|
|
|
「ねー・・・何かあったの?」そう後ろから安倍に声を掛けられ、吉澤もやっとハッと我に返った。矢口は浴槽にもたれかかって、両手で顔を覆い隠し泣きじゃくっている。 吉澤が矢口の叫び声を聞いて部屋、そしてバスルームの中に入り、そこで内側が赤く染まった便座を目にする。慌てて矢口がそれを隠したが、吉澤自身も予想だにしなかった光景に茫然とするしかなかった。安倍に声を掛けられるまで、どれだけの時間そこへ立ち尽くしていたのか分からないほどに。 「う、うん、大したことなくて・・・ちょっとビックリして・・・」吉澤もそう答えるしかなかった。「Alive」の部屋の入口から半分だけ身を乗り出して安倍がその「ビックリ」の意味を訊こうとしたとき、下の階から誰か呼びかけている声が聞こえてきた。 「あのー!」微妙な訛り具合から、その声の主は高橋だと分かった。 おそらく居間は吹き抜けのため、2階の廊下に響きわたった矢口の絶叫が下の居間に集まっているメンバーの耳にも届いたのだろう。 丸くなって泣いている矢口。うろたえている吉澤。それを見て、安倍がもう一度尋ねる。 「怪我とかなーい?」それは見た目あきらかだが、確認の意味もあるのだろう。 矢口は小刻みに首を縦に動かす。吉澤も「う・・うん」と頷いた。 それを確かめると、安倍は居間の方向に走り去っていった。しばらくして何か安倍が居間の下の階にいる者に弁明している声が聞こえてくる。とりあえず吉澤自身も動悸が治まらないものの、この衝撃を下の階にいるメンバーにまで伝搬させる必要はないと思った。 こうした特殊なイベントで、お互い過敏になっている。 だが吉澤と石川が、辻の姿を見たのを表沙汰しないことを二人で誓ったのと同じように、このこともあまり波風を立てない方がいいような予感がしたのだ。 「矢口さん、立てますか」吉澤は矢口の震えている肩に静かに手を添えて、とりあえずこの場を離れようとした。 さきほどまでショックで腰を抜かしていたようにも見えたが、よろめきながらも立ち上がる矢口。一刻も早くこのバスルームから出たいという気持ちは、彼女も同じようだ。乱れている衣服―――オーバーオールを履き直しながら、フラフラとその場所を後にする。 それを後ろから吉澤は支えながら、一歩一歩踏み出す。 二人が中から出たところで、忌まわしい空間を封印するかのように吉澤はその扉を閉めきった。
矢口がここ数年、芸能界で冷遇されてきたのは吉澤も知ってる。
そんな解散後の苦渋の日々を過ごしてきた矢口にとって、もしかしたらこういった同窓会の場に出席することはノスタルジィ以前に大きすぎるストレスとなって、のしかかっているのかもしれない、と吉澤は思った。
ベッドに矢口を座らせると、ようやく落ちつきを取り戻し始めたようだった。 「何なのよ、ここは・・・」やっと叫び声以外の―――落ちついた矢口の声が聞けた。しかし事態は好転したわけではない。いまだ泣きベソをかいてうつむいている。が、さきほどのパニック状態は脱したようなので、吉澤は詳しい話を聞かなければ、と思った。 「じゃあ、流れ出てきた水が赤かった、と」吉澤が廊下側の壁によしかかりながら、腕を組んで尋ねる。 そこで部屋のドアがガチャ、と閉まる音がした。 「なんとか、ごまかしてきたよ」安倍も部屋に入ってきて、今度はベッドで縮んでいる矢口の隣りに座って肩を抱く。 「だいじょーぶ?」涙を拭いながら、コクコクと頷く矢口。 「で、結局何だったの」と安倍に訊かれて、吉澤は締め切ったユニットバスの扉に視線を移動させるが、あの状況はどうも説明しづらい。要するにトイレの水を流したら、赤い液体が流れ出てきた、ということしか現時点では分かっていない。そこに至るまでどのような経緯があったかは矢口の説明を待たなければならない。 だが確かに「あれ」を血だと判断する材料が矢口にはあったはずだ。考えようによっては、長い間使われていなかったトイレ。水道管が錆びていて、タンクにはそれにより茶褐色に染まった液体が貯まっていたという考え方もできなくはない。そう思ったのは、ちょうど吉澤がいま経営している店で似たようなことがあったからだ。あれはまだ“Doll’s EYE”を開店させる前だった。長い間空いていた貸店舗の下見に行ったとき、なに気に水道の蛇口をひねると赤茶色の液体が流れ出てきて驚いたことがある。不動産業者は苦笑いしながら「ここしばらく使われていなかったからねぇ」と弁解した。 もしかしたらこの部屋も長い間使われていなかったため、タンクに褐色の鉄錆びが混じった水が貯まっていたとしても不自然ではないだろう。そして矢口にとって、流れ出てきたその水が血に見えたとしても。
