第62話グラデ左 グラデ右保田と後藤

 ポートランドの外科専用施設で、保田が電話を受け取ってから6時間後。
 深夜だというのに、大都市・サンフランシスコの警察署はやけに慌ただしい。
 保田はそこの受付に、さきほどの電話でメモした警官らしき男の名前を告げて、雑音飛び交う待合い室のベンチに座りじっとうつむいていた。

 不思議と保田に気持ちの高ぶりはない。
 涙だって出てもおかしくはないはずなのに。
 しかし6時間前に電話を受け取ったときよりもさらに落ちつき、今は何の感情も沸いてこない。
 ただ事実として、保田は電話を受け取ってからここ警察署まで最速といっていいスピードで来てしまった、ということ。
 例えるなら車のギアをニュートラルにしたまま、急な下り坂を引力にまかせてブレーキを使わないで走り下りたかのような感覚。

 しばらく待っていると、頭のはげ上がった小太りの男とその部下と思われるひょろ長い若い警官が現れた。声から察するに、この小太りの男こそが電話してきた本人のようだった。この二人に、下へと向かう階段に案内された。その先の廊下は、地下ということもあり室温はもともと低いが、それに加えて水色の床と廊下内に響きわたる警官の革靴の音が、より一層寒々しい雰囲気を演出している。

 両開きの、病院でよく見かけるような無機質の扉を開いて部屋に通された。
 駅のコインロッカーをひとまわり大きくしたような、横にながい長方形の引き戸がいくつも並んでいて部屋一面を取り囲んでいる。

  この部屋は何かの映画で見たことがある。
  でも、まさか自分がそこに来ようとは・・・。

 夢にも思わなかった。
 なぜなら保田が今立っている部屋は―――。

 小太りの警察官は手にしているファイルに書かれた名前と数字を確認して、部下にコードナンバーのようなものを告げた。
 保田はそのファイルを横目でのぞき込む。
 名前の欄に、殴り書きの文字で「Maki Goto」と記されている。

 この期に及んでもまだ、保田には深い感情らしきものが一切浮かび上がってこない。
 事件が起こってからの3年間、自分と後藤の間にはどんな結びつきがあったのだろう。
 近くにいるけれども、遠い存在。ミステリアスな存在。羨ましさもあったし、悲哀を込めた同情心も少なからずあった。手を伸ばしたらすぐにでも届きそうなところにいるかと思えば、遥か地平線の彼方に既に消えているかのような感覚に陥ることもある。

 わからない。
 そういった矛盾に近い感情でいる自分を許していたツケが、いま一気に回ってきたような気がする。
 あらゆる事態に対して感情が鈍くなっているのかもね、と保田は冷静に自らを客観視した。そのこと自体、感情的になれない彼女自身を象徴している。

 妄想を膨らませ、自らを感傷的に演出することができれば、どんな事態になろうと心に一定のバリアーを張っているため大きく傷つくことはない。それは大人になるにつれ、誰でも多かれ少なかれ無意識のうちに身につけるスキルだ。逆に無感情のまま、突然過酷な現実に曝されると、むき出しになった心に修復不可能な傷を残すことになる。
 今の保田は後者だ。
 耳に聞こえること、目に見えることをそのまま受け入れることしか残されていない。それは非常に危険な状態といえる。

 部下の気の弱そうな警官のほうはというと、部屋の壁を埋め尽くしている扉のうちのひとつを静かに引っ張った。重々しい金庫のような扉だ。
 音もなく引き戸が開かれると、その中には黒光りのビニール袋に包まれた細長い物体が横たわっている。
 ファイルを手にした小太りの警察官は保田をそのビニール袋の脇まで行くよう促したが、足が震えてなかなかスムーズには歩けない。恐怖とか、悲しみといった類の震えではない。禁忌(タブー)に触れるような行為に対して、本能が身体に拒絶するように信号を送っている、といった感覚に近い。
 警察官もこういった場面には慣れているのであろうか、保田が一歩一歩前に進むのを何も言わず、ただじっくりと待ち続けていてくれた。
 距離にしてたった5メートル程だったが―――保田がそのビニール袋の横まで、やっとたどり着いた。

 細身のほうの警官が目で「覚悟してください」といいたげな視線を保田に投げかけて、ビニール袋のジッパーをゆっくりと引き下ろす。

 中から青白い顔が出てきた。
 くぼんだ目の周りは浅黒く変色している。
 右のこめかみにはガムテープのようなものが貼られていて、それと肌のすき間から血がにじんでいるのが分かる。
 死んだばかりの人に対して「今にも目を覚ましそうな綺麗な寝顔で・・・」といった表現を日本はよく使う。
 しかし保田の見たそれは、目を覚ましたり、動いたり、息をしたり、もしかしたらそういったことが起こるのではないかといった生命力がまるで感じられない。
 マネキンのようだ。ただの、肉のカタマリだ。

  それでも認めざるを得ない。
  間違いない。
  この遺体は、後藤真希である、と。

 そこで初めて、保田の目に熱い涙が溢れて出てきた。

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