第55話グラデ左 グラデ右矢口と石川

 どことなく居間にいる紺野と加護は、元気がなさそうに矢口の目には映った。
 彼女らに、わざとおどけて「チャーミーは?」と訊き指さしたドアを開けるとそこは厨房で、予想通りというか高橋といっしょに慌ただしく動き回っている石川がいた。
「やっぱり夕食ちょっと遅れそうかな?」
「安倍さんとかぁ、お腹空いてないといいんやけど・・・」
「余っているパイぐらい食べればいいのにね」
 そう言いながらピンクのチェック柄のオーブンミトン(なべつかみ)で電子レンジの中から何かを取り出そうとしている石川に目が合った。
「あっ矢口さん!」
 ドアの前に照れ臭そうにチョコンと「置かれている」ような矢口の姿を発見した石川は、高橋に二言三言料理についての助言をして、なべつかみを手渡す。
「石川、ちょっと・・・」
 矢口は石川と二人きりで話をしたかった。あたりを見渡すと部屋のすぐ左手にドアがあるのを発見し、そこへと歩み出す。
 手招きをしながら隣りの部屋へと誘うと、石川も駆け寄ってくる。矢口が扉を開けるとそこは食堂だった。
 大理石の床。細長いテーブル。食器棚には使うのが惜しいくらいのきらびやかな皿やグラスが並ぶ。部屋の奧には2階への階段や、暖炉が確認できる。
 テーブルの上には燭台や白いクロス、ナイフやフォークがぎっしり詰まっているるカゴなどがあり、およそ1時間後にはここで元モーニング娘。の面々が一堂に会して、石川たちの料理に舌鼓を打つのだろう。
(でもその前に、やらなきゃいけないことがある)
 広々とした食堂の中で対峙する、顔面蒼白の矢口とコスプレのようなメイドファッションに身を包んだ石川。後ろ手に音もなく扉を閉めた。
 それを見て、スタイルがいいのでハマっているもののやはりここを「異空間」と感じさせた大半の要因は、この石川(そして吉澤)のコスチュームにあるのではないか、と矢口は思う。その思索が再び堂々巡りを繰り返し、やがて先ほどの自分の部屋での出来事が蘇ってきて(長時間の運転による、体力的な消耗もあるが)ふらっとよろめいた。おぼつかない足どりで、椅子にもたれかかるように座り、テーブルに肘をつきながらため息をつく。そして再び、立ち尽くしているコスプレ少女を観察する。
 あの厨房での様子を見るまでもなく、さっさと用事を済ませ再び料理の続きに取り掛かりたい、といった雰囲気を全身から滲ませている石川。
 ドアから3・4歩のところで立ち止まり、やや距離を置いて矢口が話し出すのを素の表情で待っている。
「あの・・・私の部屋あるじゃん? あそこの・・・」
「ああ、ゴキブリ出たんでしたっけ?」
 矢口は最初、石川が何を言っているのか理解できなかったが、それが安倍の言っていた、叫び声に対するとっさの「ごまかし」のことだと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
「う、うん。で替わってほしいんだけど、空き部屋があったら」
「うーん・・・確かに西棟に空きがひとつあるけど・・・あんまり、掃除していないし・・・」
 それに、ソコは保田さんの部屋にするつもりなんだけどな、と言いかけたが矢口がその言葉を遮る。
「いや、多少汚くてもいいからさ、そこにしてくれない?
 ゴキブリいる部屋で寝泊まりするのだけはゴメンなんだよっ」
 矢口がそのテの虫が苦手なことは、モーニング娘。だったころからさんざんネタにしてきたので石川も知らないはずはないが、わざとらしいくらい大袈裟にそう主張する。
「でも、その部屋にもゴキブリいるかもしれないよ? 汚いし・・・」
 そう言われて、確かにゴキブリのいる部屋を嫌って汚い部屋に行こうとする行為にどこか矛盾も感じたが、今はあの「Alive」の部屋を離れることが矢口にとって何よりも優先すべき事項だった。
 あんな不気味な部屋で一晩過ごすなんて気が狂ってしまいそうだ、と。
「別にいいよ! ちょっとぐらいなら自分で掃除す・・・」
 ウソをついていることを悟られぬよう、無意識のうちに目線を合わせないで石川との会話を続けた矢口。そのうつむき気味の彼女の目に、唐突に飛び込んできた、食堂の床を素早く這い回る小さな影。
 喉元まで叫び声がこみ上げてきた。
 今まさに話題にしていた、茶色くて平らな害虫がそこにいたからだ。
「ひっ・・・」
 矢口はさきほどのトイレでの赤い液体の出来事に比べれば、それほど驚くべきことではないにしろ本能的に身をひいて椅子から逃げ出そうとした。しかし次の瞬間、ゴキブリの出現よりもある意味驚愕の場面を目の当たりにする。
「えいっ!」
 石川が左足を大股開きにするように伸ばして、前を通りかかろうとしたその害虫を靴で覆い隠す。
 ローファーの黒革にマスコットのリボンがついている可愛らしいデザインの靴と、その行動のギャップに唖然とする矢口。
「えっ・・・? いしかわ・・・」
 口をぽかん、と開けている矢口を特に気にする様子もなく石川は―――そのゴキブリを踏んだ―――左足を軸にツイストを踊り始めた。
(!!)
「ふふっ。うふふふふっっ」
  ぐちゅっ。
  にちゃっ。

 石川の軽快なダンスと、虫が潰れる薄気味悪い音。そして無機質な(少なくとも矢口の耳にはそう聞こえた)笑い声。

(どうしちゃったの、石川・・・?)
 突然の出来事だった。
 なぜ石川が壊れたのか。
 この石川が本当の石川なのか。
 やはり見かけは普通でも、あの事件でマトモな精神を繋ぎ止めているネジが何本か外れてしまっているのだろうか。
 この屋敷に来てから、矢口は結論の出ない推測ばかりしている。
(とにかく何かヤバい。この空気はヤバい)
 矢口は確信した。
 この屋敷に漂うイビツな空間。その源はこの娘にあるのだ、と。
 石川はダンスを終えてフーッ、と一息ついて矢口に向き直って何かを喋ろうとした。・・・が。
「あ、あ、あの」
 矢口の震えた声に石川は、なぁに、と迷子になった子供に話しかけるような笑顔でその続きを待った。
「あのぉ、そっそれから、できればバケツみたいなのを、欲しいんだけどっ」
「ん〜何に使うの?」
「いや、ちょっと・・・できれば2つ」
 石川は顎に人差し指と親指をあてて考え込んでいたが、やがてエプロンのポケットからカギ束をジャラジャラ取り出した。
「これ・・・でこの家のカギ全部開くから・・・多分バケツは裏庭の物置小屋にまとめてあるかな。ハイ」
 そう言ってぽーん、とぶっきらぼうに矢口に向かってゆるやかな放物線を描くようにカギ束を投げた。
 矢口は眉間に皺を寄せながら、恐る恐るそれをキャッチする。視線を石川の左足に向けるが、無惨に踏み、ひねり潰された死骸は未だに靴の下にあるようで、見ることができない。見たくもなかったが。むしろ見えなくて幸いだった。
「・・・・・」
 首をかしげている石川には一瞥もくれずに、矢口は無言のまま礼も言わずに居間へと逃げ出すように去っていった。

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