その考えを、吉澤は矢口にぶつけてみることにした。何よりも矢口には笑顔が似合う。にもかかわらず、5年振りの再会だというのにずっと泣き顔しか見ていないことにこそ、吉澤は動揺しているのだった。
矢口は小さな肩を震わせながら、吉澤の考えの一部始終を聞いていた。
吉澤が、いくつかの慰めの言葉を交えながらその「水に錆びが混じっていただけだった説」を終えた。 「うぐっ・・・違うよ。なんか、ヒック、タンクに詰まったもん。全部水流れなかったもん」 「ああ」その言葉に続けて吉澤は「それでウンコが流れていなかったのか」と言いそうになったが、あわてて喉元で引っ込めた。これ以上矢口を傷つけては、いよいよ真相は解明できないだろう。 嗚咽混じりの悲痛な声とともに矢口は続ける。 「きっとね、なんか動物の死体とかなんかがね、詰まっているんだよ。ヒック、それの血なんだよ」 「まってよ、なんでそんなとこまで決めつけるの?」ここで安倍が口を挟む。 「ちょっと、よっすぃー確かめてきてよ!」 「え? 俺が!?」 「そうだよ、タンクの中に何が詰まっているのか調べてきてよ!」 「そんな・・・さすがにイヤだよ・・・俺だって・・・」何かタンクの中に詰まっている、という矢口の話を聞いて吉澤も自分の立てた仮説に若干自信が持てなくなってきた。確かに赤い液体が流れてきて、そしてその水が全部流れず途中で詰まったとなれば、矢口の言うような「血→タンクの中に死骸」といった符合も、妄想と一言で片づけるわけにはいかないだろう。 「ちょっと、それでも男の子なの!」と、安倍が真顔で叫ぶ。 「はぁ?」と吉澤は顔を歪める。こんな時だけ(だけ、といっても安倍に再会してまだ間もないが)自分が男になったことを、都合よく持ち上げる態度に吉澤は少しだけカチン、ときた。 「くっくっくっく・・・」そんなときに、意外なところから笑いを必死に抑えようとしている声が聞こえてきた。矢口だ。 相変わらず頬は涙に濡れているが、目は泣いていて口元は笑ってるという微妙な表情のまま、矢口は再びうつむいた。 確かに第三者から見たらヘンな会話だったかな、と吉澤も思い始めてきた。自分のことで笑われたにもかかわらず、どこかすがすがしいのは、やはり矢口の笑顔の片鱗でも垣間見ることができたことに起因しているのだろう。 「・・・とにかく・・・俺はゴメンだよ」吉澤は安倍の要求を突っぱねる。 「たしかにさぁ、ネズミか何かが足を滑らせて貯水タンクの中に落ちて詰まっているのかもしんないけどな」吉澤はこの論理が矛盾だらけなことに、言いながら自分自身気がついた。 閉めきったタンクの中に、どうやってネズミが落ちるのか? 仮に何らかの弾みで落ちたとしても溺れ死ぬだけで、水が血に染まることはないのではないか? それにネズミほどの小さな身体で、あれほど真っ赤になるだろうか? やはり錆びた水道水がタンクに貯まっていて、流す際になんらかの原因で、途中水が詰まったと考えるしかないのではないか。少なくてもその結論に達しないことには、ほかに―――考えたくはなかったが「人為的」な仕掛けであったという推論もそのうち出てくるかもしれない。それによってお互い疑心暗鬼になることだけは避けなければならなかった。
しばらく沈黙が続いた。 「そういえば」矢口は思い出した。
曲がりくねった長い山道を経てやっとたどり着いた、圧倒的なスケールのこの屋敷(つんく邸♂)を外から見上げたときのことを。 「なにが、そういえば、なの? やぐ・・・」安倍が下からのぞき込む。いつの間にか嗚咽の治まった矢口が、固い決意のようなものを秘めた目で安倍に語りかける。しかしそれは、さきほどの安倍の質問に対する答えでななく、自分自身に対して言い聞かせているような口調の言葉だった。 「わたし・・・この部屋イヤ。替わってもらう」 |
|
|
next to ... 第53話 安倍と吉澤 |
|
|
最初に戻る ■ トップページ |