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矢口は広い居間に一人取り残され、ようやくソファに頼りなさげに寄り掛かっている黒いボストンバックが目についた。保田が持ってきた荷物だ。(そういえば、圭ちゃんはどこで寝るんだろ)石川の話では、当初(とはいっても、彼女自身保田がこの屋敷に来るのを知ったのは今日の午後になってから、高橋の一言がきっかけだった)客室の空き部屋である208号室(Memories)に急遽、保田の部屋として割り当てる予定だったと言っていたが、それは矢口が無理をお願いして変更してもらった。 (となると、現在の空き部屋は本来私が入る予定だった203号室・・・)2階東棟の3部屋あるうちの一つ。何の変哲もないシングルルーム。しかし矢口がこの屋敷に来て、しばらくしてその部屋で背筋が凍るような「ある不気味な事件」が起こった。 トイレの浄水が赤く染まるという――― (とにかくあの部屋には近づきたくない)矢口はかつて自分が腰を抜かした、その部屋の方角をじっと見上げる。 安倍は現在、その部屋の対面にあたる202号室にいるはずだ。よく平気で一人でいられるな、と思う。 もっとも、安倍はあの真っ赤に便器が染まった現場を直接目撃したわけではない。この「事件」を知っているのは矢口と吉澤と安倍。吉澤は偶然悲鳴を聞きつけて、部屋へと駆け込みユニットバスで追いつめられた鼠のように怯えている矢口を発見した。それと同時に血まみれ?の例の便器も見たのだが、安倍は伝聞でしかその出来事を知らないはず。その辺の印象の違いはあるのかもしれない。 矢口は、脳天気な安倍の性格を知っている。お花畑が咲いている頭の中は5年を経った今でも健在だな―――と、そうであってほしいと願う希望も含めて思った。 (でも・・・そうなると圭ちゃんが自分の代わりに203号室に泊まることになるの?)矢口は複雑な気持ちになる。 あらかじめ話を聞いて知っていたとはいえ、5年振りの再会となる保田の変貌には目を見張った。 女の命ともいえる顔をあの武道館の事件で失った。 失ったのに、内面から溢れ出るあのオーラは何だろう。 違和感。 イヤな雰囲気ではなくて、でもかつて自分の知っていた庶民的で素朴な保田がどこか遠くに行ってしまったような気がして矢口は寂しくなった。ギラギラした野望は当時も今も双方ともに持ち続けているのに―――少なくとも矢口はそのつもりだし、保田に関しては言うまでもない―――他のメンバーに対する想いと同様「置いてきぼり」にされた感は否めない。 特に矢口と保田は同時加入の2期メンバーとして苦楽を共に分かち合った仲だ。第1次追加メンバーとしての風当たりの強さは、その後の慣例化した増員とは明かに異なっていた。オリジナルメンバーからの、冷たい態度に耐えなければならなかったし、ファンの間では増員反対の署名運動が起こっていたことも後になって知った。それほどの拒絶反応に耐えつつポジションを確立していったのだ。 時には影に隠れて先輩メンバーの文句をお互い吐きつつ、当時まだ在籍中だった市井と枕投げをした日々。 テレビで目立てないといった些細なことから、将来に対する漠然とした不安まで何でも相談し合った日々。 (圭ちゃんはまだ知らない・・・この屋敷には何か・・・分かんないけど何か普通じゃないコトが起こりそうな・・・そんな気がする)そして矢口も、少なくともこのつんく邸で一泊はしなければならない。 (寝れるわけない、一人でなんて)たとえ部屋替えしたとしても・・・そして職業柄コンサート等のイベントによる地方での宿泊に慣れていようとも、矢口はこの屋敷では安眠どころか寝付くことさえ困難なように思われた。 ほんの数時間前の、あの真紅に染まった便器の内側の画が脳裡にこびり着いて離れないのだ。 部屋にあるのはシングルベッドだが、矢口ほどの小さな身体なら無理矢理でも二人で寝ることも可能な気がした。 問題は、その一緒に寝る相手が誰であるか、ということ。 消去法的に石川・加護・飯田たちは最初から除外しておく。タンポポの面々とはラジオなどで仕事する機会も多かったが、現在の彼女らは独特の世界観と雰囲気を自らもう成立させており、立ち入る余地は無いと矢口は感じている。 ―――安倍はどうだろう。 ここの人里離れた屋敷まで一緒に車でやって来た。つき合いも長いが、不思議とここ数年はそれほど親密な関係にはならなかった。さきほどの食事が終わったあとの態度でも感じられたが、どこか違う一段高いステージから話しかけられているような疎外感。 (なっちは・・・うーんキープかな)―――吉澤は。 無理だろう。嫌いなキャラクターじゃないが男になってしまった。添い寝に応じてくれるだろうが、やはり万が一でも間違い(どんな行為をもって「間違い」なのかはよく分からないが)が無いとは言い切れない。 (よっすぃーは・・・隣りの部屋同士になるけど、やめとこう)―――じゃあ5期メンバーの二人は? 先輩の立場を利用して、付き添ってもらうことも可能だろう。紺野と高橋、どちらか一人でいい。 (紺野にしよっかなぁ・・・でも)―――そうなると保田は、そのままスライド式に空き部屋となった203号室に宿泊することになるだろう。 トイレから赤い液体が溢れ出たあの部屋に。それには矢口の良心が少なからず痛む。 あの現象は確かに恐怖体験ではあったが、自分の思い過ごしということもありえる。それを差し引いても、理由を伏せたまま本来自分が使うはずだった、薄気味悪いあの部屋にかつての盟友を泊まらせるのは人間・矢口真里の生き方にに反していると思った。 (圭ちゃんを誘ってみよう)矢口は、保田と一緒に寝てくれないか頼み込む決意を固めた。 保田がいるはずの2階のバーへ向かうべく、階段の半ばまで登ったところでメールをするために自分の部屋に戻っていたはずの安倍に遭遇した。 「あれ? なっち、やけに早いねぇ。もうメールや電話終わったの?」安倍は静かに首を振る。 「ううん、あのね・・・無いの」 「無いって、何が?」渡り廊下から見下ろす(もともと背の低い矢口は誰かを見あげること、そして見下ろされることに慣れていた)安倍の表情は泣くとまではいかないまでも、暗く沈んでいた。 「部屋に置いてあったね・・・携帯電話が・・・」 「なっちのって・・・あのゴツイ衛星対応の?」 「うん、その衛星ケータイが・・・どこ探しても無いの」 |
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