第110話グラデ左 グラデ右保田と飯田

 むしろこのバー、この雰囲気で、あれだけ愛しているはずの音楽が今まで無かったのが不自然なくらいだった。でももしジュークボックスが音楽を奏でていたら、果たして飯田はピアノを弾いただろうか?
 偶然が必然を待っていたのか、必然が偶然を誘ったのか。とにかく今、間違いなく目の前で飯田はピアノを弾いている。
「いつのまに・・・」
 吉澤はそれ以上、演奏が終わるまで何も言わなかった。
 決して飯田の演奏の巧さに聴き惚れていたというわけではない。実際、所々音を外したり、リズムが狂ってしまう場面も多く見受けられ、お世辞にも華麗な響きとは言えないレヴェルだ。
 それでも、不思議と強く惹きつけられた。
 何があろうとも、いま演奏の妨げだけになるものがあれば、吉澤は徹底的に排除しようとするだろう。
 保田と吉澤、二人の今の状態を的確に表現できる言葉があるとしたら「唖然」や「茫然」といった類になるのではないだろうか。そのふたつに圧倒的なピアノの迫力に圧されての「萎縮」も加えていい。
(何の曲だろう)
 吉澤・保田にとっても聞き覚えの無いメロディ。クラシックでもジャズでも、ましてや娘。の曲のアレンジでもない。
 ただひとつ言えることは、音楽によって感動するということは小手先のテクニックだけではない「何か」があるということ。飯田の魂を振り絞っているかのような旋律を聴いていて、吉澤はそう思った。
「よっすぃー・・・覚えている?『なんでも鑑定団』のときのこと」
 保田に小声で耳打ちされて、吉澤は(突然何を言い出すんだこの人は!?)と訝しげな表情で見つめる。
 だがピアノと自分たちの関連性を思い出し、納得した。
 あれは確かモーニング娘。現役の頃、鑑定バラエティ番組にリーダー、サブリーダー、そして吉澤という珍しい組み合わせで出演したときのことだ。
 吉澤は先祖代々伝わる掛け軸がニセモノと鑑定され、さんざんな結果にうなだれていた(ちなみに吉澤は遠縁にオリンピック金メダリストがいたり、ノーベル賞受賞者がいたりと、妙に血筋がいい)。残りの二人は他の出演者が出品したアンティークピアノ(無論これは本物)で「猫踏んじゃった」を演奏するという余興でお茶を濁した。高級な逸品に安っぽい演目というミスマッチが妙におかしかったのを覚えている。
 その時のことを保田は言いたかったのだろう。

 ポロン。
 飯田が天を仰いで、肩に溜めていた息をふうっと静かに吐き出す。
 数秒が経過し、吉澤はそこでようやく演奏が終わったことに気付いた。
 ほんのささやかな時間だったが、胸の奥から沸き上がってくるほのかな感動を精一杯の拍手に変換し、壇上の飯田に贈るふたり。
 飯田は特に誇らしげというわけでも、照れ臭そうにしているというわけでもない。自分一人のために演奏し、それにある程度納得しているといった面持ちのまま、天井を見つめていた顔を保田と吉澤にも向ける。そして部屋の奥へも。

(・・・でも、この人そんなに上手かったかなぁ)
 演奏が終わり冷静に考えてみて、その一点だけ吉澤は気になった。
 だがそれよりも、遊技場で立ち尽くしながらじっくりと聞き入っていた保田と吉澤の二人以外にも割れんばかりの拍手が沸き上がっていることに驚いた。
 3階より聞こえてきた。
「何? 誰?」
 急いで遊技場とピアノ室を結ぶ階段を駆け上がる吉澤の視界に飛び込んできたのは、ピアノ室の奧の椅子にちょこんと座っていた紺野と高橋。下のバーから見上げている分にはピアノが視界を遮り見えなかった。いつの間にか5期メンバーの二人も、ここで飯田の演奏を聴いていたのだ。高橋に至っては感極まって瞳が潤んでいるが、それでも拍手を止めようとはしない。
「スゴい・・・よかったよぉ」
 飯田は照れ臭そうにはにかんで、ピアノを取り囲むようにして拍手を送る4人に一人づつ丁寧に会釈する。
 紺野も感激はしているものの、吉澤と同じく頭の中に疑問符を抱えているような顔をしている。もっとも紺野は表情を「作る」のが元々苦手なのだが、心に引っかかるものがあるのは確かなようだ。
 飯田は何も言わずにピアノを閉じて、感激しているメンバーの間を縫うようにくぐり抜け遊技場への階段を降りていった。4人は顔を見合わせる。
「照れてんのかな」
「さあ?」
「でも・・・上手だったよね」
「うん・・・」
「もっと聴きたいよね」
 当たり障りの無い感想を交わし合う4人。あの飯田の様子からすると、本当にピアノの腕を見せつけようとか優雅な空間を演出しようといった意図はなく「ただ自分が弾きたかったから弾いた」だけのように見える。それはそれで潔い。そして、そんな演奏に対してあれこれ批評するのは甚だ野暮ったいことであるという共通認識も4人の間で無言で成立した。

 保田はグランドピアノに肘をつき寄り掛かりながら、白スーツの吉澤の肩をじゃれ合うように突っつく。

「よっすぃー・・・あンたやっぱり石川んトコロ行って、自分の気持ちをありのままに伝えてきなさい」
「・・・」
 保田に言われなくても最初からそのつもりだった。吉澤はゆっくりと頷いて、階段を降りていく。
「ん? 吉澤さんの気持ちって何ですか?」
「紺野・・・ええっと〜まあ、よっすぃーはどうでもいいんだけどね。あのね、私あのコと」
 保田はバーカウンターに澄まして座っている、先程までピアノを弾いていた女を指す。
「ふたりきりで話をしたいの。だから・・・」
「ええ〜」
 高橋が情けない悲鳴をあげながら、顔を歪ませて会話に割り込む。
「わたし、私も保田さんと話したかったんにぃ〜!」
「ゴメンゴメン。高橋は後にしてくれる?」
「そんなぁ〜」
「まあまあ、夜は長いんだし。終わったら高橋の部屋行くから」
「ぶうっ」
 口を尖らせて不満をあらわにする高橋の頭を、保田は優しく撫でてあげた。
「それじゃあ・・・待ってますよう。絶対来てくださいね、大事な話なんですから」
「ごめんね」
 その言葉を残して保田はいわゆる“ケメコ走り”で階段を駆け下りていき、カウンターの向こう側に回り込んで飯田のためにカクテルを作る準備を始める。
 その様子をピアノ室の手すりに肘をついて、見守る高橋と紺野。保田はいかにも嬉しそうだが、二人の位置からは飯田は背中を向いているので表情を確認できない。ただ、衣装は夕食のときとは違ってパンツルックに襟の大きな白いブラウス。肩から腕にかけてのシースルーが一層色香を引き立たせ、この独特のフェロモンは、たとえこれから5つ歳を重ねても到底かなわないだろうな、と高橋は溜息が漏れそうになった。

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