
 そうでなければアイドルだったという知名度だけで、短期間で現在のような成功をおさめることなど到底出来なかったはずだ。

T E N

 それにしても吉澤にとって気になるのは―――なぜこの部屋の電気がついていたのか? ということだ。

 石川が来て、電気を消し忘れたのだろうか。それとも自分がここに来る直前まで誰かがいて、何らか理由で突然姿を消したのだろうか。とにかく、隅々まで調べないことには薄気味悪くてしょうがない。そう感じた吉澤は、ひとまず奧のブースへと進んだ。
 すぐ右の壁に「保管庫」というプレートが貼られたトビラがある。ドアノブに手をかけるとあっけなく開いた。吉澤には「庫」と名前のつくものにはカギがかけられているものだという固定観念があったので、少し面食らった。
 そこはさすがに電気はついていなかったので、暗闇をまさぐり右の壁に備え付けられたスイッチをカチっと入れる。中にはドラムやキーボード、ほかいくつかの楽器や掃除機などの家電が無秩序に置かれている。そして本棚。楽譜などが整理もされず平積みで置かれている。
 もちろん譜面が読めない吉澤だったが、もしかしたら5年前の後藤のレコーディングの夢の跡、のようなものが残されているかもしれないと思った。1冊1冊丁寧に取り出して調べてみる。かなり長いこと手が付けられていなかったのか、あたり一帯ホコリが舞い吉澤は思わずせき込む。

(これは・・・?)
 ほとんどが薄っぺらい中綴じの冊子が多い中、ひとつだけ分厚くてタイトルも何も書かれていない赤い革張りのハードカバーの本を見つけた。中をパラパラめくると、ほとんどが真っ白な紙で手書きの文字が書き込まれているのは冒頭の数ページのみ。知らない人が見ると日記帳に見えるかもしれない。
「コミュニケーションノートだ、このスタジオの・・・!」
 モーニング娘。が通っていたスタジオの控え室にも置いてあった、あのノート。レコーディングで準備を待っているアーティスト達が、暇つぶしに自由に読んだり書き込んだりできる雑記帳だ。
 だがこのスタジオで収録したアーティストといえば、吉澤もよく知っているあの一人のみ。

 吉澤は改めて、じっくりと最初の1枚目をめくる。
 ページを開く手が震えた。

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