第58話グラデ左 グラデ右紺野と矢口

(なんでだろう・・・?)
 紺野は「Alive」の部屋のベッドに座りながら、頭の中に疑問符をたくさん浮かべていた。
 バスルームからは、矢口が何か水でバシャバシャしている音が聞こえる。

 順を追って、振り返ってみる。

T E N

 加護と紺野、居間で二人話し合っていたときに、青ざめた顔で食堂から戻って来た矢口。

「ちょっと紺野、ついてきてくんない?」
 反論は許さない、といった口調に気圧され紺野は矢口の行きたがっている裏庭の小屋まで案内することになった。加護に後ろ髪を引かれるような想いで、居間からエントランスホールを経由して外へ出る。西回りに、西棟と中庭の間に位置する小さな物置小屋にたどり着くまで、矢口は一言も口をきかなかった。何か考え事をしているようにも見えるし、怒りを抑えているようでもある。
 紺野は声を掛けづらかった。

 途中、西棟の裏口あたりで安倍とすれ違った。少し驚いている様子だったが、笑顔で軽く会釈する。それに対しても矢口は特にお喋りすることもなく、軽くうなずく。

「ど、どうも」
 紺野も、そう声を振り絞るのが精一杯だった。

 物置はプレハブの、入口が広ければ車庫にも使えそうなくらいの空間はあるかといった古い小屋だったが、窓ひとつないため、中の様子はよくわからない。この屋敷は周囲は青々とした芝生に囲まれているが、芝刈り機などはよく使うためなのか、小屋の脇に放置されている。こんな山奥に、屋敷の中ならいざ知らず庭いじりの道具ばかりと思われる小屋が盗難の被害に襲われるということは考えにくく、なぜ鍵がかけられているのか紺野はよく分からなかった。
 矢口が小屋の扉の前で、重そうな束の中から合鍵を探している姿を、背中ごしに紺野はぼんやりと見つめていた。
 プレハブの扉に目を移すと、ノブのほかにも南京錠がかけられておりやけに厳重だ。
 2〜3分奮闘した後で、二重のロックを外し中へ入るとホコリとカビの臭気が充満している。その厳重さから、何か珍しいものでもこの倉庫には置いてあるのかという期待があったが、見事それは裏切られた。
 予想通りというか、その場にふさわしいというか、鍬・スコップ・シャベル・ジョウロ・枝切りハサミ等の庭道具や農薬のビニール袋などが目に付く。薄暗い中で矢口はその中から、水色のプラスチックのひとまわり大きなバケツ一つとアルミ製の普通の大きさバケツ二つを手に取り、ようやく口を開いた。

「じゃ、行こっか」
 矢口は目的の物を持ち出すと、あとのものには全く興味を示すことなく扉を閉め紺野に大きいほうのバケツを持たせた。
「一体何に使うんですか?」
「秘密」
 居間に戻ると、加護の姿が消えていた。
「あれ? 加護ちゃ・・」
「トイレでも行ったんでしょ。紺野、悪いけど・・・しばらくあの部屋にいてくんない?」

T E N

 そして現在に至る。
「何を手伝えばいいんでしょうか?」との紺野の問いに矢口はぶっきらぼうに

「別に何もしなくていいから、そこのベッドで座っていて」
 とだけ告げた。
 数分間、湯船に水を注ぐ音が聞こえてきた。
 風呂にでも入るのだろうか・・・でも何故?と紺野は色々あやしい想像をしたが、そのうち水をぶちまけるような音が聞こえてきた。
 矢口がなんで私を選んで、どうして何も手伝わせずにそこに座っていろと指示したのか、紺野にはサッパリ分からない。ただひとつ言えることといえば、矢口は何か隠し事をしているということだけだった。
 そして、その秘密はバスルームにあるのでは、と。

 バシャ、バシャ。

 7〜8秒置きぐらいに水をかける音が10回程くり返されたのち、ようやく一仕事を終えたような顔で矢口はバスルームから出てきた。

「ど〜したんですかぁ、矢口さん。ウンチョスでも詰まってそれを流していたとか・・・」
 軽い冗談のつもりで言ったのだが、矢口は目を見開き、眉間にシワを寄せてこれ以上ない程の憤怒の表情を示した。紺野の声はだんだん小さくなり、途切れた。
「ふん、よっすぃーにでも聞けば」
 この話題に触れるのはもうやめよう、と紺野は心の中で誓った。
「矢口さん、そういえばこないだテレビに出てましたよね・・・」
「208号室ってどこ?」
 矢口は紺野の雑談をまったく無視する形で用件だけを告げた。言葉のキャッチボールを成立させようという意思がまるで感じられない。
 そこでまた、紺野は頭の中にギッシリ詰まっているクエスチョンマークがひとつ増えた。
(なんで、これほどまで心を閉ざすようになったんだろう? 矢口さん・・・)
 納得いかない。それでも答えるしかない。
「私の個室の前に使われていなかった部屋があったんで、たぶんそこだと思いますけど・・・」
 しかし、それは保田の部屋になる予定だった。
「うん、そこにお引っ越ししようと思ってね」
 矢口はベッドの脇に置いて合った、自分の赤い手提げバックに視線を移した。それを持って今すぐにでも移動するつもりだ。紺野にとっては、矢口の行動に一貫性が見られない。
「ありがと、紺野」
「え・・・ちょっと待って下さい・・・矢口さん・・・」
 そのバックに手を伸ばした矢口を、慌てて紺野は身体全体を使ってでさえぎる。
 沈黙。
 オロオロするだけで、何か言いたいことがあっても言葉にならない紺野。
「変わってないねぇ、あんたも」
 妙な間。
「・・・矢口さんは・・・ちょっと変わりました・・・」
「変わった? そっか・・・私は変わったつもりないんだけどね・・・」
 周りが―――世間が私たちを見る目が変わり過ぎたんだよ、と言いかけたが矢口は口をつぐむ。
「あの、何が起こったのか、よく分からないんですけど」
 そこでまたタイムラグ。
「ひとりで色々悩むのは、良くないと思います」
 なんでもない紺野の一言だったが、矢口はハッとした。
 ビー玉のような紺野のギョロっとした目。しかし、確かにその瞳の奧には強い意思表示みたいなものが含まれていた。後から考えてみると、モーニング娘。だった頃も含めて、紺野が矢口に意見をしたのは初めてだった。

 矢口は、あまり紺野のことが現役時代は好きになれなかった。
 周囲の状況に臨機応変に立ち回りアピールすることを得意としていた矢口だったが、辻や紺野など、存在だけでその場の雰囲気を変えてしまうタイプのキャラには通用しないことが多かった。
 綿密に立てた段取りが潰され、自分が引き立て役になってしまうことに納得いかなかったのだ。

 いま、紺野をそばにいるように指示いたのは、単に矢口が一人でいるのが恐かったから。この屋敷―――とりわけ、あんな薄気味悪い出来事が起こったこの部屋で一人きりでいるのは耐え難い。
 だから、バケツを探して、この部屋の便器の中(赤く染まるだけならまだしも、その中には矢口の最も他人に見られたくないモノまであるのだ!)を湯船の水で流すまでは誰か側にいてほしかった。現時点で消去法で選出したところ、居間でまったりとくつろいでいる紺野になったというだけの話だ。

 正直、紺野には相談相手になってもらおうという気はさらさら無かったし、単なる番犬のような見張り役にするつもりで呼んだのだ。

 だが、妙に心が暖かくなった。
 もしかしたら、矢口が今一番求めているのは「普通の人」なのかもしれない。そしてこの屋敷の中でそれに一番近いのは、この娘なのかもしれない。

「ふふふっ」
 紺野が声を出して笑うのは現役時代を通しても、珍しい。
「矢口さん、初めて私の前で笑ってくれた」
 そう紺野に言われて、矢口は知らず知らずのうちに自分が微笑みを浮かべていることに初めて気が付いた。

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